書評の部屋(文芸・評論)

風狂の空 平賀源内が愛した天才絵師

風狂の空 平賀源内が愛した天才絵師

著者:城野 隆

風狂の空 平賀源内が愛した天才絵師

江戸時代の後期に非常に有名な画家が存在した。
彼の名は「小田野直武」と呼ばれた。彼は蘭学者であり、作家、発明家であった平賀源内から蘭画(オランダ流の絵画)学んだという。日本画にどっぷり漬かっていたが、オランダ独特の絵画を観て小田野は衝撃を受け、蘭画修行を行った。その後に有名な杉田玄白の「解体新書」の図の描画を任されたのも小田野である。順風満帆と思われた矢先、小田野は30年という非常に短い人生に幕を下ろした。死因については切腹や病死など諸説あり、真相は定かではない。

小田野の代表作もいくつかあり、実際に絵を観ることは比較的容易である。しかし小田野の生涯について迫ることは文献自体が多くなく、平賀源内からも探す必要があるため、なかなか難しい。
そこで本書では数少ない文献からフィクションの脚色をつけて小田野直武の生涯を描いている。文献がない分どのようにして平賀源内と出会い、蘭画の修行をしたのか、そして「解体新書」・杉田玄白の出逢いがこれほどまですっきりとしたストーリーとなっているように思えた。それ以上に解体新書以降、30歳でこの世を去るまで蘭画に対してどう向き合っていたのか、彼は30年の世の中をどのように見ていたのか、死ぬ半年前に平賀源内との別れとどのような心境だったのだろうか、史実は定かではないのだが、本書はあくまでフィクションとして提示している。

歴史という名の潮の中で何人もの偉人が風化させられている。小田野直武はその一人であったに違いない。

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多読術

多読術 (ちくまプリマー新書)

著者:松岡 正剛

多読術 (ちくまプリマー新書)

読書好きであるとしたら「松岡正剛」の存在は知らない人はいない。もとい東京の丸の内にある「丸善 丸ノ内本店」を利用している人であればだれでも彼の名前なら聞いたことがあるだろう。その書店の4階には松岡正剛がプロデュースした「松丸本舗」というのが10月23日にオープンしたからである。
松岡正剛都言えば「千夜千冊」でおなじみであるが、間違わないでいただきたいのは、「千夜千冊」は書評を行っているわけではない。あくまで「体験記」や「読書案内」を取り上げているまでと本人は語っている。

第一章「多読・少読・広読・狭読」
松岡氏は何十万冊ほどの読書を経ている。「千夜千冊」の中には今まで読んできたエッセンスが本の紹介とともに詰まっており、紹介されている本を読むに加えて、松岡氏の論考も味わうことにより、ほんの楽しみを何倍、何十倍にも高めることができる。
著者の読書は至ってシンプルであり、繰り返して読んだり、違うジャンルを読んだりしながら和夫奥の本を読むことにより、複眼的な視点から本の紹介を行うことができる。松岡氏はまさしく「酒仙」を肖った「読仙」もしくは「読聖」と言うにふさわしい方である。

第二章「多様性を育てていく」
松岡氏の生い立ちを読書とともに振り返っている。
私も小学生の頃からほぼ毎日のように図書館に入り浸っていた人間である。平日は放課後に小学校の図書館に足を運び、童話などたくさんの本を借りる。そして週末には市立図書館に足を運びそこでも様々な本を借りた。司書の手違いにより、返却の督促が何度もきたことは今となってはよい思い出である。

第三章「読書の方法をさぐる」
いよいよ読書論の核心に入っていく。松岡氏は読書に関してこう主張している。
「その前にふたたび強調しておきますが、読書はどんな本をどんな読み方をしてもいいと思います。(p.64より)」
読書をするのは人それぞれである。他人の読書術をひたすら実践をする、もしくは独自の読書術を試行錯誤を繰り返しながら試してみることによって、自分にあった読書術を確立していくと言うことをやった方がいいと思う。ちなみに私の読書は前者で失敗したため、専ら後者を繰り返して確立した。
たとえば読書によって感じたこと、気づいたことというのはたくさんあることだろう。そこからどのようにして記録していくのか、残しておくかも人それぞれであるが、著者は本をノートであるかのようにマーキング、で記録をしていくという方法を行うことによって、著者の癖、主張を見極め、「千夜千冊」に転化させている。

