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2012年6月

オオクボ都市の力―多文化空間のダイナミズム

オオクボ都市の力―多文化空間のダイナミズム オオクボ都市の力―多文化空間のダイナミズム
稲葉 佳子

学芸出版社  2008-10-11
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JR山手線で新宿駅から外回り電車に乗ると次の駅は「新大久保」という駅に停車する。私自身、新大久保には一度だけ行ったことがある。4年前の話になるが、会社のプロジェクトの仕事場がちょうどそこに近いところにあったため、忘年会を新大久保から5分ほど歩いたところにある韓国料理店で行った。それ以来一度も行っていないため、現在はどのような形に変貌を遂げているのかはわからない。
当時から新大久保を含めた「大久保」というところは「韓国」の色が濃いというイメージが強く、夜は車が多く通る道から一人ではずれてはいけないと言われたほどである。
そういったイメージしかない私であったが、本書は「韓国」だけではない、いろいろな国の文化が集まっている多国籍・多文化の場所である「大久保」の空間と魅力について紹介している。

第1章「誘惑される「オオクボ」案内」
新大久保駅の南口から竹下通り、あるいは職安通りと呼ばれるところに様々な言語の看板が目立つ。もっとも私自身もハングル文字の看板をよく見るイメージが強い。それだけではなく、いろいろな文化や料理も数多く存在する。
本書では「エスニック」という言葉が数多く出てくるが、そもそも「エスニック」とはいったい何なのか。
直接的に言うと「民族特有」の習慣や風俗などを表しているが、本書の内容で捉えてみると「エスニックグループ(多民族国家における少数民族集団)」という意味合いにも見て取れる。

第2章「なぜ外国人は大久保に集まってきたのか」
大久保に外国人が集まり、かつ現在のようになったのは90年代に入ってからだという。なぜなのだろうか。本章ではそれについてもふれられているが80年代前半に日本語専門学校がこの大久保で乱立し、外国人が集まりだしたことがきっかけにあるのだという。当初は「外国人」でさえ珍しいだけあったが、だんだん増えていくにつれ様々な文化が入ってくるようになった。それらが「外国人居住問題」の引き金になり、様々なトラブルが起こった。理由は文化や価値観の衝突によるものであり、とりわけ前者は考え方が根強いのかもしれない。

第3章「どのようにしてエスニックタウンは発展したのか」
大久保が「エスニックタウン」になった経緯について記しているが、「エスニック」と呼ばれるような独特なサービスに発展したものとして「飲食」もさることながら「美容院」や「薬局」「宗教施設」なども「エスニック」にちなんだ独特なサービスを行う施設として発展しているのだという。特に「宗教施設」はどのように発展したのか興味深い。

第4章「なぜダイナミックな都市変容が起きたのか」
第2章では外国人が入ってきた理由を述べてきたが、ここでは「エスニックタウン」と呼ばれるようになった経緯について綴っている。古くは7・80年代に細街路の雑居空間から挑戦や台湾・老華僑の店舗が立地してきたことが始まりとされてきた。

第5章「大久保から「オオクボ」への軌跡」
ここでは江戸時代からの「大久保」の土地性から論じている。元々江戸城から少し離れたところにあるが、「郊外」という意識が強く、下級武士の屋敷地であったのだという。その歴史は明治・大正と進んでも変わることなく、同じ「新宿区」でありながら新宿とは違い、「郊外」と言える場所として扱われた。

第6章「都市の生命性と多様性」
大久保は多国籍化になるにつれ、「オオクボ」と呼ばれ各国の共通語にまでなった。本書でも「大久保」ではなく「オオクボ」と呼ぶようになる所以と言える。日本では様々な国、そしてその文化が混在するが、「大久保」はそれが顕著といえる。

「都市」の概念は様々な角度で進化を遂げている。かつて「秋葉原」についての進化について「アキバを創った12人の侍」と言う本にて取り上げたことはあるのだが、「大久保」は秋葉原とは違った「進化」を遂げている。本書は大久保の観点から「都市」の進化を見ることが出来る一冊といえる。

人を育てる時代は終わったか

人を育てる時代は終わったか 人を育てる時代は終わったか
荒井 千暁

PHP研究所  2008-02-21
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社会人5年目を迎えて3ヶ月経つが、その中で後輩への指導のウェイトが仕事の中でも高くなっている。しかし仕事量も確実に増えておりその中でのやりくりであるため、人を育てる余裕そのものが失われている感も拭えない。
私のような事象は私だけではなく、どの職場でも起こっていることであるという。さらに「成果主義」が導入されてきたことにより、人を育てるよりも自分自身の「成果」にこだわるあまり、社内の人間関係がギスギスしたものになってしまっている。
本書は労働環境と人材育成の現状について考察を行っており、かつそのような状況から脱する糸口を探っている。

一の章「現代の働き方に見る問題点」
90年代から急速に労働環境で言われ続けられているのが「うつ病」や「成果主義」などである。もっともバブルが崩壊し「失われた10年」を迎えたことにより、がんばればがんばるほど見返りがある、という考えがまやかしとなってしまったことにある。
思った以上に業績が伸びるどころか右肩下がりとなった企業もほとんどであり、大手の中には倒産する企業も出てきた。
業績が伸びないだけではない。企業の不祥事やミスによる事故や事件もメディアによって浮き彫りとなり、OJTやマニュアルなどの教育にも欠陥や限界も見えてきてしまった。

二の章「計画至上主義の功罪」
明治時代、長らく鎖国の状態から解き放たれ、西欧の文化を受け入れてきた日本であるが、日本の政治家の中には西欧の文化を重視し、日本の文化を軽視する「外国かぶれ」と呼ばれる政治家も存在し、明治天皇は彼らを嫌っていたと言われている。
「外国かぶれ」と呼ばれるひとは明治時代だけの産物ではない。ましてや日本の政治家のみならず、ビジネスマン・実業家にも同様の人は存在する。
そういった人たちにより、日本的経営が否定され、海外で成功している「成果主義」を盲信的に取り入れるようになった。また経営用語としておなじみの「PDCAサイクル」の「P」の部分に当たる「計画」、計画は重要であるが、必要以上に重視してしまい、不確実性を重要視されないようなことが本章にて取り上げている。

三の章「人を育てる時代から 人が育つ時代への模索」
「効率化」「生産性の向上」
企業にてよく叫ばれている言葉の最たるものとして以上の2つが挙げられる。それをかなえるためには「教育」もその一つとして挙げられるが、教育は目標によってプロセスが異なるばかりではなく、その効果も個人によって異なる。
その「教育」そのものは数値化する事もバロメーターとしてあるのだが、果たしてそれが可能か見えない部分も多い。
人を育てるための「教育」から「教育」からどのように人が育つのか、本章ではそれについて取り上げている。

四の章「生命現象から組織体を考える」
ここでは労働環境というよりもむしろ「生物学」という観点から「組織」についての考察を行っており、他の章とは毛並みが異なる印象である。
「反応」や「進化」など動物における活動と労働をいかに結びつけているのかの考察を行っており、ユニークと言えばユニークな考察であったため個人的に刺激的な章である。

五の章「未知なる能力をどう発掘するか」
心理学で「ジョバリの窓」と呼ばれるものがあり、そのなかで自分にも相手にも気づかれない「未知の窓」が存在する。「潜在能力」と言うべきか、その才能はいつ・どこで目覚めるのかわからない。しかしその能力を発掘させる、もしくはわかるためにもキャリアアップや教育を含めた、身の回りの仕事の中で引き出すかと言うところである。

企業には内外問わず様々な「研修」と呼ばれる教育機関があり、かつOJTにより能力向上を推奨している。しかし昨今の状況から教育に予算を割くことが難しいところにある。その中で職場の人材をいかに育てるのか、そして働きやすい雰囲気をつくるのか、企業が頭を抱えている課題の一つと言えよう。

無縁社会の正体―血縁・地縁・社縁はいかに崩壊したか

無縁社会の正体―血縁・地縁・社縁はいかに崩壊したか 無縁社会の正体―血縁・地縁・社縁はいかに崩壊したか
橘木 俊詔

PHP研究所  2010-12
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昨年取り上げた「無縁社会~“無縁死”三万二千人の衝撃」は現在進行形で起こっている社会問題の一つであり、かつ日本人の現状そのものを映し出している。
たしか「光に向かって~3.11で感じた神道のこころ」という本で仙台のある神主が震災後初めて東京に着たときに「心の被災地」となぞらえて衝撃を受けた話を思い出す。「無縁社会」はまさにこのことを言っているのかもしれない。
本書もまた「無縁社会」について書かれているが、「血」や「地」「会社」などの「縁」の崩壊がいかにして起こったのかを分析している。

第1章「高齢単身者の激増という悲劇」
東大名誉教授の上野千鶴子氏が「おひとりさま」ということばをつくり出してから。「おひとりさま」を実行する方々が増えていったという。
それだけではない。高齢者ばかりではなく、若年・中高年でも「単身者」が多く、第2章でも述べるが未婚者も増加していることも原因の一つとして挙げられる。

第2章「家族をつくろうとしない人々」
戦後間もないとき、そして高度経済成長期真っ只中の時に、2度にわたってベビーブームが起こった。それも完全に「過去の遺産」となり風化してしまった。
「草食系男子」もしくは「絶食系男子」も出てきているだけではなく、「肉食系女子」も出ており、それがミスマッチとなり、かつ貧困化という多重苦により、未婚化に拍車をかけている。

第3章「有縁社会だった日本」
最初に紹介した本の中には、孤独死した人の親族が発見しても、引き取ることを拒否したところもいくつかあったのだという。その孤独死した人々は火葬され、無縁仏に入れられる。孤独死の無縁仏の話ばかりではない。
町内会との地元との縁、さらには社員同士の縁も少なくなってきているという。前者は自分自身も感じており、後者に関しても周りでそういった人もいる。

第4章「低下する家族の絆」
私の故郷は北海道であるため、親とは離ればなれである。しかし時々携帯メールで連絡しており、宅急便で名産品が送られてくる。その度故郷のこと、親のことを思いながら食す。
私事はさておき、本章では子育ての苦悩や離婚率の増加により「家族」という概念が希薄化した要因について分析をしているが、第2章のものと関連性があるのかもしれない。

第5章「無縁社会に期待される政策はあるか」
「無縁社会」の問題はもはや政治的な問題ではない。むしろ解決に向ける糸口の多くは私たち国民そのものにある。
本章では地域や企業、さらにNPOに向けた政策を提言しているが、それ以上に国民それぞれが「縁」の大切さを気づくことが「無縁社会」を脱する第一歩と言える。

「無縁社会」そのものは大震災以前に深刻な問題となった。しかしその大震災の時に多くの命が失われたが、同時に「無縁社会」として解決の一歩と言える「縁」の気づきがあった。

