書評の部屋(社会科学)

裁く技術~無罪判決から死刑まで

裁く技術~無罪判決から死刑まで (小学館101新書)

著者:森 ほのお

裁く技術~無罪判決から死刑まで (小学館101新書)

株式会社オトバンク 上田様より献本御礼。
2009年5月21日に裁判員制度がスタートしてから半年経つ。既にいくつかの事件において裁判員制度が適用されており、今後は改正も視野に入れながらの練り直しも行われることだろう。現時点では来年には約30万人もの人が裁判員候補者名簿に記載される見込みである。もし裁判員に選ばれるとしたら労働など様々な不安が出てくることだろう。
本書ではあらゆる不安の中から刑事裁判はどのように行われるのかについて、元裁判長であり、数々の裁判を経験してきた著者が、分かりやすく説明した一冊である。

第一章「裁判の流れをつかむ技術」
裁判員に選ばれる通達がありそこから裁判員に関してもろもろの説明がある。本章では裁判員の視点から裁判の流れについて説明されているが刑事裁判がどのように行われるのかについても流れに沿ってわかりやすく書かれている。
但し、裁判傍聴常連のかた、検察・弁護側についたかた、被告人経験者は読み飛ばしてもかまわない。

第二章「犯人かどうかを決める技術」
検察側が犯人と立証すべく、弁護側は無罪だと立証すべく、様々な証拠が提出される。裁判員はそれらの証拠を基に有罪・無罪、無期・有期懲役といった判断をくだす。しかし、証拠の種類は多岐にわたっており、それらをどのようにして証拠を判断するのかについて素人であるため裁判官が懇切丁寧に教えてくれるわけではない。法の庭に感情が入ってしまうというリスクをいう論者がいるがこうったことも一例としてある。
本書ではいくつかのケースが紹介されており、それぞれの状況でどのような証拠が提出されどのような判断を行うのかというのが書かれているが、TPOによって細かく違ってくるためあくまで参考例として見ると良いと思う。

第三章「懲役年数を決める技術」
ここでは量刑はどのようにして決まるのかについて説明されている。有罪・無罪についてはすでにニュースや文献でもって広く伝えられているが、量刑についてはあまり伝えられておらず、どのようにして決まるのかというのは私自身、本書を読むまで知らなかった。
おそらく量刑について解明できる唯一の一冊であると私は思う。調べたければ本書を読め、という意地悪なことはよしといて、量刑によって裁判員の意見がバラバラになるケースは少なからず存在する。その場合、最も中間的な刑罰となるという。

第四章「死刑かどうかを決める技術」
かつて裁判員制度廃止論者はこの死刑について市民は裁けるのかという主張をしていた。裁判官でさえもこの刑罰を言い渡すのに凄まじい労力やプレッシャーとなるという。それを国民にやらせたくないという心なのか、それとも司法に携わる人のエゴイズムなのかの真意は闇の中であるが。
裁判員制度で適用される事件は刑罰が確定的であるものに限られるが、死刑が適用されるものはこれまでのところない。法律的に素人である、裁判員に下すのはリスクが大きすぎるからである。
死刑になる基準は「永山基準」と呼ばれるものがあり、殺した人数によって量刑が変わるという基準で用いられてきた。しかし昨今では1人でも残虐性により死刑が適用されるなど、基準が揺らいでいるのも事実として挙げられる。

第五章「本当に困ったときの危機回避の秘密」
国民が裁判をする以上、何かしらか分からなくなってしまうことが多い。簡略、簡易化しているとはいえ、様々な用語が飛び出すことがあり得る。それだけではなく、刑罰を下すかどうかの「不安」というのも少なくないため、「疑わしきは罰せず」に基づきながら判断を下すとよいという。

裁判員制度が始まって半年がたつ、約5000人に1人が裁判員候補者名簿に記載されるが、裁判員になることへの不安はあることだろう。本書はその不安をかき消してくれるものの一つに挙げられる。

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消費税をどうするか―再分配と負担の視点から

消費税をどうするか―再分配と負担の視点から (岩波新書)

著者:小此木 潔

消費税をどうするか―再分配と負担の視点から (岩波新書)

民主党は今国会において消費税の引き上げを見送った。民主党の掲げるマニフェストを遂行するためにはかなりの財源を確保しなければならない。最近までメディアで騒がれていた「仕分け」も1兆2000億円であった。これからも財源確保のために様々なコストカットは行われるがそれだけでは賄えない可能性が高い。消費税引き上げも視野に入れる必要があるのではないだろうか。
そもそも日本で消費税が導入されたのは1989年、竹下登政権の時である。本書は偶然なのか導入されて20年の節目である。
節目だからでこそ増税・据え置きの垣根を越えて消費税の在り方を考え直す必要に迫られたのではないだろうか。本書はそれを示しているのかもしれない。

第一章「世界経済危機を救う財政」
世界的に経済が混迷する今、政府は有効な策が出ていない現実がある。前の自民党政権では「定額給付金」を支給することを行ったが、経済的には付け焼刃にしかならなかった(それにもならなかったという声もある)。現在では財源を確保、さらには赤字国債削減のため民主党、財務省先導で「事業仕分け」を行い、念入りなコストカットを行ったが、これも予算編成上、あまり効果がなかったように見える。しかし来年度の予算編成はどのようになるのかは通常国会を観てみないと分からないというのもある。

第二章「赤字は誰の責任か」
無駄な公共事業により赤字国債が乱発し始めたのは80年代、中曽根政権以降である。それからというもの右肩上がりに増大していき、現在では800兆にも900兆にも上ると言われている。赤字は誰という特定はできないと言うほか無い。自民党政権下の時代は多かったが、細川・羽田といった非自民連立政権下でも赤字は膨れ上がっていた。では「景気」の責任かというとこれも経済の主幹をなす企業の努力が足りないということにも通じる。さらに政府の責任といえば、選挙で選んだ国民も同罪と考えられる。不特定多数、日本人全員が責任ありという答えに行き着く。