第四章「読書をすることは編集すること」
松岡氏は「編集工学研究所」の所長である。その読書を編集をすることによって新たな知識を蓄えるにはどうしたらいいのかや、書き手の技術を鵜呑みにしながらも書き手と読み手とのコミュニケーションをとっている。

第五章「自分に合った読書スタイル」
「読書は個性である」
それは読み方にしても、その感想文や書評の書き方、主張のくせにしてもそれぞれ「個性」がある。目的を持つ「実読」、それを持たない「楽読」にしても細かいところで個性がある。読書は読む本から、読み方までそれぞれ「個人」が現れていると言ってもいい。実際当ブログも最新の本や流行の本を紹介しようと言う気は無く、むしろ自分が気に入った、興味を持った本をありのままに書評という形を取っている。

第六章「キーブックを選ぶ」
多読をしている人には、必ずと言ってもいいほど陥る罠がある。自分の思考が振り幅が広くころころと変わる。それをさけるために、自分の考えの根幹になっている「キーブック」を選びそれを基準にして、どのように思ったのか、と言うのをみていく必要がある。思考のぶれは誰でも生じることであるが、思考の「軸」や「根幹」がぶれてしまっては読書は「劇薬」になりかねないのである。

第七章「読書の未来」
21世紀になってから紙媒体はデジタルに駆逐され始めてきたと言ってもいい。新聞の発行部数や本の出版部数も減少傾向にある。追い打ちをかけるかのように本も「kindle」という電子書籍が日本に上陸してきたことにより、それに拍車をかける心配もある。
しかし様々なところで主張してきたことと同じく私は改めて、「紙媒体はなくならない」と主張することと同じように、「読書はなくならない」と主張したい。たとえ電子化されようとも、紙からデジタルに変わると言うだけで、読書をすると言うことに何ら変わりはないからである。

松岡氏独自の読書術と言うよりも、読書はどうあるべきかと言う考え方が本書にある。ノウハウではない、私たちのような読書人がこれから辿るであろう読書人生にどのような影響を及ぼすのか、長い間ほんとつきあってきた著者が示しているのかもしれない。

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乳豚ロック

乳豚ロック

著者:森田 一哉

乳豚ロック

「ロック」と言えば今年「ロックンロールボス」と称される矢沢永吉が還暦を迎えた。還暦を記念して様々なロックフェスに参加したり、ライブに参加したりと還暦を感じさせない、むしろ還暦を喜ぶかのように、YAZAWAロックを邁進している。
「ロック」という言葉、そしてそれをかもす世界は言葉では言い表せない高揚感と不思議さがある。
その高揚感と不思議さに可笑しさを加えた感じがしているのが本書である。
本書はロックの聖地であるイギリスで起こる関西弁ストーリーというべきだろうか。読んでいてあまりのおかしさに、馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。しかしその馬鹿馬鹿しさが良い意味で妙な高揚感があり、明日からがんばれるという力がある。誰しも生き方を見失うときがある。その時に馬鹿馬鹿しさの漂う本書を読んだら、その見失った苦しみが馬鹿らしくなり明るくなってしまうように思える。そんな一冊である。

著者は大阪府出身で、バンド活動を続け、40代でイギリスロンドンの生活を続けている。本書は実体験をもとに書かれた作品であるのだが、ここまで可笑しく書かれたのは実体験なのか、それとも小説用のフィクションなのか、首をかしげてしまう。

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辻井喬書評集 かたわらには、いつも本

辻井喬書評集 かたわらには、いつも本

著者:辻井喬

辻井喬書評集 かたわらには、いつも本

セゾングループの創業者ある辻井喬氏は、詩や小説、エッセイにも活動の場を広げていた。91年に経営者から一線を退いた後にほぼ完全に文学の世界に活動の場を移し、文学のみならず書評においても活動を行っている人である。辻井氏は経営者になる以前からずっと傍らに本があれば読書を行う。それを人生の歓びとしているほどの読書家ともいえる。本書は辻井氏がこれまでであってきた書物を丹念に評した書評集である。