そう「絆」である。

「無縁社会」そのものは解決に至っていないが、昨年の出来事によって、「縁」や「絆」は確実に私たちは気づきつつある。「無縁」という闇に一筋の光は見えているのかもしれない。

ツーリズムとポストモダン社会―後期近代における観光の両義性―

ツーリズムとポストモダン社会―後期近代における観光の両義性― ツーリズムとポストモダン社会―後期近代における観光の両義性―
須藤 廣

明石書店  2012-04-04
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1989年の「ベルリンの壁崩壊」以降、東欧を中心に「ポストモダン」と呼ばれる社会に変化をしていった。観光もまた様々なところから考察、そして変化をしていき「観光社会学」の学問まで誕生するほどまでなった。本書はその観光と「ポストモダン社会」の関連性について「観光社会学」の学問のみならず、映画作品とともに考察を行っている。

第1章「「ザ・ビーチ」の憂鬱」
まず「ザ・ビーチ」について取り上げる必要がある。
「ザ・ビーチ」は2000年にレオナルド・ディカプリオ主演の映画であり、アレックス・ガーランドが1996年に同名の小説を原作とした作品である。私小説であるが、観光を中心にした作品であり一人旅で隊にやってきた男が奇妙な男と知り合ったことにより、伝説のビーチに訪れ、日常とかけ離れた世界に酔いしれると言う話である(もっとも核心的な続きはあるが、私も含め映画を見ていない人に対してネタバレになるためここでは割愛する)。本書で考察を行う観光社会学の核となる題材であり、かつ次章で述べる「虚構観光」にも大いなる関連性を秘めている。

第2章「地域の虚構化と観光化」
では「虚構観光」とはなにか。それは映画やアニメなどのストーリーやノスタルジックを観光によって味わうものと定義されている。これはアニメや映画の舞台に直接足を運ぶ、俗に言う「聖地巡礼」と似ているのだろうか。もし違いがあるとすればどのような違いがあるのか。
そしてもう一つ「虚構」や「観光」の観点から本章では原宿や由布院、長崎についても取り上げている。日常でありながら、空間そのものが「非日常」を投影しているがごとく日常から離れられる空間を作り「観光」になるよう作っている。

第3章「観光文化と他者性」
とはいえ観光文化は「非日常」を作るとはいえ、昨今和田となっている「エコ」や「伝統」に触れ、体験する旅行が増えている。これらの観光のことを文化そのものを観光名物にすることから「文化消費スタイル」と名付けられている。

第4章「後期近代の観光社会学へ向けて」
近年はインターネットの隆盛により情報があたかも濁流のようなスピードで流れる。その中で現地でしか得ることの出来ない一次情報を得るための消費社会としての「観光」があるのかもしれない。

観光は今も昔も変わらないものであるが、観光の概念は時代とともに変化を遂げていく。「ポストモダン」と呼ばれる社会ではどのような「観光」が変遷していったのか、本書ではそれを表しているのだろう。

友だち不信社会

友だち不信社会 (PHP新書) 友だち不信社会 (PHP新書)
山脇 由貴子

PHP研究所  2010-03-16
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「友だち」と呼ばれる存在は学校・会社問わずかけがえのない存在である。しかしその「友だち」そのものの存在が信じられないものになってしまっている。もっとも「いじめ」が顕在化した80年代後半~90年代前半もあるのだが、インターネットなどが普及したことにより「掲示板サイト(裏サイト)」やメールなどでの誹謗中傷の書き込みやメールが相次ぎ、それが心の傷となり、自殺に追い込まれる人もいる。
本書はそのかけがえのない「友だち」さえ疑心暗鬼に陥る原因、そしてその人間の心理と真相について考察を行っている。

第1章「恐怖のウワサ話」
ウワサ話ほど怖いものはない。ただ諺に「人のウワサも75日」にあるとおり限定的なものである・・・と言いたいところだが、誹謗中傷の書き込みにより、75日ですむどころか、学校を卒業してもウワサ話が続いているという。
ウワサ話は学校だけの話ではない。大人社会でも同様のことが起こり、それが被害者の立場が大いに揺らぐことさえあるのだという。ウワサ話による中傷はもはや子供だけの問題ではなくなってしまった。

第2章「ウワサの真相」
そのウワサについて、子どもの場合と大人の場合に分けて紹介している。自己顕示の為、他人の貶めるため、自らの秘密を守るためなど動機は様々である。

第3章「なぜ、人はウワサを流すのか」
人のウワサを流す心理、相手に対する妬みや恨み辛みといったものもあれば、単なる快感を求めるためなど悪意なく誹謗中傷や攻撃をする人もいる。「他人の不幸は密の味」という言葉はよく言ったものであり、本章でもそのことについて紹介している。

第4章「心の病にならないためのウワサ対策マニュアル」
ウワサ話、誹謗中傷はことによっては「心の病」の原因になりかねない。いじめや貶めなどの対策をケースごとに紹介している。

「友だち」と言う言葉は仲間意識を持たせるものなのだろうか、それとも「不信の象徴」なのだろうかわからない。しかし「ウワサ」は技術の変化とともに凶暴化している現状がここに現れている、そう言える一冊である。

2012年 F1ヨーロッパGP アロンソが母国で今季2勝目達成!!

結果は以下の通り。(「F1通信」より)

Round8_final

序盤のスタートダッシュからヴェッテルの優勝が確実と思われました。しかし予想でも抜きにくいコースと言いましたが、こういった状況も起こりうることも考えていましたが、予想以上に順位が大きく入れ替わるという観点で観ればおもしろいレースだったと言えます。

まさかPPを獲得したヴェッテルが34周目にトラブルに遭いリタイアに追い込まれる羽目に。

しかしヨーロッパGPを地元スペインで開催されただけあり、11番手スタートで着実に順位を上げ、ヴェッテルがリタイアしたと同時にトップを奪い、そのまま優勝というまさに地元開催だったアロンソにあるようなレースだったように思えます。

2位・3位には元チャンピオンのライコネンとミハエルが着くというおまけ付き。2012年シーズンでありながらも、あたかも2005年や2006年シーズンと思ってしまうようなポディウムでした。

可夢偉は序盤4番手まで浮上し、あわよくば日本人史上3人目の表彰台獲得までチャンスはあったのですが、日本人ドライバーの宿命と言うべきか、それとも呪縛があると言うべきか、優勝予想で悪い予感を懸念していたのですが、その予想以上のことが起こってしまったと言うほかありません。しかもピットミスやクラッシュ、さらには再びクラッシュとリタイア。さらには次戦5グリッド降格ペナルティとまさに踏んだり蹴ったりのレースといえます。

これはあるイタリア誌で酷評されることは確実と言えます。来年のシートも危ういと言えるかもしれません。

次戦は2週間後、イギリス・シルバーストーン!!

2012年 F1ヨーロッパGP ヴェッテルが「3」づくしと言える今季3回目のPP獲得!! そして優勝予想

結果は以下の通り。(「F1通信」より)

Round8_qualifying

ヴェッテルが最後の最後でスーパーラップを見せ、今季3度目のPP獲得となりました。このPP獲得で通算33回目、それがジム・クラークやアラン・プロストと並ぶ歴代3位タイとなり、実に「3」づくしのPP獲得となりました。次にPP獲得すれば言うまでもなく歴代単独3位となりますが、その上にはアイルトン・セナ(65回)、ミハエル・シューマッハ(68回)となるため、より上に行くためにはまだまだ遠い道のりとなるでしょう。

ただ、昨シーズンは歴代年間最多PP記録を更新する15回をたたき出しているので、数年以内であればそう遠くないかもしれません。

可夢偉は7番手と好位置に付けていますが、トラブルや戦略ミスと言った懸念が残っています。これまでも好位置に付けておきながら、そういった事でポイントを失ったり、最悪リタイアになったりすることもあったので、不安な部分が多いです。

さて、優勝予想と行きましょう。

本命:ヴェッテル

対抗:ハミルトン

要注意:グロージャン、マルドナド

速度は出るとは言え、市街地特有の抜きにくいコースですので、ここはオーバーテイクよりもピット戦略がものを言うレースになるかもしれません。またタイヤ選択がうまくマッチするかという、ドライバーの技量と言うよりもチームとしての戦略そのものが今回のレースの中で最も重要なものとなるでしょう。

2012年 F1ヨーロッパGP フリー走行3回目結果

結果は以下の通り。(「F1通信」より)

Round8_free3

バトンやグロージャンが上々のタイムを出しています。金曜日でコンスタントに速さを見せていたヴェッテルは予選に向けてならしていると言った所かもしれません。

2012年 F1ヨーロッパGP フリー走行1・2回目結果 そしてPP予想

伝統のモナコから2週間、再びスペインにやってきました。今回の舞台はバレンシア市街地コース。2戦連続となる市街地コースでのレースとなりますが、モナコとは違い抜きにくいものの、スピードが出るコースとして知られており、かつ風の強い時の多いコースと言われています。風が強いために、ちょっとでも気を抜いてしまうとあっという間にコースアウト、最悪の場合クラッシュしてリタイアになることもあるコースと言えます。

そのコースではたしてどのようなドラマが生まれるのでしょうか。

早速フリー走行1・2回目の結果を見てみましょう。(「F1通信」より)

1回目

Round8_free1

2回目

Round8_free2

1回目はマルドナド、2回目はヴェッテルと今季の優勝経験者がそれぞれトップタイムをたたき出しました。表だっての波乱はありませんでしたが、全体的に見るとヴェッテルがコンスタントに良いタイムを出していることから頭一つ抜いている感があります。

さて、PP予想と行きましょう。

本命:ヴェッテル

対抗:マルドナド

要注意:ミハエル、アロンソ

フリー走行1・2回目の結果を見て今回は判断しました。ただ、正直なところチームによって1回目、または2回目を重点的に走らせているところもあり、順位的にもばらつきがあったように思えます(いつものことですが、今回はことさらその印象が強かったです)。

ただ、ヴェッテルはコンスタントに速さを保っているだけに、予選でも一発の速さは期待できるでしょう。

団塊モンスター―“妄走老人”たちの事件簿

団塊モンスター―“妄走老人”たちの事件簿 団塊モンスター―“妄走老人”たちの事件簿
高井 尚之

文藝春秋  2010-09
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価値観や常識は時代とともに移ろいで行く。しかしその時代に取り残され、昔の価値観や常識を振り回し、周りを辟易する人がいるのだという。本書のタイトルは「団塊世代」におけるそのような人たちにスポットライトを当てているが、すべての「団塊世代」ひとがそうではなく、かつ「団塊世代」ではなくても、昔の価値観を振り回す人もいることを前置きとして加えておく必要がある。

第一部「妄走老人」
「団塊世代」の多くは企業が定年退職となり、第二の人生を歩む。ある人は隠居をしながら仲間との趣味に勤しむ人、違う会社でまた働く人とそれぞれである。しかし今までの気質は自ら気づくまでなかなか抜けないものであり、老いてゆくとそれが顕著になるケースになることも少なくない。
本章ではそういった人々の発言やクレームについて取り上げている。