第三章「消費税の歴史が映すもの」
消費税が導入されたのは1989年、ちょうど平静には言った頃であるが、消費税導入の論議はそれよりも前から行われていた。しかし消費税が導入される、もしくは増税する前後で、経済が失速したり、政権与党が選挙で惨敗を喫するなどあたかも「パンドラの箱」のようなものと化している。消費税論議は行われるべきであると考えるが、その現状もはらんでいる。

第四章「貧困と格差をなくすには――所得再分配復活への道」
今度は「消費税論議」からはずれて「格差」というところについて書かれている。しかし消費税論議に間接的に関わるというのもある。「失われた10年(ないし15年)」のトンネルを抜け、「戦後最長の好景気」と呼ばれる時代に「格差」という言葉が出てき始めた。しかし「格差」は今に始まったことではなく、小林多喜二の「蟹工船」が上梓された時代も「格差」にあえいでいた時代があった。格差はなくなることはないが、もしなくなるとしたら、日本が社会主義国家や共産主義国家を辿るといっても過言ではない。資本主義社会である以上「格差」はつきものである。

第五章「欧米の税・財政に何を学ぶか」
日本の消費税は世界的に比べると低く、欧米各国の消費税を比べると足元にも及ばない。しかしそれらの国々は「小さな政府」、つまり「福祉国家」として確立しているため、この税制は可能である(その反面、暴行事件が頻発している現状がある)。では日本は増税を行うことによって欧米各国のように税率を上げることで福祉国家となるかというと首をかしげてしまう。日本の借金が増大し、それを返すためには消費税増税の論議もなくてはならない(ただし増税をするとはいっていない)。

第六章「危機を超える税制改革のために」
日本の借金は雪だるま式のように膨れ上がり、今年の赤字国債発行額が53兆円を超えた。横ばい、右肩下がりに入りそうになった矢先の出来ことであり、累積で1000兆円に届きそうな勢いである。その中で全て返すとなると、50年にも100年にもかかってしまうほどの額である。また年金のことにおいても、福祉においても、経済的な課題が残っているために、累積国債を減らすということも考える必要があると考えると、税制に関して消費税を含め大きく見直す必要があるのではないかと考える。

消費税をどうするかの論議は、今に始まったことではなく、消費税が導入される前後から長らく続いていた。しかし論議ばかり進んでしまい、先延ばしになってしまう。「ウィーン会議」の状態が進んでいるが、そこからどのように脱するか、政権与党の民主党に課せられた試金石の一つではないだろうか。

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友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

著者:土井 隆義

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

私は「友達」という言葉ほど甘美でありながらも危険な言葉はないと考えている。周りに「友達」がいれば当然親身になること模でき、相手との距離も縮められる。しかしその反面、相手が悪事に手を染めていることによって、それにつられて手を染めてしまい、人生の落とし穴にはまるということにもなりかねない、甘美な響きでありながらも危険な要素もはらんでいる。
さらに昨今では「空気を読め」というような言葉も乱舞するなど、「異質」な物を排斥するよ名風潮を助長している。元々日本はそういった気質なのかというと、まだまだ疑問が残っており、考察を深める以外は、無い。
本書は「友達」にまつわる壮絶な現状について追っている。

第一章「いじめを生み出す「優しい関係」」
「いじめ」は10数年前、そして約3年前に大きな社会問題として話題となった。そうでなくても今もとあるところで起こっている「いじめ」これを食い止める手段はないのかというのもあるのだが、そもそもどのようにして「いじめ」が出てきたのだろうかという所についても考える必要がある。
「俗流若者論」を振りかざす人たちにとっては「常識が通じない」や「モラルの欠如」といった自分たちにとって都合のいい道具を振り回しながら、若者たちを批判、と言うより貶めることに躍起になる。
子供たちが「いじめ」を興すようになった原因は果たして子供たちなのかというと私は疑問に思う。親たちの世代、それ以上に社会そのものの変化についても見る必要があるが、本章では「いじめ」の現場の変遷について書かれている。
「いじめ」というといじめっ子がいじめられっ子を殴ったりけったり、いやがらせをするといったことが想像できる。しかし現代の「いじめ」はそういったこと以上にむしろ精神的なダメージを興すようなもの、しかもいじめに関係ない周りを巻き込んで「優しい関係」に持ち込ませながら快楽的、もしくは「遊び」の感覚で起こしているのが実情だという。
確か自民党の安倍政権の時には「KY」という言葉が流行したのだが、それに通じているのではないかとも考えられる。

第二章「リストカット少女の「痛み」の系譜」
今の世の中は「空気」という名の独裁者に支配されているかのように「生きづらい」世の中になっていると考えられる。それは感受性の強い少年・少女の時代からさらされ続け、やがて複雑な場所にいつくこととなってしまう。
本書では1969年に列車に飛び込み自殺をした高野悦子と1999年に服毒自殺をした南条あやの青春日記から少女におかれた現状の今昔についてかかれているが、共通して言えるのは「わたし」という存在についてである。
「わたし」はもっと認められたい、「わたし」の方が優れていると知らしめたい、「わたし」は独立したい、などといった感情のはざまの中で両氏はなぜ自殺に追い込まれなくてはいけないのかということについて両者の日記「二十歳の原点」「卒業式まで死にません」をもとに迫っている。