Ⅰ「先人たちの文業」
ここではわずかしか評されている本はないが、いずれも「名作」と呼ばれるものばかりである。著者自身が最も感銘を受けた、もしくは人生に大きく影響を与えた言わば「座右の書」と言うべきところであろう。
ヨハン・ホイジンガ「中世の秋」、トーマス・マン「魔の山」、邦作であれば川端康成と三島由紀夫の「往復書簡」などが挙げられている。
とりわけ「魔の山」は3つに分けて評されているだけではなく、自分の人生と重ね合わせながら語っているところからすると最も影響を受けた作品、もしくは何十回も、何百回も読み返したという感もある。

Ⅱ「同時代の作家たち」
本章で挙げられている作家は著者と生年が近いことが分かる。同時代に生きた作家たちの作品、それは一体どのようなものなのかを読んで、見て、感じ取ったところを述べたところである。
同時代と言っても有名な著者ばかりで、松本清張、瀬戸内寂聴、丸谷才一、石原慎太郎と枚挙にいとまがないほどである。
特に印象的だったのが瀬戸内寂聴の「秘化」の評である。当ブログでも「秘化」は取り上げているものの掘り下げ方がまるで違い、世阿弥の生涯とエピソード、さらには他の瀬戸内作品との位置付けなど、瀬戸内作品や歴史に精通している人でなければ評すことのできない所まで達しているように思えた。この表を見る度に「私はまだまだだな」と呟いてしまう。

Ⅲ「新たなる文学の予兆」
「文学」も他と同様に進化をする。本章では著者より一世代以上前の文芸作品について取り上げられている。ⅠやⅡで取り上げられている作品より、若干難易度を落とした作品が中心であったものの、数多くの本を読まれているせいか、それらの作品を読みたくなるほどの深みを引き立たせている。

Ⅳ「自然・思想・文化を評する」
思想・文化に関しては当ブログでもいくつか取り上げている。本章では大まかに分けると憲法やマックス・ウェーバーなど政治思想、文学論、自然論に分けられる。まさに章題通りと言うべきかもしれない。
印象深かったのは音楽論も取り上げられているところにある。ベートーヴェンの全交響曲をわずか1日で、全曲通じてタクトを振った経験のある岩城宏之、現代音楽に多大な影響を及ぼした武満徹が本章では挙げられている。

Ⅴ「詩・短歌・俳句の世界」
辻井氏は小説などの文学作品や自然科学などの一般書・専門書のほかに「詩・短歌・俳句」の造詣も深く、それに関する書評も多々行っている。私たちのようにビジネス書や一般書を取り上げている人たちでは、めったに取り上げられない部類に入る。その理由には「詩・短歌・俳句」にはそれに通じる人でなければ語ることの難しい独特の「深み」がある。
当ブログでも、記憶によれば1回も取り上げていなかったと思う。1度はチャレンジしてみたいと思いつつ、本章を読んだ。

よほど本が好きでなければなかなか取り上げられない本ばかり取り上げられていたという印象が強かった。さらには作品を掘り下げながらも、自分の人生と重ね合わせながら評することによって、本の魅力が何倍にも、何十倍にも引き立たせられる書評の凄さを垣間見た。本書は書評の魅力の可能性がぎっしりと詰まっている。

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アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム

アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム (群像社ライブラリー)

著者:ミハイル・アファナーシエヴィチ ブルガーコフ

アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム (群像社ライブラリー)

おそらく戯曲を書評するのは初めてである。
戯曲自体は私自身読んだことがないわけではなく、大学4年生の時にグリーグの曲のモチーフとなったヘンリック・イプセンの「ペール・ギュント」以来である。そもそも戯曲と言うのを知らない人のために少し解説をするが、簡単に言うとドラマや演劇で使う「脚本」や「台本」という形式がそのまま本になっているものを指している。そのためか配役から舞台の設定、表情や表現の仕方まで事細かに書かれているため、あたかも自分がどのドラマや劇を見ているかのような錯覚に陥る。小説以上に感受性が強ければ強いほど舞台背景が見えやすいジャンルと言うのも「戯曲」の魅力の一つとして挙げられる。
さて本書に入る。本書の著者は小説「巨匠とマルガリータ」が代表作として挙げられており、戯曲を作る「劇作家」というよりも「小説家」としての位置付けで有名になった。しかし戯曲も数多く発表しており、本書はその中から2作「アレクサンドル・プーシキン」と「バトゥーム」を取り上げている。