第二部「カン違い定年者」
第一部で「今までの気質が抜けず、それが顕著になる」ことを書いたが、それは古巣意識もまた然りである。昔の肩書きや組織、さらには懇親会や株主総会でそういったものを振りかざす人もおり、本章ではそれを取り上げている。

第三部「やれやれ管理職」
管理職とはいっても人それぞれであるが、悲しきかな部下も呆然するほどの管理職も存在する。著者は異なるが「人は上司になるとバカになる」という本にもいくつか記されているが、本章でも部下が迷惑を被る管理職の様々について紹介している。

第四部「使えんベテラン」
管理職に限らず「ベテラン」と呼ばれる人も第三部で書いたような人が存在する。管理職とはまた違った立場であるため、別方向で厄介な部分があるのだという。

第五部「昭和なヒト」
「昭和」という時代と感覚そのものを否定する人がいる。しかし昭和にも昭和の良さがあり、現在にも同様の良さもある。その両方をみることができるのであれば言うことはないのだが、今と昔の感覚、そのどちらかを迎合し、もう一方を排除するような人も少なくない。
本章ではそういった考えの人々について取り上げている。

第六部「お子様オジン」
精神年齢は進化をするのか退化をするのか、あるいはその両方なのかわからない。
しかし年齢的に年をとっていくと精神年齢はあがるが、その逆もありうるという話なのかもしれない。本章ではその後者といえうべきか、そのような人々のトラブルについてを取り上げている。

本書は「取扱説明書」というべきなのか、それとも「生体手帳」というべきなのだろうかはわからない。しかし団塊世代の中にはこういったひとがいる、その人々を投影したと言える。

近所がうるさい!―騒音トラブルの恐怖

近所がうるさい!―騒音トラブルの恐怖 (ベスト新書) 近所がうるさい!―騒音トラブルの恐怖 (ベスト新書)
橋本 典久

ベストセラーズ  2006-06
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「ご近所様」という言葉はもはや「死語」なのだろうか。
「近所迷惑」になるようなことがもはやニュースで取りざたされるほどの「事件」になることも最近では多くなってきている。「近所迷惑」という訳でも無いが、「騒音被害」としては直近でも羽田空港の再拡張により千葉氏への騒音苦情が大幅に増えたというニュースがあった。「ご近所様」と呼ばれる時代の中で様々なことを共有したり許しあった時代があった。たとえそれが「騒音」であったとしても。
そのわずかな「騒音」さえ許されないようになったのはいつ頃なのだろうか。そしてなぜ隣人の「騒音」さえ許されなくなったのか、本書は過去に起こった騒音トラブル事件をもとに分析を行っている。

第1章「すべてピアノ殺人事件から始まった」
「ピアノ殺人事件」は最近の事件ではない。1974年に発生した事件であり、殺人をした犯人は死刑が確定し、死刑囚となった(ただ、現在でも死刑執行された記録は無く、存命かどうかも不明である)。
約30年前にも前の話であるが、現在でも過去でも同様の事件は起こっている。海外に目を向けてみると、当時ソビエト(現:ロシア)の世界的ピアニスト、スタニスラフ・ブーニンがモスクワ市内のアパートでピアノの練習をしていたが、近所迷惑により立ち退きを余儀なくされたという。

第2章「騒音事件を引き起こす心理と生理」
「騒音事件」は近所トラブルだけではない。最近では携帯電話や音楽プレーヤーの発達により、電車やバスなどの公共交通機関での「音漏れ」のトラブルも存在するほどである。
本書は「近所トラブル」の話なのでこの話はここまでにしておいて、本章では「騒音」にまつわる心理的なメカニズムについて論じている。「騒音」がなぜ不快な感情を呼び起こすのだろうか、そしてその「騒音」にまつわる反応や苦痛について、様々なパターンで分析を行っている。

第3章「上階音が引き起こしたトラブルと事件」
「近所トラブル」といっても別に右や左といった「隣」だけではない。アパートやマンション住まいの人であれば「上」や「下」の「隣」も存在する。
その「上」や「下」の階の騒音、たとえば人の足音(とりわけ子供)によるトラブルについて事件と法律双方の観点から考察している。

第4章「無惨、近隣騒音訴訟と判決」
「騒音訴訟」といえば、もっとも有名なものでは「騒音おばさん事件」である。騒音トラブルでありながら、独特なキャラクターのせいか、インターネット上で話題を呼びフラッシュ画面や動画共有サイトでは「MAD」動画になるなどで有名になった。
それはさておき、騒音にまつわる訴訟は今も昔も起こっている。その中で顕著なのは「ペット」と「カラオケ」であり、本章ではそれらを中心に凡例を取り上げている。

第5章「騒音問題、古今東西」
「騒音トラブル」は足音や楽器の音、さらにはペットやカラオケの音ばかりではない。煎餅や麺類を食べる音でさえそれがトラブルの火種になることさえある。「騒音」とは縁遠いイメージのある「ポップコーン」までも「騒音トラブル」の火種になってしまうというと、いよいよ騒音を意識して食べられるものが全くないほどになる。
本章ではその「騒音」について西洋と日本の「音」にまつわる文化、さらには諸外国の騒音問題への意識についても分析している。

第6章「騒音トラブル・そして解決へ」
おそらく「騒音問題」は人間との生活を行っていく上で「無くならない」。騒音に関する規制や法律は年々厳しくなっている。それをさらに規制することで解決をすることはほとんどない。むしろ根本にあるのが「他人への関心」の薄さにあるのでは、それがカバーできない限り、いつまでたっても解決できないのではとさえ思ってしまう。

「人間は生きているから、音は出るのよ」
(上前淳一郎「狂気―ピアノ殺人事件」、及び本書p.237より)

人間だけではない、人間以外にも音を出す動物は存在する。そろそろ夏にさしかかってくる時期には蝉の鳴き声も出てくることだろう。ポップコーンの音よりもむしろうるさくなる蝉の鳴き声で蝉とのトラブルになる・・・それほどナンセンスなことも現実味を帯びることさえある。しかし「騒音」にしても許せるものと許せないものの「分別」、それを私たちは見つけるべきでは、と本書を読んで考えてしまう。「誰しも騒音を出す」という意識、それがトラブルを未然に防ぐ第一歩と言える。

ゴジラ音楽と緊急地震速報 ~あの警報チャイムに込められた福祉工学のメッセージ~

ゴジラ音楽と緊急地震速報 ~あの警報チャイムに込められた福祉工学のメッセージ~ ゴジラ音楽と緊急地震速報 ~あの警報チャイムに込められた福祉工学のメッセージ~
筒井 信介 伊福部 達

ヤマハミュージックメディア  2011-12-22
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昨年の3月11日より幾度となくTVで「チャラン・チャラン」と緊急地震速報が流れたところも多かった。

普段TVを見ない私にとっては携帯電話からサイレンのような音でやってくる緊急地震速報をその音を聞いただけで怯えてしまうほど聞いたことがある。
本書はその「チャラン・チャラン」となる緊急地震速報のメカニズムとゴジラ音楽の関連性について考察を行っている。なお監修者である東京大学教授の伊福部達氏は叔父にゴジラ音楽を手がけた作曲家・伊福部昭がいることを言っておく必要がある。

第1章「ゴジラ音楽と映像音楽四原則」
叔父の伊福部昭氏が手がけた「ゴジラ」の音楽について映画音楽の原則に則って論じている。

叔父の音楽を甥である著者が論じるというのも言葉では代え難い不思議さがあるのは私だけであろうか。

第2章「聴覚の不思議」
小中高大と学生時代から何かと「音楽」に携わってきた私自身でも「聴覚」や「音」に関してわからないことが多い。「音楽」に限らず「生物学」の学問でも解明されていないところがある。
本章では「音」の周波数からいかにしてTVで流れる「緊急地震速報」ができたのかを解き明かしている。

第3章「音の福祉工学と聴覚の世界」
著者が研究している「福祉工学」とはいったいどのような学問なのだろうか。
本章では福祉工学の研究そのものと著者の生い立ちについてを綴っている。

第4章「伊福部達と蝋管再生プロジェクト」
著者が「緊急地震速報」の依頼が来たきっかけは1983年に遡るという。このとき叔父は存命である時代といえる。
それはさておき、その「緊急地震速報」の音を作るヒントの一つとなった「蝋管式蓄音機」の再生プロジェクトについて本章では追っている。

第5章「チャイム音の制作ー課題と検証」
いよいよチャイム制作の裏側である。
著者は叔父が作られた音楽も含めていくつかの曲を候補に挙げている。最初にも紹介した「ゴジラのテーマ」、そのほかにも吹奏楽でも取り上げられている「シンフォニア・タプカーラ」、叔父の音楽以外にも「蒲田行進曲」などがある。

その音楽を参考にいくつかチャイム音をつくりだしたがそれを被験者に試しながら試行錯誤を行った。

第6章「福祉工学が秘める可能性」
そうして「緊急地震速報」のチャイムが完成したが、福祉工学についてこれはあくまで「通過点」である。人工喉頭や補聴器などの研究があるという。

緊急地震速報は聴覚に難のある人、あるいは心理的な不快感を覚えさせず、かつ緊急性を理解させる上でどのような音や周波数が良いのかという研究が詰まった結晶である。それは叔父の音楽の恩恵もあるのだが、これまでに研鑽を進めてきた「福祉工学」のかたまり、といっても過言ではない。本書を読んでそう思った。

生きぞこない …… エリートビジネスマンの「どん底」からの脱出記

生きぞこない …… エリートビジネスマンの「どん底」からの脱出記 生きぞこない …… エリートビジネスマンの「どん底」からの脱出記
北嶋一郎

ポプラ社  2012-06-05
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著者の北嶋氏より献本御礼。
「死にぞこない」という言葉はよく聞く。しかし「生きぞこない」という言葉は初めて聞く。
それはさておき、かつて第一線にたったエリートマンがいつの間にか凋落し、最底辺の淵をさまようことも最近では少なくない。北嶋一郎氏もその一人であるが、まさに「どん底」という人生を這いつくばりながら今日も生きている。そう、歯を食いしばるほど必死な形相で。
破綻や自殺未遂など人生における「絶望」を感じ、それを今も触れ続けながら見出す「希望」、そして「生きる」ことの尊さ、本書の表紙には左向きに俯きながらひたむきに前へ進む姿がある。

「自分と同じ轍を踏んで欲しくない」

著者は本書で自らをさらけ出すことによりそれを訴えている。

第一章「目標は国際派ビジネスマン」
著者が社会人になったときはちょうど「バブル景気」と呼ばれる時代であった。会社としても「売り手市場」と呼ばれた時代である。
著者もまた外資系大手の企業に就職したのだが、その社会人になる前の著者は高度経済成長とカルチャー・ショック、そしてジャパン・バッシングを肌身に受けた学校生活であった。