第三章「ひきこもりとケータイ小説のあいだ」
私は「ケータイ小説」はあまり見ないのだが、「ケータイ小説」が隆盛した時期というと最初に挙げられるのは2002・03年ごろであろう。その時はYoshiの「Deep Love」が、ケータイ小説ではないが「セカチュー」で有名な片山恭一の「世界の中心で、愛を叫ぶ」などが空前のヒットとなった時代である。当時高校生だったので、周りにはそういった作品を読んだ人も多かった(ちなみに私は読まなかったが)。これらの作品の中で語られるのは「愛」であるが、それ以上に少年・少女のおかれた残酷な現状というのを如実に書かれている。大人たちが醸している複雑であり、かつドロドロとしたものを排除し、自らは愛に限らず「純粋さ」というのを追い求めているという傾向が強い。

第四章「ケータイによる自己ナビゲーション」
もはや携帯電話は、電話機能ばかりではなく様々な機能が追加され、独立した「ケータイ」に変貌していった。さらにケータイは「使う」のみならず、「飾る」という役割もある。
「話す」携帯電話から「使う」携帯電話にシフトして行ったが、少年・少女たちにとっては「わたし」を表現できる、本来の自分、あるいはつくることのできる「自分」が得られるからである。
しかしこういった空間の大きなリスクには、それそのものを「否定」する人も必ず出てくる。そのことにより激昂し、下手したら凶行にまで及ぶというケースも存在する。「つながる」オアシスであると同時に、そこにはとてつもない闇がはらんでいる。

第五章「ネット自殺のねじれたリアリティ」
日本における自殺者数は三万人を超えると言われているが、そのうち毎年数十人は「ネット自殺」というのがあるという。年齢の中で最も多いのは若者であり、自分には生きる道がないという絶望感に打ちひしがれて自殺の道に進むという人が多いという。
これに関しては哲学的、心理学的な考察などの議論が行わなければなかなか見えてこないものであるが、自殺者数の増減はあれど、自殺の新しい切り口であることは紛れもない事実である。

「友だち」という言葉に潜む闇もあるのだが、それ以上にその言葉を使う私たちの世代の闇ということについてが多かったようであった。親の世代が悪い、若者が悪いというのは簡単であるが、現状を踏まえて私たちはどうするべきか、親たちの世代は私たちにどう接していけばよいのかという歩み寄りがなければ、水かけ論の堂々巡りに終わってしまう。そういうことだけは起きてほしくないと私は考えている。

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血の政治―青嵐会という物語

血の政治―青嵐会という物語 (新潮新書)

著者:河内 孝

血の政治―青嵐会という物語 (新潮新書)

政権を奪われてしまった自民党には昔、「青嵐会(せいらんかい)」という派閥が存在した。私たちのような世代は知っている人は少ないだろう。
私たちの父親の世代、40代・50代の世代であればはっきりと覚えているだろう。
この「青嵐会」のメンバーというと日本の保守政治を担うそうそうたるメンバーである。現東京都知事の石原慎太郎、今年亡くなった中川昭一の父親であり「政界のヒグマ」と呼ばれた中川一郎、首相を経験したことのある森喜朗、TVでは「ハマコー」という愛称で知られる浜田幸一など錚々たるメンバーである。本書はこの青嵐会の誕生、隆盛、崩壊の歴史について書かれている。政権を奪われた自民党が「真の保守」とは何なのかというヒントになるのかもしれない。

第一章「青嵐会、その誕生」
青嵐会は1973年に誕生した。ニュース上では「石原派」と呼ばれ、中川一郎らが代表世話人をつとめた。時は大阪万博が終わり、日本は「高度経済成長期」のまっただ中であること。政界でも「角福戦争」と呼ばれるほど自民党はあれにあれていたこと、さらには72年の沖縄返還、日中国交正常化に至るまで、日本の政治・経済関係なく、嵐が吹き荒れていた時代であった。その中での青嵐会の結成は新聞の炭に追いやられるほど冷ややかなものであった。

第二章「青嵐会と三島由紀夫」
青嵐会のメンバーを観てもご存じの通り「右派」や「真正保守」とも呼ばれるような派閥であったということは窺える。本章ではこの青嵐会と1970年に「三島由紀夫事件」を起し、その後に割腹自殺を遂げた三島由紀夫について書かれている。
三島は国、そして国防を憂い、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地に籠城し、そこで自衛官やマスコミに向けての演説を行った。しかし、自衛官たちは感銘どころか野次が飛ばされ、結局クーデターは失敗し割腹自殺をした。それが青嵐会の発起人たちなどが影響を受けきっかけとなった。

第三章「青嵐会の闘い 一九七三」
青嵐会は結成後から目立った動きを見せていた。その年には党内のハト派との戦いがあり、先だって自民党有志による北朝鮮への訪問を阻止、田中角栄との問答など数々のことを実行に移した。
今となっては「政治的テロ」ともメディアで叩かれかねないようなことを行ってきたのだが、私自身そういった行動は政治、ひいては日本を憂うからでこそできる行動だと思っている。
しかし、青嵐会は当時の自民党の中では「どちらかというと」纏まりの強い方であった。その中で反乱因子もいたため、結成当時から離脱者が出てきていたということである。

第四章「青嵐会の戦い 一九七四」
青嵐会は活躍の場を新聞、さらには集会によって広げてきた。本章ではその活躍について、草の根的な活躍から表舞台に上がる準備を整えていた。しかし時は日中の国交正常化に向けて動いており、心中は議員や中国の関係者から非難の声を浴びることも少なくなかった。
時代の流れというのは恐ろしいが、その流れに逆らうというのも大事である。しかしそれを行うには規模にもよるが莫大な労力とコストになるということを忘れてはならないと感じさせた。