「アレクサンドル・プーシキン」
アレクサンドル・プーシキンは実在した人物であり詩や小説で名声を得た。特に「ルスランとリュドミラ」は後に彼と親交のあるミハイル・グリンカの手によって歌劇として作曲された非常に有名な作品である。また「スペードの女王」もチャイコフスキーの手によって歌劇化されている。
ちなみに本作ではプーシキン自身は出てこないが、プーシキンの妻や姉といった周りの人物が登場する。彼女らのやり取りからプーシキンの知られざる姿と言うのが垣間見える作品である。

「バトゥーム」
ブルガーコフは当時のソ連に対する体制批判の作品を数多く発表したために、長きにわたり当局から弾圧をうけた。この「バトゥーム」もそれに代表される戯曲の一つである。
この戯曲の主人公があろうことか「スターリン」である。スターリンと言えば劣等感が強く、コンプレックスも強く感じる男であった。また権力欲持つ狭量であったため裏切り者や気に入らない者、意見が対立する者を続々と粛清したことでも知られている。「バトゥーム」は粛清とまではいかないものの、狭量やコンプレックスへの抵抗という点で忠実に描写されていた。
ロシアの戯曲と言うのは私自身あまり見たことがないが、チャイコフスキーやグリンカが歌劇化しているということを考えると、まだまだ有名な作品はあると考えられる。本書はその一部を紹介したまでなのかもしれない。

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老い人の町

老い人の町 老い人の町

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日本ではもう20年以上も前から「高齢化社会」である。平均寿命が男女ともに世界一となっているだけあってその事実はもう覆すことができないほどにまでなった。
私がいつも思うのは「長寿」というのは果たして幸運なことなのかという疑問である。もちろん長生きだったらやりたいことがたくさんある人、もしくは現世を楽しみたい人にとってはこれ以上いい話はないし、「死ぬ」という悲しみもそれだけ引き延ばすことができる。しかし人はいつか死ぬ。それは人間、いや生物が生きている限り避けては通れないものである。しかも「長寿」であることは必ずといってもいいほどいいというわけではなく、「生き地獄」ともいわれるような状態になる人も少なからずいることも忘れてはならない。
私はこう問いたい。
「もし生きるとして選択肢があるとするならば、何もせずにぼうっとしたまま100歳まで生きるのか、あるいは自分のことを為して40歳までで死ぬか」
ただ長生きするよりも、自分がやるべき事をやり遂げてから死ぬことを考えている。何歳までとはいえ無いものの、どちらかというと後者の考えである。
余計な話になってしまったので戻すことにする。
本書は小樽を舞台とした老人の生活について欠かれた短編集である。小樽市は私が大学の時の4年間住んでいたため親近感がある。あとがきにも記してあるとおり小樽市はおおよそ4人に1人が60歳以上の高齢者に当たる。大学生活での体験であるが、たいてい朝や昼といった時間帯にスーパーに行くとたいがいご年輩の方々がほとんどであったことを思い出す。「ウィングベイ小樽」や「TSUTAYA」はこの限りではないが・・・。
小樽市での取材を通じて老人の現状と理想について非常によく書かれた一冊だと思う。それと同時に高齢化社会が社会問題かとなっている時期なだけに、高齢者としてのあり方について一石を投じながらも、温かみにあふれた生活増がありありと伝わってくる。高齢者としていかに生きるべきか、というのを小説という形で表した一冊をいえる。