第二章「会社員としての「戦略」」
話を社会人の時代に戻す。外資系大手IT会社に就職したが、配属されたところは並のスタミナではついていけないようなところであった。ITの成長が始まりかけていただけにIT企業の需要も高まる予兆もあった。
やがて、会社員としてのバロメーターである「昇進」や「昇給」や「売上貢献」をすべく、社内の上司という上司を観察しながら、技を盗みつつ、近づいてきにいってもらえるような戦略を立て、実行するということを繰り返した。
しかし会社の流れはなかなか読めないほど、なにが起こるかわからない。とりわけ外国に本社を置く「外資系企業」であればなおさらである。

第三章「再就職という名の迷路」
その「なにが起こるかわからない」現象、すなわち「予想外」と呼ばれるものは、会社そのものを揺るがすほど、見に置かれている環境が劇的に変化をすることさえある。そう「前触れもなく」である。
就職した会社から買収元の会社に移ることとなったが、そこから転職生活が始まった。外資系会社の怖さを知り、日本企業の閉塞感を知り、学校の頃とはまた違った「カルチャー・ショック」に襲われ、長続きしなかった。

第四章「破綻」
転職生活が続くなか、リーマン・ショックが起こり、雇用市場は突然厳しくなってしまった。管理職の経験もあり、かつ短期間で転職を経験している著者にとってはさらに狭きもんとなってしまった。
転職浪人が続く中、失業保険が切れ、完全に彼女の収入頼りの「ヒモ」状態となった。その中で物欲の激しさの反動からか貯金が尽きるどころか、借金も膨れ上がっていった。
就職先が決まらない中、様々なアルバイトに就いた。しかし会社員時代のクセやプライドが足枷となり長くは続かなかった。それどころか「うつ」まで発症してしまった。
そして自殺未遂・・・。
一命を取り留めた著者はやがて自己破産を申請した。

第五章「絶望の果てに」
自殺未遂から生き永らえ、「死に体」「生ける屍」と呼ばれるような状態になりながらも、入院先で一筋の光のようなものを見つけた。そして自己破産をした後で仲間内の飲み会が開催された。そしてそこで著者自身の価値観を大きく変えさせた。それと同時に仕事において、そして人生において大切なことを教わったのかもしれない。

人生をあたかもジェットコースターの如く駆け抜けていった。まだ人生まっただ中であるが、人生において、そして仕事において大切なことを学び、俯きながらも確実に前へ進んでいる。そう底辺の淵から高くそびえ立つ山に挑むように、長い長い山道を登りながら。

最後に献本の際、著者から私に送られた便箋にて「ビジネスと人文、どちらに響くのか、楽しみにしています」と書かれていたが、ビジネスとして大切なことは書かれていたが、人生にも通ずるものがほとんどであったので「「人文」に響きました」と答える。

あきらめなかった いつだって

あきらめなかった いつだって (100年インタビュー) あきらめなかった いつだって (100年インタビュー)
森 光子

PHP研究所  2011-05-21
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2009年に女優として初めて「国民栄誉賞」を受賞し、現在では日本を代表する女優として、齢90を越えてもなお第一線で活躍している森光子。彼女の人生は必ずといってもいいほど順風満帆とは言えなかった。
「波乱」という言葉よいうよりも、約20年にも及ぶ長い「下積み」の経験が約80年にも及ぶ女優人生の大きな土台としてある。「放浪記」を筆頭に「おもしろい女」「桜月記」などで活躍した女優が自ら半生をつづった一冊が本書である。

第一章「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」
この川柳は私自身、落語の世界でよく言われたことを聴いたことがある。しかしこの川柳そのものは落語の世界だけではなく、エンターテイナーの世界についているものであればどこでも使われる川柳なのかもしれない。
役者の世界でも例外ではない。15歳で役者デビューを飾るも、主役の座を得たのは現在でもロングランを続けている舞台「放浪記」に抜擢されるまで26年間なかった。
その放浪記の醍醐味のエピソードと思い出も含めて、本章では初めて主役を得た「放浪記」を綴っている。

第二章「京都に生まれて・・・・・・」
著者は1920年に京都で生まれた。「大正ロマン」真っ只中と呼ばれた時代の雰囲気と文化を小さい頃から触れ続けてきた。14歳と現代で言う中学生の頃に女優デビューしたが、程なくして大東亜戦争となり、「慰問団」として戦争地へ慰問に赴く毎日だった。終戦を迎えた後、米軍キャンプで謳ったり、京都に戻って下積み生活を送ったりと数多くの「苦労」を重ねてきた。

第三章「人生の「放浪記」」
著者にとって「放浪記」は著者の人生そのものとも言える。その著者が主役として放浪記に出演し始めたのが、昭和36年。ちょうど50年前のことである。それ以来2千回にも3千回にも及ぶほどの公演を重ねてきた。

第四章「テレビではお母さん女優」
著者は舞台だけで活躍したわけではない、TVドラマでも「お母さん役」を中心に『時間ですよ』などのドラマに多数出演した。そして著者自身が90歳でも第一線で活躍できる健康法、そして100歳に向けての豊富を述べている。

日本を代表する大女優として現在も第一線で輝き続けている森光子。彼女の姿は俳優界のみならず、日本人が忘れかけていたものを、本書を通じて自らの背中で教えてくれるような気がした。

食える数学

食える数学 食える数学
神永 正博

ディスカヴァー・トゥエンティワン  2010-11-16
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かつて学校で習った「数学」、それが会社員として仕事を始めた今でも活きることもあれば、単なる机上の空論として終わったものもある。
もっというと、学校の授業の「数学」そのものを苦手としたり嫌ったりとする人が多い。
しかし最近ではビジネスの場でも「数学」が重要視されてきており、ビジネス書でも「数学」をテーマにしたものが乱舞している。本書は「学術の為の数学」ではなく、「社会人としての数学」、すなわち「食べられる用になるための数学」、「食える数学」とするための「実用数学」のいろはを紹介している。

第1章「役に立つ数学入門」
「因数分解」「微分方程式」「三角関数」「指数・対数」など、世の中には様々な「数学」が存在する。
数学嫌いの人であれば、これらの言葉を聴いただけでも嫌悪感をもよおすほどである。原因としても単純で「テストで苦しめられた」「メカニズムがわからない」など様々である。
しかし生活の中には「数学」があると言っても過言ではない。「因数分解」であればコンピュータやシステムにおける「暗号化」、「微分方程式」であれば「津波観測」、「三角関数」であれば「音声の周波数」などで使われているのだという。

第2章「どの数学が好きですか?」
数学ほど好き嫌いの激しい科目はないと言っても過言ではない。「数学嫌い」もいれば、熱狂的な「数学好き」もいる。さらにいうと「数学好き」でも「幾何学」が好きだとか、「指数・対数」が好きな人もいる。本章では様々な「数学」についてどのような学問なのか、「幾何学」や「指数・対数」などに関して、「総論としての「数学」」を論じている。

第3章「数学者ではない人のための数学」
第2章で「「総論」としての数学」について論じているが、あくまで本書は「数学者ではない人」をターゲットにしている。もっと言うと「ビジネスマン」など様々なところで「食べていける」ための数学を紹介しているだけである。本章ではそのための「数学」の立ち位置はどうあればよいのかを表している。

本書はあくまで「数学」の参考書や学習本ではない。その「数学」そのものを「食えるため」にするための心構えを紹介した一冊である。数学をビジネスの為に役立てる、あるいは数学好きのためにビジネスに昇華するにはどうしたらよいのか、それを考える以前の土台を築き上げる為の一冊が本書と言える。

天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生

天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生 天に響く歌―歌姫・本田美奈子.の人生

ワニブックス  2007-04
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本田美奈子.が亡くなってまもなく7年経つ。私自身本田美奈子.の存在を知ったのは亡くなった直後、「たけしの誰でもピカソ」という番組であった。デビューの頃からアイドルとしてばく進し、そこからミュージカル女優に、そしてクラシック・クロスオーバーの歌手として様々な「歌」の可能性に挑戦し続けてきた女性であり、かつ「プロ」とは何かを考えさせられたもう一人の人物である。
38年間の人生を「歌」の為に捧げ、そして「歌姫」となった女性・本田美奈子.の群像を描いている。

第1章「アイドル誕生」

「殺意のバカンス」「1986年のマリリン」などヒット曲を生み出しながらも自由奔放なアイドルとして活躍した。当時は松田聖子や中森明菜などアイドルが大量に誕生した時期である。アイドルとして活躍する一方で、松田や中森といった華々しく賞をとったわけではなく、さらに自分自身「アイドル」に疑問視するほど思い悩んだ。

第2章「舞台で生きる」

アイドルとして悩みだしたとき、そこにあったのは「ミュージカル」、アイドル真っ只中の時は見向きもしなかった。しかし次第に「アイドル」としての活躍も少なくなった。本田美奈子.はそれを「チャンス」と感じ、オーディションを受け、見事主人公である「キム役」に選ばれた。それからはアイドルの仕事をいっさい断り、「ミス・サイゴン」の稽古一本に絞り込んだ。そして初演は大成功を収めたが、数ヶ月後公演中、舞台の台車に右足をひいてしまい16針を縫うほどの大けがをした。その状態でも「ミス・サイゴン」への情熱を忘れず第一幕を演じきった。代役がやってくるまで第二幕もやると右指の骨を折り、靴の中が血の海の状態でも一歩を退かなかった。
最初に「プロ意識を考えさせられた」のはこのときである。このような状態であれば、大多数の人は気を失うような惨状である。にもかかわらず舞台への情熱を捨てないこと、そして舞台への想い、それは次章にもあるような言葉がそうさせている。本当の「プロ」とは身を賭すような状況になろうとも、ゆずれないものがある、たとえそのような状況のあろうとも。
やがて「レ・ミゼラブル」や「クラウディア」などの舞台を踏み、「クラシック・クロスオーバー」の世界に飛び込むなど、新たなチャレンジを続けていった。

第3章「生きるために生きる」

しかし、新たなチャレンジを続けていく彼女の中で密かに「白血病」という名の病魔に襲われた。2004年の話である。その病魔にもめげず、彼女は歌い続けた。一度は退院し、また精力的に活動を続けようとした矢先、またも「白血病」が再発し、容態は急変、やがて彼女は天に召された。あたかも名曲としてしられる「つばさ」をはためかせ・・・。

第4章「太陽になりたい」

彼女は「太陽」が好きで「太陽になりたい」と言ったのだという。彼女の奏でる歌、「Amazing Grace」や「寿ぴたー」「新世界」「つばさ」「新世界」「アヴェ・マリア」・・・といくら挙げてもきりがないが、その歌一つ一つを取っても、「生きる」ことへの明るい思いが込められている。感動と勇気と希望、それぞれの感情を起こさせるような歌。そう彼女は「太陽」として、私たちを照らし続けているのである。