第五章「青嵐会のルーツ 戦後政治の中の核と改憲」
元々自民党が結党された時は「保守合同」をもとに、「憲法改正」というのが至上命題であった。しかし60年安保や国々の国交正常化、沖縄返還のゴタゴタにより、先延ばしにされていった。そしていつのころからか、自民党の中にもハト派ができ始め、さらに自民党の中でも「護憲派」というのも出てきた。憲法改正が先延ばしにされていく中で、自民党は本来あるべき姿を無くしつつあった。「青嵐会」はそれを正すためにつくられたと言っても過言ではなかった。

第六章「二つの別れ」
田中角栄がロッキード事件により逮捕され、三木政権が倒され、福田赳夫政権へ、そして大平政権と目まぐるしく変わっていった70年代後半の政治。その大平政権を倒さんと反主流派が首相退陣を要求することを条件とした「四十日抗争」が始まった。それを崩したのは青嵐会のメンバーであった浜田幸一であった。浜田はバリケードを崩している時にこう言った。
「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるってことを忘れるな!!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!!!(wikipediaより)」
私はこの言葉こそ、本来自民党のあるべき姿を言っているのではないのだろうか。私たちの生活をどうすることもあるのだが、それ以上にこれからになっていくだろう子どもたち、孫たちの世代のために何を残して行くべきかというのを自民党は考えなくてはならない。遺して行くものが「国債」という名の借金では何者にもならないのだから。

かつて自民党には本来あるべき姿に戻そうとする志士たちがいた。その志士たちが結成したもの、その名は「青嵐会」といった。わずか6年の歴史であったのだが、本来の自民党とはどうあるべきかを示してくれた。解散して今年で30年を迎える今、政権が奪われ、野党に堕ちた自民党は本来の意味を見出す時が来たのではないだろうか。

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就活のバカヤロー

就活のバカヤロー (光文社新書)

著者:大沢 仁,石渡 嶺司

就活のバカヤロー (光文社新書)

「It’s a comedy!(これは茶番だ!)」
これは東京裁判において思想家の大川周明が精神異常の疑いがあるとみられ(後に「梅毒脳症」と判明)退廷させられる直前にはなった言葉である。この裁判は結局商社からの一方的な裁きによるものであり、茶番であると見抜いたのだろうか、もしくは精神異常により発狂して放った言葉なのだろうか、今でも論争は続いているが。
これから大学3年生の皆様は厳しい就職活動を始められることである。その中で死亡した企業、業界に入ればいいのだが、先日のニュースで大学4年生の就職内定率が過去最大の下げ幅であったというのがあった。昨年の同時期には「内定取り消し」のニュースが相次ぎ、それらの世代の就職活動に悪影響を及ぼしている。本書はその就活の現場とその茶番劇を暴きながら、若者にとって、企業にとっての就活の、本当の意味について考えた一冊である。

第1章「就活生はイタすぎる」
章題からしてまさにその通りといえる。自己PRを考えたり、自分の性格からどのような業界にはいるかという自己分析があったり、大学生の時にがんばったことを話したりして、面接官が就活性のどこをみているのかというのが知りたくなってしまう。
私も就職活動を経験してきた身であり、当時は小樽から札幌、または小樽から飛行機を使って東京に行ったり、したことがあった。
悲しきかな自己PRについてこう書けばいいなどの本は五万とあり、それに倣うかのように書いてしまう。学生にとっても採用担当にとってもうんざりしてしまうようなことがたくさんあるという。例えば質問における返答も学生側からの質問でも、である。

第2章「大学にとって「就活はいい迷惑」」
大学は学問を研究する場である。しかし、2004年以降国立大学行政法人化され厳しい状況に立たされ、商学部などでは産業との連携において学問を行うことで活路を見出して行こうとする学校もある。
さて就職活動は大学にとっては前述のようにそのことにより疎かになるということで「いい迷惑」だと思っているという。
特に大学3年生は論文や研究のテーマを決める所もちらほら出てくるため、インターンシップや就職活動の企業説明会、面接などによって講義やゼミを欠席し、せっかく学べる機会を水泡に帰してしまうというのが大学側の意見として挙げられる。
しかし大学を卒業した後、その知識をさらに深めるために誰しもが大学院に進学をするわけではない。仕事の上で役に立つことはあるのだが、それ以上に働くということが大事であろうというのが企業側の意見である。双方の意見の隔たりは縮まるようでなかなか縮まらないというのが現状であり、これからもそうなるのかもしれない。

第3章「企業の「採活」の真相はこうだ」
少し前の話であるが、採用期間となる4月1日前に有能な人材を引き抜いて内定者をいち早くそろえるといういわゆる「青田買い」というのが存在した。
しかし経団連と国立大学行政法人との協定により、4月1日以降にするようにという通達があったのだが、いかんせんそれを実行している企業もあるが、経団連に所属していない企業は無視であるのが現状である。
それだけではない。採用活動は筆記試験や面接ばかりではなく、企業説明会、さらにはインターンシップに至るまで「採用活動(採活)」が行われているといっても過言ではない。
さらに就活生を引きつけるようなレトリックも存在しており、若い私たちであればやりがいがあることや福利厚生、チャレンジングなことをしてくれるなど、様々な裏があることを忘れてはいけないがこれに気づける人がいるかどうか疑わしいところでもある。

第4章「インターンなんてやりたくない」
第3章にて「インターンシップ」も採用活動の一環となっている企業もあると書いてあったのだが、ではこの「インターンシップ」はどのような効果をもたらしてくれるのかと言うのも考えなくてはならない。実際にこの「インターンシップ」が「採用活動」と直結している大きな理由としては、「学生の囲いこみ」というのがあるというが、学歴差別というのがあるだけでこれから就活に向けた影響はそれほど無いのだという。