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星のひと

星のひと

著者:水森 サトリ

星のひと

全てはある不幸(?)から始まった。主人公の同級生の家に隕石が落ちてきたことから始まった。
隕石が落ちることはほぼゼロに近く、「ラッキーだったね」とか「大金持ちだね」と嫉妬の目を向けられる同級生の草太がいる。常に特別な存在でいたい主人公と、隕石によって特別な存在になってしまった草太との両者とその周りの人たちの物語が本書であるが、どう見ても草太が主人公のようにしか思えなかった。
両者はまだ思春期を迎え出した中学生であるが、隕石のせいだろうか、特に草太は葛藤と言うのが強烈だったように思える。大人たちの身勝手な「都合」ばかりがまかりおってしまい、自分はどんな存在なのかと悩むのだが、それを隠しながらもけなげに生きているような描写がそこにはあった。
草太と主人公ばかりではない。草太の父親、草一郎もまた草太に近い、いやそれ以上のものが映し出されていた。家族がいながらも感じている孤独感がありありと見えた。
しかし草一郎はもともと近所の友達で初恋の人であったビビアンと再会し、そこから人間の絆というのを見出す。
フィクションのようであって、何か今の世の中を映し出しているような気がしてならない。元々日本では「地域」という枠でもって、親がいなくても子は育つようなコミュニティが存在していた。ところが「地域」のコミュニティが薄れ、プライバシーやセキュリティという言葉が罷り通った時、私たちは誰かと一緒にいながらも孤独感と言う感情に苛まれる。ひょんなこと、もしくはめったにできないことに遭遇したとしても羨望と嘲笑が周りから聞かれるようになり、自分自身が負の感情に陥ってしまう。今の社会の現状、そして日本のあるべき姿というものを「隕石が落ちてきた」というストーリーから紡ぎだしている。本書を読んでそう思った。

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蝶々は誰からの手紙

蝶々は誰からの手紙

著者:丸谷 才一

蝶々は誰からの手紙

丸谷才一氏はエッセイや小説としては有名であるが、書評かとしての一面もある。毎日新聞の書評欄は長年丸谷氏、もしくはそれに関連する人たちの独擅場であるからだ。しかし私は、丸谷氏に関して名前でしか聞いたことが無く、ましてや書評でも有名だと言うことは知らなかった。「書評家失格」である。
本書は「私の本棚」や「週刊朝日」にてとりあげた書評についてまとめただけではなく、自らの書評観まで丸谷氏ワールド炸裂の一冊である。

Ⅰ.「書評ある人生」
ここでは、自らの書評観と、イギリスと日本における書評の違いについても細やかに説明されている。
もうすでに休刊になったのだが、オピニオン誌「論座」の2008年4月号に世界の書評について書かれていたことを思い出す。そのときは一つの文芸として成り立っており、日本の新聞や雑誌にある書評欄のように読書案内や簡素な感想ではなく、書かれている量も多い。言い回しや観点が非常に独特で、一つの「文芸作品」としての「書評」があるとしている。
私の書評観もよく似ており、読み手重視にこだわっておらず、むしろ自分がどのように感じたのかというのをありのまま表現する。
一つの「芸」としての書評というのを私は目標にしている。

Ⅱ.「書評78選」
丸谷氏が書かれた書評の中から78冊選んだ所である。現代の日本語のあり方に疑問を投げかけたエッセイ、「桜もさよならも日本語」というのが今から23年前に書かれているが、常に日本語のあり方を考え続けているような文章である。
日本語としての古きよき表現や言い回し、文体と言うのがそのまま「書かれている」と言うよりも「描かれている」という言い方が好ましいように思える。

Ⅲ.「推薦文そして後始末」
前半は推薦文をいくつか掲載している。ここでも「丸谷氏らしさ」というのが如実に現れている。
後半は「日本の歴史 01巻」の回収勧告に関してのお詫びについて書かれており、まさに「後始末」と言う言葉がよく似合うのかもしれない。

Ⅳ.「カリブ海からカール・マルクスまで」
ここは四方山話と言うべきだろうか。本に関しての雑記と言うようなものであった。

本書を読んで丸谷氏は「文章に恵まれている」、「文章という世界にきてよかった」と言うような印象だった。そして日本語として自らの信念を持って表現しているとも感じ取れた。
日本語の表現はひらがな、カタカナ、漢字があり文字1つできめ細やかな表現が可能である。丸谷氏はそれをほぼ完全に熟知していた。本書を読んでそう思えた。