彼女が亡くなってから7年経つが、彼女の歌は色褪せない。むしろ歌の輝きは増し続けながら、今日でも愛されている。今までも、そしてこれからも・・・。

女後継者―ストーミー・ペトラルの幸せ

女後継者〈上〉―ストーミー・ペトラルの幸せ 女後継者〈上〉―ストーミー・ペトラルの幸せ
バーバラ・テイラー ブラッドフォード Barbara Taylor Bradford

アストラル  2008-02
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女後継者〈下〉―ストーミー・ペトラルの幸せ 女後継者〈下〉―ストーミー・ペトラルの幸せ
バーバラ・テイラー ブラッドフォード Barbara Taylor Bradford

アストラル  2008-02
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「女は度胸」とも言い、「女は愛嬌」とも言う。

正しいことわざとしては「男は度胸、女は愛嬌、坊主はお経」と言われているが、最初に記しているようなことでも「言葉の意味」としてではなく、本書にでてくる女性の後継者たちの「生きざま」がそう言っているように思えてならない。

本書は一代にしてクィーン・エリザベスに匹敵するほどの財をなし得た資産家の娘・孫・曾孫・玄孫・・・と様々な「後継者」と呼ばれる女性たちの戦い・恋を4人の主人公のパターンで描いている。

その4人の主人公が紡ぎ出すラブストーリーは日本で語られる甘く切ないものが多いのだが、本書で紡がれるものはブルジョワの階級であるせいか、それともその意識の強いイギリスであるせいか、「恋心」の中にもしたたかな「駆け引き」も描いており、ハラハラさせられるような描写もあり、おもしろい作品と言える。

光に向かって~3.11で感じた神道のこころ

光に向かって: 3.11で感じた神道のこころ 光に向かって: 3.11で感じた神道のこころ
川村一代

晶文社  2012-04-23
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2011年3月11日の東日本大震災は多くの人々と家屋を飲み込んだ。そして日常を壊し、「異常」と呼ばれる事態に見回れた。その災厄の中で私たちの奥底に残っていた「連帯」や日本人独特の「美徳」が発揮し、それが海外メディアにとって「奇跡」のようにも見えるほどだったという。
その震災の中で様々な角度から復興への支援の動きを見せている。3月に「利他主義と宗教」という本で、仏教の観点から復興への動きを紹介したが、本書は日本古来からある宗教「神道」の観点、それも東北の神社の宮司や神職に就いている方々の経験をもとに「神道」の角度からできることを見いだしている。

第1章「月山神社・今泉天満宮」
この震災で壊滅的な被害を受けた地域の一つである宮城県陸前高田市。その災厄の中で「奇跡の一本松」が残り、話題ともなった。その陸前高田市と隣にある気仙沼市に近いところにある「月山神社」では津波被害から難を逃れた人々の避難所となった。
本章ではその避難所となったときのエピソードを綴っているが、中でも目を引いたのが宮司夫人の震災後に初めて上京したときの体験談である。
「心の被災地」「被災地よりも「被災地」」
その言葉が私の胸を鋭く突き刺さる感がしてならなかった。

第2章「上山八幡宮」
宮城県本吉郡南三陸町もまた津波被害により人口の1割にも及ぶ1000人が死亡、行方不明に見舞われた地域である。「上山八幡宮」もまた避難所の役割を果たしたが、宮司の教え子たちの支援なくしては役割を果たせなかったと言う。「教え子」とは宮司はかつて高校教師をつとめており、新人教師立った時代に持った生徒たち数人である。10年経とうとも、50年経とうともその縁は変わらず生き続け思わぬところで発揮したと言える。

第3章「鹿島御児神社」
宮城県石巻市も甚大な被害を受けたところの一つであり、それについては「6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録」に詳しく綴っているほどである。
その石巻でも様々なところからの支援を受けてきたのだが、その中で思想や主義主張を振りまく人もいたのだという。復興への息吹を見せる中で様々な祭りやイベントを主催し、モノ・心双方で復興を盛り立てていった。

第4章「伊去波夜和氣命(いこはやわきみこと)神社」
震災によるガレキは最近では受け入れる地域も出てきている一方で放射能の観点から受け入れを拒否したり妨害したりする人や団体も出ている。
そのガレキにまみれたところの中で人々は自然の驚異におびえながらも「神道」にある「自然との共生」を模索し続けていった。私たち人間がちっぽけに思えるほど大きな「自然」の中で、「感謝」と「畏敬」を持ちながら生き続けること、それを日本人古来ある生き方であることを教えてくれる。

第5章「金華山黄金山神社」
約50年にもわたって宮司をとり、今では「名誉宮司」として石巻と神社を見守る女性宮司だが、石巻の中でも離島に位置した場所にある神社は震災により鳥居は崩壊し、復興の足を進めていく矢先、台風被害にもあった。1300年にもわたる歴史を持つ神社であるが、その歴史でも体験したことのないほどの被害を受け、島を離れざるを得なかった。

第6章「相馬中村神社」
福島県相馬市は震災の被害を受けただけではなく、福島第一原発にほど近いところに位置しており、放射能により「警戒区域」に指定され、避難せざるを得なくなった。しかし相馬中村神社が昔から伝統ある祭事である「相馬野馬追」は、規模は小さけれど開催することができた。明治時代に起こった大飢饉でも開催できた、それが大きなモチベーションとなり開催にこぎつけたという。

第7章「八重垣神社」
「形あるものはいつかその姿を失う」
それはいつ何時なのかはわからない。できてすぐの時もあれば、何十年、何百年、何千年と時を経て失うものもある。震災によって神社が流されたことにより、宮司はその言葉をまざまざと見せつけられた。

第8章「旅の終わりに 若一王子宮」
最後は著者のつとめる神社である。
著者はライターをつとめる傍ら、神職を勤めている。なぜ神職になろうとした理由は何なのだろうか、そしてなぜ東北の神社を訪れようとしたのか。本章ではそれを綴っている。

本書は神社とその体験談を紹介しているばかりではない。天皇陛下や歴代天皇の東北、そして震災にまつわる和歌も紹介されており、震災へのお痛みと東北への郷愁が表れている。「みちのくの都」と呼ばれる「東北」は首都圏に生きる私たちにとっても決して欠かせない場所であり、かつなくてはならない場所である。その中で東北の為にできること、私たちはそのことを問われている。

媚びない人生

媚びない人生 媚びない人生
ジョン・キム

ダイヤモンド社  2012-05-25
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「従順な羊ではなく野良猫になれ」
日本人、とりわけ日本企業に勤めている人たちは「猫」よりも「羊」や「犬」になる傾向にあるのかもしれない。「個性」や「自分」という存在を向き合うことさえ許されない状況であるが、そこから脱しいかに「向き合い」、誰にも「媚びず」に自分らしく生きるべきか、本書は道しるべを教えるのではなく、生きることと向き合う「糧」を見いだす一冊といっても過言ではない。

第一章「「今」と向き合う~自然体になれる強さを手に入れる」
私は現在や過去に生きているのではない。常に「今」ここに生きている。
その「今」と向き合う、誰の目もくれず、ただひたすらに「野良猫」の自分と向き合うことにより、「今」と「自分」を見出し、成長の糧とする事ができる。

第二章「自分と向き合う~富士山ではなく、エベレストを目指せ」
私だったら「富士山」よりも「エベレスト」よりも、むしろ「梅里雪山(メイリーシュエシャン)」を目指す。理由は簡単である。富士山もエベレストも登頂に成功した人はいるが、「梅里雪山」は数多くの冒険家、登山家が挑戦したが、未だ誰も登場に成功した人がいないからである。
本章の話を戻すが、目標や目的を「山」となぞらえ、成長や研鑽に対する「苦しみ」を「坂道」を上る一歩として、自分だけの時間、「孤独」な時間を持ち、向き合うことによってより高みに登っていく。

第三章「社会と向き合う~不可抗力に逆らわず、可抗力の統制に集中する」
自分のコントロールのできるもの、逆にできないものもある。前者を「可抗力」、後者を「不可抗力」と定義されている。自分のコントロールできるものを知ることにより、コントロールできる範囲を知り、それを広げ社会と真っ向から向き合う。それが成長だけではなく社会的な「守・破・離」の循環を得ることができる。

第四章「他者と向き合う」
「人の振り見て我が振り直せ」
他人の目に苛まれるのではなく、むしろ他人の振りをみて、自分はどうするか、客観的に向き合うことで自分だけの領域を見出すことができる。      

第五章「仕事と向き合う~超ガラパゴス人材になる」
仕事に対する考え方としてもっとも多く取り上げられる質問として、

「あなたにとって何のために仕事をするのか」

というのがある。その質問を聞かれる度に「楽しむ為」や「面白さの為」と答える。けっして「生活の為」とは答えない。当然生活をするために生活費を稼ぐ必要があるが、それは仕事をして稼ぐことだけでなく、いくらでもある(法に触れない範囲であるが)。
仕事を通じて様々な場面や分野で成長をすることができるが、その成長の「ベクトル」をどうするかを自分と向き合う。そしてそのためにやるべきことをやり、やりたいことを見つけることで代わる人材がいないほどの存在になることができる。

第六章「人生と向き合う~5年後の計画は立てるな」
人生は「何が起こるかわからない」。計画通りにいくときもあれば、いかないときもあるが、それは後者の方がどちらかと言えば強い感がある。
何が起こるかわからない、そしてたった一度しかない人生だからでこそ、自分の生きる「目的」と向き合い、そのために何をすべきか・したいかを見出す。

第七章「未来と向き合う~純度の高い自分を創る」
スケジュール帳には様々な未来が広がっている。そのスケジュール帳の空白がそうさせているのだろう。その空白を受け止めながら過去に囚われることなく「今」この時を生きること、それが「自分」を作りだす一里塚と言えよう。

「贈る言葉」

著者の最終講義の原点となった言葉である。漠然とした不安に苛まれる若者たちが内面の「革命」を起こし、真の意味での「自由」を手に入れるための考え方を提示した。そのエッセンスが詰まった一冊であり、悩み・迷えることの多い時代だからでこそそのような時に読み返すことにより自分と向き合うことのできる一冊と言える。

なぜ「改革」は合理的に失敗するのか~改革の不条理

なぜ「改革」は合理的に失敗するのか 改革の不条理 なぜ「改革」は合理的に失敗するのか 改革の不条理
菊澤研宗

朝日新聞出版  2011-03-18
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企業のみならず政治などでも「改革」は多かれ少なかれ進んでいる。しかしその「改革」は合理的に「失敗」することが多い。本書ではそれを「改革の不条理」と定義しているが、「失敗」するにも必ずと言っても良いほど「原因」が存在する。その「原因」とはいったい何か、そもそも「改革」とはいったい何か、本書はそれらの分析を行っている。