第5章「マッチポンプで儲ける就職情報会社」
インターネットが飛躍的に進化され、就職活動においてもインターネットを無くしては無力に近いものであったことは大学時代に痛感したことである。大学時代私はパソコンはあったが「Windows98」がOSであり、しかもインターネット環境がなかった。インターネット環境のある大学のパソコン室か、ゼミ室しかインターネットを観ることができなかった。ちなみにエントリーシートや履歴書もアルバイト終了後に大学に戻って書いたほどであった。下宿に返ったのは早いときは深夜の1時、下手したらゼミ室で一夜をあかしたということは何度かあった(実は就活前後もゼミの論文やレポート作成のために同様のことがあった)。
インターネット上ではリクナビや日経ナビ、マイナビなど就職情報サイトなど数多くお世話になった。企業の説明会から、エントリーシート提出に至るまでいろいろな側面でお世話になった。しかしこの就職情報サイトはほぼ寡占状態にあり、採用に関わる利益でかなり賄われている。
しかし就職情報サイトも最近では不況の余波による採用窓口の減少により期待されていた利益を下回っているのだという。就職情報サイトも「経済」という一つの怪物に踊らされているのだろうか。

今の時期、大学3年はいよいよ就職活動の準備を始め、大学4年は焦りを感じている。しかしこの就職活動はある種の茶番劇のように著者は思えるのだという。私も今となってみたら、今の職業に入れてよかったのだが、就職活動は果たしてよかったのかというと疑わしいし、就職活動自体に疑問を抱くこともあった。就職をしたいという考え、もしくは修飾という言葉が続く限りこの茶番激発付くのかもしれないが、それを断ち切るというのもなくてはならない。ではそれはいつの日になるのか、定かではない。

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離婚の心理学―パートナーを失う原因とその対処

離婚の心理学―パートナーを失う原因とその対処

著者:加藤 司

離婚の心理学―パートナーを失う原因とその対処

現在日本の離婚率は、厚生労働省の調べによると2002年をピークに減少の一途をたどっている。ただしこれは組数によって測れている。減少しているとは言っても価値観の違いや家庭内暴力など離婚が絶えないというのも事実として挙げられる。本書は心理学的観点から離婚について考察を行っている。

第1章「二人の関係を終わりにするということは」
日本の離婚率は高いといわれているが、世界的にみたら韓国やアメリカ、ロシアと比べても低い(本書が採用している統計による)。ましてや最初にも書いているように日本の離婚件数は減少傾向にある。経済的な理由もあるのかもしれないが、もっとも離婚をすることにより精神的に苦しめられる理由も、逆に家庭内暴力から解放されたかのように精神的に解放され、鬱病などの病をいやすこともあるという。カップルそれぞれであるが、離婚によって慰謝料を受け取ることにより裕福になるものもいれば、貧乏になるものもいる。もしくは婚姻関係は解消されるが、完全に縁を切るカップルもいれば、「別れても好きな人」でいるようなカップルもいる。
「離婚」は良いものなのか悪いものなのか、カップルによってまちまちである、というしかない。

第2章「なぜ離婚してしまうのか」
離婚の理由は様々であるが、本章の最初にでてくる統計、アメリカの大規模調査というのがあるが、そこでは予想として浮気がトップと思っていたのだが、なんと「性格の不一致」がトップとして挙げられていた。「浮気」はその次に多かった。
離婚という一括りでも、家庭内暴力もあればセックスレスによる原因、もしくは片方が働きたいという理由で離婚をするケースもある。若くして結婚して、すぐに離婚というケースもあれば、結婚して何十年もたって、もうすぐに金婚式だというのに熟年離婚をするというカップルもいる。
本書では離婚をする原因を年代、結婚年数、さらには性格、財力に至るまで、事細かに調査されている。
そこでどのような傾向を持ったカップル、人だったら離婚をするのか本書の一部を抜粋してみると

・神経質な人
・パートナーの報告があるカップル
・若年層

などが挙げられている。

第3章「浮気でもしてみなさいよ」
統計的にもっとも多いわけではないのだが、大池以降にあるのが「浮気」である。その浮気について、男性がその傾向が強いといわれているが、それはなぜなのか。
本章では「雄牛理論」を採用している。「雄牛理論」は映画「恋する遺伝子」がきっかけとなって定義され「男性は必ず浮気をし、女性を捨てる(p.103より)」という理論である。
実際に男性の浮気が挙げられやすいのは、女性に関して敏感な女性の直感によるものである。おそらく目移りしやすい男性を振り向かせないため、もしくは捕獲した獲物(男)を離さないために与えられた力なのかもしれない。

第4章「別れさせないために」
離婚は仕方がないのかというとそうではない。離婚を未然に防止をすることのできる方法は本章にて「コーピング理論」を中心に取り上げられている。「コーピング」は簡単にいうと「ストレス解消法」である。夫婦生活を送っていると、ストレスが解消される時もあれば、ストレスを蓄積してしまうというときが少なからずある。しかしそのストレス解消法も、ストレスが蓄積される原因、もしくは夫婦喧嘩となる原因を明らかにしなければ、ストレス解消どころか逆にストレスが蓄積され、最悪の場合離婚となってしまう。
ここでは口論や暴力、浮気などケースごとにどのようなストレス解消を行うべきかについて書かれている。

最終章「離婚から立ち直るためには」
いくら手段を講じても離婚という道しかなかった。当然愛し合うことによって結婚という道を開き、そして喜べた反動からか、離婚するとどこと無い寂しさや苦しみというのがある。当然ストレスとなって返ってくるため本章もやはりストレス解消法が存在するがここでは再婚や結婚以外の女性とのつきあい方などが紹介されている。

「離婚」は夫婦生活のピリオドであると同時に精神的なリスクを背負ったり、解放したりすることでもある。それを防ぐこと、そこから立ち直ることは山ほどあるが、「自らの傾向を知る」ことによって離婚を未然に防ぐ手段も存在することが本書の中で理解できる。