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奏でる声

奏でる声

著者:スーザン エルダーキン

奏でる声

「声」というと通常は「奏でる」と言わず「うたう(「歌う」「唄う」「謡う」「詠う」など様々な意味合いを持つ)」
本書の舞台はオーストラリアの北西部、ちょっといけばオーストラリア最大の砂漠地帯(ゴビ砂漠?)がある。そのためか本書では「砂漠」と言う下りが数多く存在する。オーストラリアというと私たちが認知しているところではエアーズロックを除けばシドニーやメルボルンと言った東海岸の部分が多く、次にパースがある南西部が認知されている。しかし北西部はそれほど目立った都市はなく、多くても3〜4万人ほどの小さな町があるくらいである。しかし本書を読んでいくうちに生活の中になにやら「精霊」もでてきている。その精霊が本書の主人公であるビリーという少年と出会うことによって物語は始まる。
物語を観る限りビリーは感情的でありながらも、数多くの悩みを抱えているような描写が多かったように思える。
本書のタイトル「奏でる声」だが直接的に「歌う」や「奏でる」といった表現がないものの、それに近い、むしろ暗に表現しているところが所々見受けられ、あたかも読んでいながら歌っている声が聞こえるようであった。
少年が精霊、もしくはアボリジニーが歌っている声、または風の声に惹かれる姿というのが描かれながらも、ストーリーにのめり込んでしまう不思議さを感じてしまう。1度の読了ではこのことはなかなか受け取ることはできない。分厚い一冊ではあるが2・3回繰り返して読むことをお勧めする。そうでもしないと本書で感じ取られる声や少年の心の内を感じ取ることが難しいからである。

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大人のための日本の名著 必読書50

大人のための日本の名著 必読書50

著者:木原 武一

大人のための日本の名著 必読書50

読書とはいいものである。ときには新しい学びを得ることができるだけではなく、読めば読むほど本の内容に対して自分がどう考えたのかという思考の塊になるのだから。特に名著はそれを何倍にも引き立たせてくれる。名著、日本の名著と言うと数多くあるが、本書はその中から選りすぐりの50冊をピックアップしている。しかも本書を通して一人前の自分に自立するためにどのような本を読めばいいのかというのを5つのカテゴリに分けて紹介しており、しかも面白いことに「チェックリスト」まで付いているのだから、名著集としては珍しく「読了即実践」が可能な一冊である。ただ「読了即実践」の実践は名著を読むということなので「実践」と言うとちょっと不自然かもしれない。

1.「自分を知るために」
自分を知るというのはなかなか難しい。自分を知るというと「哲学」や「心理学」と言ったものがあるが、本章では芥川龍之介、西田幾多郎、正岡子規、夏目漱石と言った文豪から、古典で言うと吉田兼好、親鸞などを上げている。ちなみに本書では読書の紹介ばかりでなく、あらすじや読みどころと明言も紹介されているため、読みたいという願望を引き立たせてくれる。
ちなみに本章は10冊紹介されているが、その中で私が読んだのは5冊。まだまだ読んでおかなくてはならない作品が多いということを痛感する。

2.「人間を知るために」
次は人間とは一体何なのかということを教えてくれる10冊を紹介している。
「金色夜叉」や「武士道」「雨月物語」「源氏物語」と言った作品が本章では取り上げられている。
ここでは10冊中7冊と言ったところ。

3.「社会を知るために」
読むべき本がずらりと並んでいるのが本書であるが、残念ながら本章で紹介された本は「土佐日記」の一冊しか読んだことがない。梅棹忠夫や丸山眞男と言った作品は知ってはいるが読んだことはないので読んでおきたいところである。

4.「歴史を知るために」
次は歴史であるがここでは「平家物語」や「古事記」が出ているのだが、それ以上に井伏鱒二や柳田國男と言った作品も取り上げられている。

5.「自然を知るために」
松尾芭蕉の「奥の細道」や清少納言の「枕草子」などが取り上げられている。

50冊取り上げられているが古典ばかりではなく、割と最近出版された作品もある。選りすぐりではあるが、古典ばかりで取っつきにくいと思った人でも大丈夫なように本の選定もなされている。
夏の暑い時期、クーラーで涼みながら読書をするとき、本書を基準に選んでみてはどうか。

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