第1章「「改革できない理由」は4つある」
本章ではその改革できない理由として4つの理論を紹介している。

1.「取引コスト理論」
2.「エージェンシー理論」
3.「所有権理論」
4.「プロスペクト理論」

一見すると難しい名前の理論が並んでいるが、簡単に言うと、損得や関係、責任、制度など複雑なものが絡み合うこと、さらにそこから生まれる「歪み」によって不条理は生まれ、失敗に陥ってしまう。

第2章「「改革の対象」とは何か」
改革を進めるための第一歩として「対象」とは何かを明確に示すことである。その対象は最初の時点で明確になったとしても、「空気」や「関係」の干渉により当初の目的を失い、明快な「論理」の武器も全く歯が立たず、「空気」という名の魔物に押しつぶされていってしまう。

第3章「「改革策」に潜む不条理」
どんなに優れた改革策が出ていても実際に行い結果を出さなければ机上の空論でしかない。
本章では実際に行われた「医療制度」「教育」「人事」にまつわる改革の「不条理」と「失敗」について考察を行っている。

第4章「「改悪」に導く不条理」
「改革」や「改正」に対して根強く反対する者はそれを「改悪」として定義している。もっとも日本国憲法や教育基本法の改正に反対する人々がそう定義していることが多い。
実際に改革を起こすべく動いているなかで謝ったプロセスを踏むことにより、改革が「改悪」という形に陥ることがある。本章ではその改悪につながる構図について考察を行っている。

第5章「「改革の主役」は誰か」
第2章で改革の対象の考察を行ってきたが、本章ではその対象を改革する「実行者」「主役」といったところから考察を行っている。主導者は経営では社長や会長、政治では大臣や首相がその主役を担うのだが、その主役に求められるのが「自律的」であることが挙げられる。その「自律的」であることにより不条理を取り崩す、もしくは防ぐ役割を担う。

第6章「「改革の不条理」を越えて」
改革には不条理は付き物である、と言われるかもしれない。しかしその「不条理」によって失敗の要因になることも少なくない。その不条理を越えていく力として「人間力」が挙げられる。

今日も政治・経済問わず様々なところで「改革」が行われている。しかしその中には日本独特の要因もあれば、共通して起こる要因により失敗してしまい、取り返しのつかないこともある。本書は改革をやるに当たりはじめに失敗の事例を取り上げることによって予防策を見いだしてくれる一冊と言える。

2012年 F1カナダGP ハミルトンが自身初優勝の地で今季初優勝!

結果は以下の通り。(「F1通信」より)

Round7_final_2

私事でドタバタしてしまい、UPが遅れまして申し訳ありません。

カナダGPと言えばSCが入るほど「波乱」という言葉と隣り合わせでしたが、今回はそれほどの波乱はありませんでした。しかしアクシデントの「波乱」は無くても、ピット戦略やオーバーテイクで至る所で順位が変動し、ハミルトンもピットでヴェッテルを、そしてコース上でアロンソをオーバーテイクすると言った強さで勝利をものにしました。

2位にはグロージャン、3位にペレスとそれぞれ表彰台を獲得。

可夢偉も9位とポイント獲得となりましたが、前述の通りチームメートのペレスがまた表彰台獲得なだけにガッカリしたと言っても過言ではありませんでした。

次戦以降で表彰台に上がらないと、いくら速いとは言ってもシートを追われることにも鳴りかねない。もっと言うと日本人ドライバーは勝負弱いというレッテルを付けられる恐れもあり、次戦以降が正念場となりそうです。

次戦は2週間後!! スペイン・バレンシア!!

2012年 F1カナダGP ヴェッテルが今季2度目のPP獲得!! そして優勝予想

結果は以下の通り。(「F1通信」より)

Round7_qualifying

ヴェッテルが予選すべてのセッションでトップタイムをマークする快走で昨シーズンの圧倒的な速さを彷彿とさせ、見事PPを獲得いたしました。
ただ、決勝は波乱のレースになる可能性が高い場所として知られるため、どこまで逃げ切れるか、そしてその波乱にいかに巻き込まれないかが勝負の鍵となりそうです。
その後ろの2番手、ハミルトンは波乱に強いドライバーとして有名なので、ヴェッテルは油断できません。3番手のアロンソもまた然りです。

可夢偉は11番手とポイントに届く所にいますが、ここ最近ではトラブルやクラッシュに巻き込まれることがあり、なかなかポイントを稼げないでいるため、このレースでもちょっと心配です。

さて、優勝予想と行きましょう。

本命:ヴェッテル

対抗:ハミルトン

要注意:アロンソ、ウェーバー

上位勢がどのようなレースになるのかと言うところです。今回は速さだけではなく、波乱をどのように扱うか、そしてタイヤマネジメントも含めたチーム戦略がいかにマッチするかが勝負の決め手となりそうです。

2012年 F1カナダGP フリー走行1・2回目結果 そしてPP予想

F1サーカスはヨーロッパを離れ、一度北米へ。舞台はカナダ・モントリオールにある「ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット」が舞台です。ジル・ヴィルヌーヴといえばフェラーリで勇猛果敢な走りを見せ、ティフォシを熱狂させたドライバーとして有名です。特に有名なのがルネ・アルヌーとの2位争いはF1史上熾烈を極めたバトルとして語り草となっているほど。

話は変わりますが、このカナダGPは好天でも荒天でもクラッシュやSCが何度も起こるほど半含みのレースになることが多く、それがこのGPの面白さを引き立たせています。

さて、フリー走行1・2回目の結果を見てみましょう。(「F1通信」より)

1回目

Round7_free1

2回目

Round7_free2

雨の予報がありましたが、フリー走行1回目のところで小雨が降っただけで、最終的にはドライコンディションでのフリー走行でした。2回ともここで初優勝を遂げたハミルトンがトップタイムをマークしましたが、各回とも赤旗中断が出るほど波乱のレースになる予感もありそうなフリー走行のように思えました。

さて、PP予想と行きましょう。

本命:ハミルトン

対抗:ヴェッテル

要注意:アロンソ、ウェーバー

フリー走行の結果から見たらハミルトンが有力ですが、ここはカナダGP。どうなるかわかりませんが・・・。

自然災害とストレスマネジメント それでも僕らは歩み出す

自然災害とストレスマネジメント それでも僕らは歩み出す 自然災害とストレスマネジメント それでも僕らは歩み出す
磯野 清

文芸社  2012-03-01
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「被災地から被災地へのエール」

本書はそのための一冊と言える。阪神淡路大震災では崩壊した瓦礫による圧死を中心に約6500人もの命が失われた。それだけではなく、その災害により、多大なストレスに押しつぶされ「震災関連死」により自殺する人もいた。しかしそれはメディアでは取り上げない。
本書はその震災から起こったストレスへのマネジメントと心構えについての伝授とともに、被災地へのメッセージとしている。

第1部「私の1995年1月17日」
1995年1月17日
ちょうど夜明けが近づいてきた最中、神戸・淡路島を中心に強い地震が起こった。地底から突発的にせり上げられるような振動の後、激しい横揺れに見回れた。津波こそはなかったモノの、棚や机から様々なものが落ち、家や建物は次々と崩れ落ちた。
一瞬で街は変わり果て、「日常」も奪われ、避難生活に陥った人も宝塚市や明石市の人口を上回るほどであった。

第2部「避難所の教師たちーあの日、そして11年後」
その避難所も私たちの知らないところで次々とトラブルが起こり、インフラも完全に失われたため、行き場を失う避難者も少なくなかった。当時はインターネットすら知られていなかった時代であるだけに情報はほとんどとれないような状態であったため、家族の生存情報やすんでいるところの情報も思うように手に入れることができず、肉体的・精神的にも疲弊した人も数多くいた。
もっとも兵庫は大きな地震があまり起こらない地域である。これ以前に大きな地震とは言っても昭和27年に震度4の地震が起こったくらいである。それ以上の地震は当然兵庫や淡路島の方々は全くと言っても良いほど予測はできなかったと言っても過言ではない。
そのなかで学校の教師たちはどのような心境であるのか、そしてその心境は震災直後と、その11年後とでどのように変わっていったのだろうか。心境のみならず災害に対する意識も含めてここではアンケート調査をもとに考察を行っている。

第3部「震災を越えてー防災(減災)への心構えとストレスマネジメント」
阪神淡路大震災から16年、あの東日本大震災が起こった。大地震を体験した人々はまさに「他人事とは言えない」心境に陥った。震災の情報をみて愕然とする人、身体が凍り付いた人も少なくなかった。本書は震災後に書いたと言われているが、「他人事ではない」だけに、阪神淡路大震災の体験と教訓をそのまま東北の方々に伝えたい、そのようなメッセージがここ、もとい本書そのものに秘めているような気がしてならない。

災害はいつ、なにが起こるかわからない。そしてその対応一つで「人災」に陥ってしまう。「自粛」と呼ばれる行動もその一つである。吉本興業ではその教訓を生かして東日本大震災直後から笑いを提供することを惜しまなかったほどである。
「いま、私(たち)にできること」
かつて震災の受けた人々の答えがこれなのかもしれない。

「嫌消費」不況からの脱出

「嫌消費」不況からの脱出 「嫌消費」不況からの脱出
松田 久一

PHP研究所  2012-01-19
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一昨年の話に遡るが「「嫌消費」世代の研究――経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち」という本で、私たちの世代の「嫌消費」について分析を行った一冊を紹介したが、本書はその続編として「嫌消費」世代が台頭したとき、その不況から脱出する方法を提言している。高度経済成長期でモノは急速に豊かになり、飽和状態になっていったのだが、その反動が「失われた10年」を経てやってきたと言える。不況の中でももっとも「厄介」とも言える「嫌消費」。その脱却の道筋に光明はあるのだろうか。

第1章「「嫌消費」世代の台頭」
モノは次第に豊かになったがその反動で割を食らっている、その中心にいるのが「嫌消費」世代であり、「失われた10年」で雇用が悪化し、消費が冷え込んだ時に、思春期を迎えていた。消費をせびっている姿が色濃く移った中で育ったため、消費よりもむしろ過剰な節約・倹約をする傾向に走り、その余ったお金を銀行や郵便局に預貯金をする。その目的もなく、ただ「老後」や「いざという時」のために。

第2章「機能不全に陥った日本―ものづくり産業の強みと限界」
日本は「ものつくり大国」と称されたが、その「ものつくり」も内需の期待が薄れていき、ターゲットを海外に当てられるようになった。もはやリーディングカンパニーのターゲットも日本を見捨てるところも出てきているだけに、日本の消費はますます冷え込むことが予想されるほどである。それだけではなく、最初にいったような「ものつくり」といえる家電も飽和状態になったことも要因としてあげられる。

第3章「長期経済低迷の正体」
「失われた10年」とも「失われた20年」とも言われる時代はどのようなものだったのか。その中でも需要ミスマッチやデフレなど様々な説が主張されており、その真相や核心は「一つ」であると言えるほど単純なものではないことが窺える。