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アエラ族の憂鬱

アエラ族の憂鬱

著者:桐山 秀樹

アエラ族の憂鬱

「AERA」はバリバリに働くキャリアウーマン(バリキャリ)のためのオピニオン誌である。一部の人にはこの雑誌を「女尊男卑」というひともいるが。
本書は「戦後最長の好景気」とも呼ばれる時期に活躍した雑誌「AERA」の功罪について迫っている。

第一章「「超高級ホテル」から若い女性たちが消えた」
バブルだろうか、それとも一つのステータスだったのだろうか、若い女性の間で流行していたというのは私はあまり聞いたことがなかった。
バリキャリや仕事・家庭をものの見事に両立する女性、もっと言うと「女性があこがれる女性」の姿が「AERA」にあったのだろう。
理想が高すぎるせいなのか、晩婚化も進んでおり、「おひとりさま」と言う言葉も出始めている。時代の潮流がそう言っているのか、もしくは「AERA」がそうさせているのか、定かではないが。

第二章「男=女」
「男尊女卑」のなか虐げられたと、女性の権利を主張する方がしきりに言うが、実際に男性は権利はあれど、結果的に一番威張れるのは女性だと思っている。「尻に敷かれる」「カカア天下」と言う言葉もあるくらいだから。
ただいえるのは女性の価値観は
女性の価値観がここ数十年で、明らかな変貌を遂げたと言っても過言ではない。昔であれば「大和撫子」であったり、女性は家庭的と言うようなものに加え、今では社会的に活躍をする場が増えている。女性の地位向上はめざましいことであるが、はたして女性にとって、社会にとって有益なものかと言われると首を傾げる。

第三章「アエラ族は、不幸になる」
ほんの少し前から「婚活詐欺」と言うのが話題になり、逮捕されたある女性についてひっきりなしに報道されている。「婚活」と言う言葉は昨年からでてきているが、今となっては書籍でも、ドラマでも話題に上るほどであり、一時期「婚活ブーム」にまでなった。しかしこの「婚活」と言う言葉の意味と、現状の解釈を巡って「婚活時代」の著者と「AERA」とで違っており、「AERA」ではよりネガティブに捉えているという。

第四章「「アエラ族」に告ぐ」
それでも「アエラ族」は後を絶たない。「理想の女性」にあこがれそれにひた走る、男にも媚びず、孤高のバリキャリウーマンを貫こうというような人生に思える。その代表格が東京大学教授の上野千鶴子である。元々はフェミニズム論者であるが、一昨年に「おひとりさまの老後」がベストセラーになり、社会現象にまでなった。
しかし「おひとりさま」について、様々な論者の意見を交えながら著者は批判している。昨今では「孤独死」というものもあるので私も、それに関してはあまり快くないと考えている。

第五章「行き過ぎた「女尊男卑」の果てに」
「男女平等」や「女性のための」と謳っているが、裏を返してみたら徹底した「女尊男卑」ができていると著者は主張している。「「男尊女卑」のなか女性たちは虐げられたから、今度は私たちの番だ。」と言っているようなものである。ハンブラビ法典を変なところで出しているのである。
しかし、「AERA」は新たなバリキャリウーマンに目をつけていた。
そう、経済評論家で公認会計士の勝間和代である。
現在女性を中心に「カツマー」を目指す人が多く、それに関する批判本も出てきているほどである。

第六章「「アエラ族」の品格と孤独」
では「AERA」はどのような立ち位置になるとよいのか、これまで「バリキャリ」や「おひとりさま」など数々の女性の在り方について論じてきたわけであるが、ここで著者は「良妻賢母」を提案している。女性としてのキャリアを持ちながらも、良妻賢母としての母性でもって家庭を築いていくというような姿を理想としてほしいというのが著者の願いかもしれない。

第七章「「女」に生まれたことは本当に損か」
「男女格差」という言葉もある。しかし私は男性に無くて女性にある者もあると考える。韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」で医女チャングムが皇太后に治療を受けさせるためにある問いを出した。その答えは母であるが、経国大典にも定められているとおり徹底した「男尊女卑」であった時代において、女性の役割を見出させている。女性は男性と比較するべきではなく、むしろ「女性」であるからでこそできることもあるのではと考えさせられたところでもある。

「女性」は男性にないものはたくさんある。しかし悲しきかな「男女格差」で女性の待遇が測られ、女性の地位向上は時として価値はあるが、その一方で新たな「女女格差」というのもできている。「女性」の在り方はこれからも問われ続けるが、本書はそれを考える上での一つのヒントという位置付けに相応しい。

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仕事と日本人

仕事と日本人 (ちくま新書)

著者:武田 晴人

仕事と日本人 (ちくま新書)

近年は労働基準法の改正や「ワーク・ライフ・バランス」が提唱されたことにより、若干ではあるが日本人の平均労働時間は減少しつつある。しかし、それでも過酷な残業やサービス残業というのは後を絶たない。労働状況というのもあるが、自ら進んで残業をやる、残業代が出るからという理由で無駄な残業をするという人もいる。あれだけ「残業を減らそう」と唱えていてもこういう状況ではある種の無駄骨と言わざるを得なくなるが、日本人の労働観にもそれはあるのかもしれない。
本書は日本人の労働観や仕事の接し方など、労働改善という考えなしで真っ向から考察を行った一冊である。