第4章「「嫌消費」時代の幸福増大法―融合型産業構造への転換」
そのような時代の中で私たちはどのような「幸福」を求めたらよいのだろうか。本章では個人の幸福というよりも、日本経済としての「幸福」を増大するための提言として「産業構造転換」の戦略をいくつか提言している。

第5章「「嫌消費」時代の経営革新―市場プラットフォーム発想」
嫌消費は消費にとって「敵」なのか「味方」なのか、それは経営者らの見方によって変わってくる。このような時代のなかで消費構造だけではなく、経営構造そのものも変わる必要がある。とりわけ経営や市場のなかでもっとも重要視されているのは「プラットフォーム」である。その「プラットフォーム」については平野敦士カール氏の「プラットフォーム戦略」にて詳しく書かれているため、ここでは割愛する。

需要構造は時代とともに変化をしているが、その構造を供給する人々の多くは読み切れておらず、やきもきしている状況が続いている。しかしこの状況は産業や経営、もっと言うと経済そのものも大きな変化をもたらすものと言えるが、劇的な「変化」を嫌う日本人がどのように受け取り、対策を進めていくのか、今の政財界に委ねられていると言っても過言ではない。

なぜメルケルは「転向」したのか-ドイツ原子力四〇年戦争の真実

なぜメルケルは「転向」したのか-ドイツ原子力四〇年戦争の真実 なぜメルケルは「転向」したのか-ドイツ原子力四〇年戦争の真実
熊谷徹

日経BP社  2012-01-26
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政治家は人それぞれの「思想」によって、その思想と合致する政党に入り、そこから政治的な主張や政策を構築し、実行していく。その思想を「転向」する事もあり得るが、それが政治家として国民に対する「裏切り」としてメディアや他の政治家が糾弾することも少なくない。
本書で紹介するドイツの首相であるアンゲラ・メルケルは当初原発推進派として、原発開発に積極的だったのだが、東日本大震災による福島第一原発事故の惨状の情報を知り、すぐさま反対派に転向した。
本書はメルケルが一瞬にして原発推進から反対に「転向」したのだろうか、ドイツの原発事情と日本人とドイツ人の考え方の違いなど様々な角度から考察を行っている。

第1章「甦るチェルノブイリの記憶」
ドイツのメディアでは派に衣着せぬ傾向にあるのだが、福島第一原発事故でも「世界の終わり」「黙示録」となぞられて取り上げられるほどであった。ドイツでも日本に滞在している人に対し、いち早くドイツに戻るようにという情報まで流れてきたほどである。
しかしよく考えてみるとチェルノブイリの事故もあったにも関わらず、2011年ほど対応はできなかった。元々ソ連は社会主義国であり、かつそのことにより情報は隠蔽したことにより、リアルタイムで情報を受け取ることができなかったことが挙げられる。

第2章「ドイツ原子力四〇年戦争」
元々ドイツと原子力発電の関わりは50年以上に及ぶ。その10年後から原子力推進と反対との対立が始まり、今日まで40年にも及んでいたため「四〇年戦争」と言われた。
この原子力推進と廃止に関する二項対立は政治的な「右派」と「左派」とがはっきりと分かれる構図となった。

第3章「フクシマ後のリスク分析」
福島第一原発事故からわずか4ヶ月で2022年までにすべての原発を廃止することを決定し、さらには太陽光発電開発を急速に推し進め、2012年5月25日には原発約20基分もの発電量の世界記録を樹立した。
ドイツでも日本でも原発事故直後に様々な観点から「リスク分析」を行ってきた。その「リスク分析」の方法と日本とドイツの政府が行ったリスク評価の考え方の違いが数多くあり、本章ではそれを取り上げている。

第4章「はじめにリスクありきー日独のリスク意識と人生観」
原子力のみならず、様々な発電施設には「リスク」を伴う。原子力は原発事故による多大なリスクはあるのだが、そこで火力発電にシフトしても二酸化炭素の量もある。太陽光発電も永久的に発電できる者ではなく、かつ晴れの場合にしか発電できない。ましてや東京のように梅雨や夏場は湿度も高く、思った以上の発電量をまかなえない。エネルギー政策はおそらく袋小路に立たされていると言っても過言ではない。
エネルギーのみならず様々なところに「リスク」は存在しており、我々はその「リスク」から逃げ出すことは不可能である。本章は日本人とドイツ人のリスクに対するとらえ方とその行動の違いについて取り上げられている。

おそらく日本の原発事故はこれからも社会問題の一つとして取り上げ続けられることだろう。しかしそれを直面してかからないと、ただでさえ最良の策は皆無に等しいエネルギー対策がより迷宮入りの様相を見いだしてしまう。本書はドイツの考え方を紹介しているだけであり、それを日本人である私たちがどのように受け取るのかにかかっている、と言える一冊である。

子どもの声を社会へ――子どもオンブズの挑戦

子どもの声を社会へ――子どもオンブズの挑戦 (岩波新書) 子どもの声を社会へ――子どもオンブズの挑戦 (岩波新書)
桜井 智恵子

岩波書店  2012-02-22
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「子どもに人権はいらない」
2008年1月27日放送分のに「たかじんのそこまで言って委員会」にて政治評論家の三宅久之氏の発言である。その言葉に関して賛否はどうかというのはここで控えておくが、子どもに人権は必要なのか、というのはこのときから考え始めた。
本書の話に移り、その子どもの人権を守る、そして子どもの声を社会に反映させる「オンブズマン」の役割を担うのが兵庫県川西市に存在する。名付けて「子どもの人権オンブズパーソン」と言われる制度であるが、子どもの声を関係者を通じて問題を解決・提言をする機関である。本書はその制度のあらましと役割を紹介するとともに、子どもと社会の重要性を解き明かしている。

第1章「子どもの人権オンブズパーソンという制度」
この「子どもの人権オンブズパーソン」制度はいつ、どうして始まったのだろうか。
始まったのは1995年の時であるがその前に日本が国連の「子どもの権利条約」を批准したときがきっかけである。兵庫県川西市ではいち早く実行を起こしてきたのだが、他の市町村や国は批准していながらも制度確立に消極的であり、かついじめや虐待が社会問題化するほどにまでなり、2010年に国連の「子どもの権利委員会」から「勧告」を受けるようになった。
そのオンブズパーソンでは、「権利条約」を実行しながらも、子どもと大人との戦い、と言うよりも「対話」を使って衝突を解決する役割を担っている。

第2章「関係に働きかける」
大人と子ども、教師と生徒、あるいは子ども同士など様々な「関係」があり、その中にある「対立」や「いざこざ」なども起こる。その対立やいざこざをいかに回避・解決をはかる為の「働きかけ」を行うのかを事例とともに紹介している。

第3章「社会に働きかける」
生活保護や年金など様々なことを「社会」や「国」のせいにすることもあるのだが、すべてを「国」のせいにするような人も中にはいる。自分自身や内輪に働きかければ解決するようなものまで「国」にやらせようとしている。あたかも「モンスター・ペアレント」の如く。
それはさておき、悩みを聞きながら、様々な関係を「働きかけ」を行うなかで、社会に働きかける必要なものも出てくる。ここで言う「社会に対する働きかけ」は国の制度改正を求めるばかりではなく、世界中の「オンブズマン」が集まり、問題を共有、解決をはかっていくことについても紹介されており、国独特の問題にさせず、世界的に子どもの声を聞き、働きかける活動を紹介している。

第4章「問題のつくられ方」
子どもの中でどのような「問題」が作られていくのだろうか。それは第2章の中で述べてきた「人間関係」によるものだろうか、あるいは今の教育制度によるものだろうか、あるいは自分自身の「心の闇」に関係しているのか、それは人それぞれにある。
本書を読んで思う節がある。それは今「生きづらい」社会であるが、悩みを打ち明けることのできる機関は多い。しかし他人に自分の悩みを打ち明けられるほどの信頼や安心感が私たちの中に現れず、結局悩みは自分の胸の中にしまってしまい、それが自殺や鬱などの心の病に陥っているのではないかと言うことである。
それは子どもだけなのか、というとそうではなく今現役バリバリと働いている大人にも共通することにある。

子どもは親の背中をみて育つ。しかしその親も忙しさなどから子どもを見向きしない人もいるから困りものである。そのような状況の中で子どもたちに「安心」を与える為の役割、「心の世紀」と呼ばれる中、本書で紹介された制度はより重要さを増すだろう。

日本語へんてこてん―古典でわかる!日本語のモンダイ

日本語へんてこてん―古典でわかる!日本語のモンダイ 日本語へんてこてん―古典でわかる!日本語のモンダイ
あんの 秀子

ポプラ社  2007-07
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「今の日本語は乱れている」
これは今に始まったことではない。戦前の時にも同様の議論はされてきている。
しかし著者はそのような議論の中で決定的にかけているものがあるという。それは「古典の側からの考察」がないのだという。確かに古典で出てくる言葉と今の流行語とを見比べてどのようなものが見えるのだろうか。本書ではその日本語の進化と原点とを見比べながら、日本語の難しさと面白さを見出している。

第1章「人気語の意味は増幅する」
「やばい」や「やっぱ」「チョー」という言葉の考察である。
「やばい」という言葉は私たちの世代で流行していると言われているが、画家の岡本太郎もジミー大西の絵を初めて見て、

「描く紙が四角いことにとらわれている。キャンバスは大地。大地はもっとヤバい」

という感想を綴っている。感性で彩る画家に対してなぜ「ヤバい」のか、と聞くほど野暮なものはないのだが、その「やばい」という言葉も、元々十返舎一九の「東海道中膝栗毛」から「やばな~(けしからん)」という言葉が起源と言われているが、そこから派生して「いみじ」や「ゆかし」という言葉の意味にも発展している。言葉の意味の広がりが流行語ばかりではなく、古語でも同様に見えている。

第2章「日本語は副詞国家だ」
「福祉国家」をもじって「「副詞」国家」としているところが面白い。国語や英語の授業で「副詞」の概要は聞いたことがあるが、念のためここでも説明しておく。副詞とは、
「自立語で活用がなく、主語・述語になることのない語のうち、主として連用修飾語として用いられるもの。「非常に」「大変」「全然」などの類。」(「三省堂 大辞林」より)
のことをいう。その「副詞」の流行語も少なくなく「なかなか」や「全然」がある。本章ではその言葉を中心に紹介している。
前者は最近放送されていないがヨネスケの「突撃!隣の晩ごはん」で時々「なかなかですねぇ~」ということがある。もしかしたら「なかなか」はそこからきたのだろうか。
戯れ言はここまでにしておいて、「なかなか」の他に「全然」「正直」「逆に」など様々な副詞が乱舞しているのも私たちの世代で語られる日本語にある。本章では様々な副詞の語源を紹介している。