第1章「豊かな国の今、問われる選択」
豊かな国には働ける場所がたくさんある…という考えが一瞬にして崩れ去る時が来ている。日本では派遣切りや大規模なリストラにより明日仕事できるかという保証がない。
海外でも2006年フランスで25歳以下の若者に対し理由のいかんを問わずに解雇をすることができるという法案が可決された。そのことをうけてフランス全土で大規模な抗議デモが起こり法案可決が取下げられるというニュースがあった。
若者は働ける場がいくらでもあると言われているが、大人達のエゴイズムによりそれがはばまれているというのも事実としてある。
さらには働いても生活が良くならない「ワーキングプア」、働きすぎであるにも関わらず、まだ仕事への欲望が強い「仕事中毒(ワーカホリック)」というのも存在する。
これらのことを挙げると働く意味、働くことの喜びが見出だすことができないのではとつくづく思ってしまう。

第2章「「労働」という言葉」
では働くにちなんで「労働」という言葉をとある辞書で調べてみた。

(1)からだを使って働くこと。特に賃金や報酬を得るために働くこと。また、一般に働くこと。
(2)〔経〕 人間が道具を利用して自然の素材を目的に応じて加工し、生活に必要な財貨を生みだす活動。(いつも利用している辞書より)

身体を使って、賃金といった報酬を得るために働くということにある。時間内にどの程度働き、どれらけの成果を得たのかというのも賃金を支払われるバロメーターとしてある。
本書では、日本人の特性についても興味深く「日本人は怠惰である」は印象的であった。享楽的であり、小さなことで満足をするということからこう主張しているが、江戸時代での鎖国とその影響による保守的・守旧的な考えが蔓延っているからであろう。

第3章「「仕事」の世界、「はたらき」の世界」
労働の概念は時代とともに変化していったというのはあるが、それ以上に平穏が維持されているときは祝祭日が増え、革命など時代大きく変化をするときには減少するという。前章において「日本人は怠惰である」は鎖国の傘の下で革命も起こらず平穏にあったことからとも言える。

第4章「「労働」概念の成立」
そもそも「労働」という言葉は日本でいつ頃できあがったのだろうか。
江戸時代は身分の差がはっきりとしており鳶職や飛脚、商人といった「職人」がそれぞれ腕を競い合った。効率や生産性、はたまた賃金は二の次であった。
しかし明治になってから海外、特に欧米列強の技術や思想を学んだ事により、労働の近代化も進んだ。効率や生産といった概念がここで生まれ、そこから「労働」という概念が生まれた。

第5章「時間の規律」
労働における「時間」という概念はあまり馴染みがない。朝起きたら働き、日が暮れたら家に帰る。仕事によれば四六時中働くということもあった。日曜日や土曜日の休日はそれほど多くなかったものの仕事を一つの「生業」という観点でとらえていたのかもしれない。
しかし海外から見て日本の労働は「時間に無頓着」に見えていた。実際に現在の「定時」や「時間労働制」というのは明治に入ってから、もとい鎖国が解放され、日本人が欧米列強の技術を取り入れられ始めたときから形成されていった、といってもいいのかもしれない。

第6章「残業の意味」
時間外労働は現在では当然「残業」として扱われる。「残業」は労働法上違反しない限り許されているが、昨今ではワーク・ライフ・バランス、効率化というような文句で残業をなるべく減らそうと動いている企業が多い。しかしこの「残業」を忌避する概念は今に始まったことではない。
明治以降に入って時間労働が浸透し始めた。それまでは「残業」という概念がなかったので、自由な時間帯(というより時間の「どんぶり勘定」といったのが正しいか)で働くことができた。
また、日本では「残業」という言葉自体も誕生したのは昭和に入ってから、戦前の軍需から始まったものである。

第7章「賃金と仕事の評価」
「労働」の対価として支払われるのが「賃金」である。この「賃金」も言い方を変えれば「給料」であったり、「お給金」という呼ばれ方もする。
この「賃金」も20世紀に入ってから使われ始めた言葉であるが(使われ始めた当時は「賃銀」であった)、ここでは賃金の国語的な意味から戦前・戦後にかけて「賃金」の変遷について書かれている。

第8章「近代的な労働観の超克」
「近代的な労働観」というと皆様は何を想像するだろうか。
労働観は人それぞれあるのだが、「近代的」というと「効率化」「生産性の向上」「ワーク・ライフ・バランス」と響きがいい。ただそれが伴っているかどうかというと良い意味で為し得ている企業もあれば、そうでない企業もある。
また「会社に縛られない」働き方も、増えてきており、「労働観」も他に例外なく多様化している。

「働く意味」「働く喜び」というものはいくつもある。しかしこれまで日本人が「働く」ことに関してどのような考えを持ったのか、そして現在のような言葉の乱舞はいつから始まったのか、本書はそれを教えてくれる。現実を見据えながら、これからどのように発展していくのか。本書はその「現実」と「歴史」を表している。

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テレビは見てはいけない

テレビは見てはいけない (PHP新書)

著者:苫米地 英人

テレビは見てはいけない (PHP新書)

本書のタイトルを見て「ドキッ!」とした方はどれくらいいるのだろうか。
今の私は特別なこと(とはいっても「F1」くらいしかないのだが)以外はTVを観ない。TVを観るよりも本を読んだり、ネットサーフィンしたりしている方が好きだからである。もっともTVも最近はあまり面白い番組がないことも理由の一つとして挙げられるが。
ふと時間が空くと必ずTVを観るという人は今も昔も少なからずいるだろう。しかしTVは非常に恐ろしいものであることを本書は語っている。

第1章「テレビを見てはいけない」
テレビ業界ほど、良い意味でも悪い意味でも不思議な業界は存在しない。現在の状況を言うと在京キー局は軒並み業績不振に陥り、とりわけTBSでは開局以来初となる赤字に転落した。視聴率でも特に苦しんでいる局であり、番組編成や出演者の起用などでコラムに掲載され大騒ぎになるほどである。
しかしテレビ業界は広告収入以外にも収入源が存在する。番組におけるグッズやDVDの販売の収入、さらには不動産や建物の家賃収入もある。
さらにいうと、この業界は新規参入の壁が厚いことでも有名である。というのは電波の管轄が総務省にあり、そこの認可を受けないと参入できない。認可を受けるためにも膨大な書類が必要であるため新規参入が難しい要因とされている。

第2章「脱・奴隷の生き方」
テレビは自分の知らない間に奴隷にさせる力を持っているという。しかも当の本人はテレビに隷属されていることに気づかないのだからなお恐ろしい。
さて、本章ではそのような隷属状態からの予防法・脱出法というのを紹介している。自己満足せず、自分を過小評価せず、目標を決めて邁進するというものなどが挙げられている。

第3章「日本人はなぜお金にだまされやすいのか。」
金は時として人生に恵みを与えられる。しかし時として隷属の輩となる。
私自身お金に考える時、つくづくそう思ってしまう。
特に他人のお金を使う場合は油断してしまうと後者になってしまう。何が言いたいのかと言うと、現在、国の借金は約900兆円にのぼる。雪だるま式に膨らんだ理由として公共投資の過剰化が挙げられる。先程述べたそのことがそうさせてしまったのかもしれない。
本章では他に「差別」の心理についても書かれているが、人種差別や部落差別ではなく「KY」、すなわち「空気」における差別を取り上げているところが印象的である。

私たちの生活の中で、私たちの知らないところで「洗脳」されている。テレビのように私たちが気づかず、さらに洗脳されていることに気づかないことだと非常に厄介である。
ありとあらゆる「洗脳」という呪縛からいかにして気づき、解き放つべきなのか、本書にはその一助が隠されている。

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マスメディア 再生への戦略

マスメディア 再生への戦略

著者:世古 一穂,土田 修

マスメディア 再生への戦略

当ブログでは新聞やTVなどのマスメディア批判や考察を扱っている本を書評したことが何度もある。私自身はどうかというとTVはそれほど見ず、新聞もほとんど見ない。ニュースはインターネットで事足り、わからない情報、もう少し深く掘り下げたいものであれば雑誌がある、他にも本があるので必要としないと考えているためである。
しかし、批判はするが、完全に無くなれとは言っていない。むしろ「変われ」と言っている他ない。「マスメディア」の本来あるべき姿は公共の発信源としてあるべきことを伝えるというのが常であるが、報道被害・偏向報道というのが罷り通っている今、それの信憑性も揺らいでいる。さらにはインターネットの台頭により、新聞の信用低下、部数低下がさらに拍車をかけてしまった。
双方向化の潮流がやまない今、マスメディアどうあるべきなのか、どのように変わるべきなのか本書は「変革」という観点から見ている。

第Ⅰ章「マスメディアに必要な「市民の視点」」
マスメディアにとった大切なもの、
それは最新の情報や機密情報そのものではなく、「市民の視点」からその情報をいかにして伝えるべきか、というものであるという。
今や双方向化されるインターネットなどのメディアではそうでもないと考えるが、新聞は相にはいかない。とはいえ、新聞も全国紙を上げるだけでも、読売・朝日・産経・毎日・日経がある。それぞれ思想や得意分野が特化されているように思えるが、日経は経済分野で長けているからよしとして他の4紙は、思想は若干の違いがあるだけで、ほとんど記事の内容は同じである。
新聞業界が全体的に減少の一途をたどっているのはこれにも原因の一つとして挙げられる。元凶の一つには「記者クラブ」という完全閉塞的なものが機能しているからにある。この「記者クラブ」の歴史は明治維新から、約140年以上にもなる。現在民主党はこの記者クラブの開放も政策の一つとして挙げているのだが、やろうとしているのかというのがまだはっきりしていないのが現状である。

第Ⅱ章「「公共する」ジャーナリズムとは何か」
新聞やTVニュース、コラム・オピニオン誌などの雑誌は一般に「公共ジャーナリズム」と呼ばれている。簡単に言えば公共の電波や媒体を用いて私たち市民に情報を提供する立場にある人たちのことを言っている。しかしこの「公共ジャーナリズム」が時に大きな権力となり、または、最新の情報を集めるあまり惨事の加害者にもなり得る。特に後者については「公共ジャーナリズム」のなかで大きな過ちとなることが多いのだが、それらは非を正すことはほとんどない。
その象徴たる出来事の例として本章の前半ではオウム真理教(現:アーレフ)による「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」、そして14年前に起こった大地震「阪神・淡路大震災」が挙げられている。
後半は全国一律から離れ、地域に根差した「公共ジャーナリズム」について、NPOやNGOなどの活動などを中心に取り上げている。

第Ⅲ章「参加協同型市民社会へのパラダイムシフト」
「参加協同型市民社会」という聞き慣れない言葉が出てくる。簡単に言えば「市民が市民のための」コミュニティづくりやジャーナリズムの形成といったことを行う社会にすることである。本章では市民ボランティアにおけるマスメディア再生について、特にNPOを中心とした「開かれた」ジャーナリズムやマスメディアの有用性、さらにはそれを為し得るためにはどうあるべきか、ということについて書かれている。

第Ⅳ章「マスメディア改革に必要な「公共(する)哲学」――哲学者・金泰昌氏との対話」
ここでは「公共哲学」という学問を専門としている金泰昌氏との対談を掲載している。新聞の現状、新聞社の現状、一市民としてのマスメディアの在り方を哲学的でありながらも、社会学的な要素も含んで対談されている。取っつきにくそうに思えるのだが、私たちの身近な「社会学」も入っているため、取っつきにくさは若干マイルドな形になっている。

変化は様々な場で起こり得るものである。それは新聞などのジャーナリズム・マスメディアにおいても例外ではない。

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