第3章「あいまいなウチワの私」
暑くなりだしたので、そろそろウチワがほしい季節であるー
・・・と間違えた。「ウチワ」とは言っても自分の周り、もしくは仲間の間でつかう「内輪」な日本語のことを言っている。どのようなことなのか、というと「ありえない」や「~っぽい」「萌え」「みたいな」などが挙げられる。しかし私たちの世代はそういった内輪と仲間内ではない、いわゆる「外輪」と呼ばれる会話の分別がつかず、内輪の会話を外でも行ってしまうことにより、「日本語が乱れている」や「今の若いものは日本語がなっていない」というようなことになってしまっているのだろう。

第4章「やっぱり日本語に主語はいらない」
「主語がないよ」
と他人に言われた覚えがある人もいるだろう。私もよく会話するときにそのことについて注意を受ける。
しかし主語抜きで話すことができるのも日本語の特色の一つとも言える。本章でもその「主語抜き」の文章など古典をもとに紹介している。

第5章「微妙な使い分け」
「ありのまま」と「あるがまま」
「言うな」と「言いな」
「ありがたさ」と「ありがたみ」
という使い分けが難しいものがある。それぞれどのように使う必要があるのかを解説している。

第6章「こんなに生きてる現役古典語」
古典語というと、今の日本語の語源でありながら俗世離れしたような感があり使いづらいように思えてしまう。しかし「~ならでは」や「行きつ戻りつ」など、よく使われる言葉も古典語からきているものもあるのだという。

「言葉は偉大である」と誰かが言っている。それをもじって「日本語は偉大である」とも言える。「日本語が乱れている」と言われているが、むしろ様々な形で「進化」をしているとも言える。その「進化」は社会現象や作品、あるいは古典からきているものもある。日本語は時代とともに進化する。その進化のとらえ方は世代どころか人それぞれ異なる。これまでも、そしてこれからも。

ピア・ボランティア世界へ―ピア(仲間)としての障害者の国際協力

ピア・ボランティア世界へ―ピア(仲間)としての障害者の国際協力 ピア・ボランティア世界へ―ピア(仲間)としての障害者の国際協力
久野 研二

現代書館  2012-04
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「ピア」は直訳すれば「仲間」
障害者同士の仲間やそこから派生するカウンセリングやワーキング、そしてボランティアがある。既存のボランティアやカウンセリングといった単方向なものではなく、むしろ双方向でお互いの心などをケアすることを指している。
おそらくこれからのカウンセリングやボランティアを投影する「ピア・ボランティア」。本書はマレーシアで行われた実践と挑戦を綴るとともに、これからのボランティアとカウンセリングを提言している。

Ⅰ章「ピア、ボランティア、そしてピア・ボランティア」
私も中学生の時に学校の行事ではあるが、障害者施設でボランティアを行ったことがある。その中で障害者のふれあいは今の人生においても様々な糧になっている。
話を戻す。本書は最初に述べた「ピア・ボランティア」を「ピア」と「ボランティア」の観点から紹介している。

Ⅱ章「ピア・ボランティアの挑戦」
「ピア・ボランティア」の実例として9人の方々の「ピア・ボランティア」活動記録である。マレーシアのみならず、シリアや、モンゴルでのピア・ボランティア活動そのもの、そしてそれを行い始めた経緯も九種九様であり、かつ、それぞれの「ピア」をも映し出している。「当事者」としてのボランティア、そしてピアは読み手の私にとって「ボランティア」とは何か、そしてその実践の意義について考えさせられる章である。

Ⅲ章「障害者が国際協力にかかわること」
ボランティアとしての「国際協力」、そしてピア・ボランティアの実現のための道筋として、多くの方々による支援や協力が無くてはならなかった。本書ではその方々への謝意とともにその実現への思いを綴っている。

Ⅳ章「ピア・ボランティアの挑戦から見えてくるもの」
ピア・ボランティアを挑戦した中で「ボランティア」や「ハンディ」とは何か、そしてこれからの「ボランティア」とは、「当事者」とは何か、というのを著者・編者それぞれに問われ、その答えを本章にて見いだしている。

「ボランティア」という言葉を知っていても「ピア・ボランティア」という言葉を知っている人は少ない。それもそのはずで、この「ピア・ボランティア」はごく最近出てきたものであるからである。おそらく「ピア・ボランティア」そのものの活動を綴った本が出たのは本書が初めてなのかもしれない。知られていないからでこそ、ボランティアの可能性は広い、「ピア・ボランティア」はこれからのボランティアのあり方の変わる起爆材の一つと言えよう。

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち 絶望の国の幸福な若者たち
古市 憲寿

講談社  2011-09-06
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雇用不足や貧困化、さらには人間関係の「希薄化」が目立ち、「絶望」と言う言葉も現れ始めた。とりわけその割を食らっているのが私たち「若者」と呼ばれる世代である。
しかしその「若者」も一世代、二世代上の人々から「近頃の若い者は~」というような「俗流若者論」をふるう人もいる。
この「俗流若者論」は紀元前、古代ギリシャの時代から言われ続けてきており、今もまたそれが生き続けている。
本書はその「若者論」の変遷、今と昔の「若者」の群像、そして私たちの世代の「希望」と「幸福」を私と同い年の社会学者の視点から分析をしている。

第一章「「若者」の誕生と終焉」
そもそも「若者」という言葉はいつ頃から誕生したのだろうか。最初に「古代ギリシャ」の時代、ソクラテスやプラトンが活躍した時代と書いたが、それよりも遙か前、紀元前4000年頃に誕生したメソポタミア文明にまで遡るという。それから6000年もの間、「若者」と言う言葉が悲観的にも楽観的にも扱われ始めた。
では、日本はどうか。戦前より「若者」と呼ばれた訳ではなく「青年」という言葉か使われた。そして大東亜戦争を経て、「社会学」などで「若者」という言葉、そして「若者論」が叫ばれ始めたのは1970年代の頃から、悲観論を中心に議論が展開された。

第二章「ムラムラする若者たち」
「ムラムラする」というと性的興奮を催してしまうように見えてしまうのだが、著者のセンスはそう単純なものではない。簡単に言えば「ムラ社会」として内向きなグループや集団を作ることから「村々」をカタカナにして「ムラムラ」という表現を用いている。
内向きでありながらも社会貢献に前向きであり、かつ「嫌消費」でありながらも「幸せ」を覚える若者、それが私たちの世代である。

第三章「崩壊する「日本」?」
本章では「ナショナリズム」について論じているが、国のために殉ずる、もしくは国や自分の民族の為に戦うと言うような純粋な者ではなく、むしろ2010年に行われたワールドかっプや今年行われるロンドンオリンピックで、にわかに熱狂的に呼び起こす感情、すなわち「にわかナショナリズム」を論じている。
しかしこの「にわかナショナリズム」、日本に限らず「猫ひろし騒動」のようにオリンピックに出場できるのならば他国の国籍を持って他国代表として出場すると言うような考えが先進国を中心に出てきているため、本書が出てきてから変化があるのかもしれない。

第四章「「日本」のために立ち上がる若者たち」
私自身、休みの日は時々都心に行くことがある。そのときに目の当たりにするのが何らかの「デモ」である。政治的主張はするにはするが、「お祭り気分」でデモに参加する傾向にあるのだという。本気で社会を変える人も中にはいるが、むしろ「サクラ」と呼ばれるような参加者を巻き込みデモが膨れ上がっているのだろう。

第五章「東日本大震災と「想定内」の若者たち」
3月11日の震災で東北・関東を中心に「日常」が崩れた。
その日常が崩れた中で「ブーム」を作ったり、反原発・脱原発で盛り上がったり、と不謹慎だがオリンピックやワールドカップのような盛り上がりのような雰囲気を著者は察知した。
第六章「絶望の国の幸福な若者たち」
膨らむ赤字、安定しない雇用、重税化、進まぬ復興・・・
もはや「絶望」という他ないような状態の日本で、最も割を食らっている私たち「若者」。しかしその「若者」は「老人」たちのはけ口ではなく、むしろ私たちでしか見つけることのできない「幸福」を持っている。

「~離れ」や「希薄化」「IT依存」など様々なことで「標的」にする私たちの世代。しかし価値観が違うのだから、所詮は「俗流」でしかない。
私たちの世代だからでこそ得られる「未来」と「幸福」それは岡本真夜が歌う「Tomorrow」の歌詞に出てくる花のようなものなのかもしれない。

ささえる医療へ

ささえる医療へ (HS/エイチエス) ささえる医療へ (HS/エイチエス)
村上 智彦

理論社  2012-02-22
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「医療」の形は多様化している。本書で紹介される「在宅医療」や「地域医療」もまた然りである。
本書の舞台は北海道夕張市、今から6年前に財政破綻をした市である。破綻を宣言した直後から北海道を中心に様々な特集や応援企画が組まれ一時大盛り上がりとなった。
現在は長きにわたる財政再建の真っ只中にある。
著者はその夕張が財政破綻をした頃に「ささえる医療」をスローガンに「在宅医療」や「地域医療」を始めた。その5年間を綴るとともに、本来ある「地域医療」「在宅医療」、そして「医療」そのものとは何かを綴っている。

第一章「4年間を振り返って」
財政破綻とともに、人口に対する高齢者率も北海道の市町村の中で最も高い比率となった。
著者の4年間はまさに「いろいろ」あった。行政や他の医師らとの対立・諍い、プロジェクトの内部分裂、停滞・衰退、そして医療問題との直面など、著者自身も「医療」そのものの葛藤もあった。

第二章「在宅医療の時代」
高齢者は病院に行くにも寝たきり、もしくは歩けないなどのリスクにより病院に行くことができないこともある。そういった方々も多くなってくると、「在宅医療」の需要も広がる。医療インフラの広がり、そして地域や医師・患者の距離感についてを綴っている。

第三章「公としての医療」
医療は何として機能しているのだろうか。「官」のためかと言うと、法律などのバックアップを行うだけであり、中心地にいるわけではない。「民」はビジネスとしての支店でしか無く、採算のとれない過疎地まで医療は届くことが無い。
では「公」はどうか、利益は少々でも将来の為に人を育てる、それだけではなく過疎の地域まで行き届き、決して人任せでなく、住民が自ら参加するような医療こそ、現在の医療としてあるべき姿であるという。

第四章「震災に活きる地域医療」
夕張から舞台を変え、震災で甚大な被害を受けた場所の一つである、岩手県藤沢市で地域医療・在宅医療の支援を行ったことを綴っている。

第五章「時代の中の地域医療」
戦後医療はどのように発展したのか、そしてインフラとしての医療は何なのかという問いについて答えている。

第六章「医療と教育」
医療と同じインフラとしての役割を担うのが、「教育」について綴っている。

第七章「これからの夕張医療センター」
夕張市と夕張医療センターとのこれからについて綴っている。それは地域医療と在宅医療のこれからと重なっているのかもしれない。

財政再建都市としての夕張、そしてその夕張の地で「地域医療」「在宅医療」のあり方を考え、実践している、そして「支える」ための医療への発展としての希望とビジョンを見いだす為の一冊と言える。

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