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私のなかのよき日本―台湾駐日代表夫人の回想五十年

私のなかのよき日本―台湾駐日代表夫人の回想五十年 私のなかのよき日本―台湾駐日代表夫人の回想五十年
盧 千恵

草思社  2007-04-07
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日本統治時代の台湾を知っている人は今どれくらいいるのだろうか。
台湾にとって日本人というのは2つの意味合いを持っている。ひとつは上記の統治時代により、「日本精神(リップンチェンチン)」を教わったことへの感謝の念と、日本文化への憧れ。もう一つ、これは戦後中国から渡ってきた台湾人のことだが(いわゆる「外省人」と呼ばれる人々)、彼らは日本は憎悪の的として見ている。実は彼らは日中戦争や国共内乱の時に国民党についた人たちだからである。そのリーダーが蒋介石であり、台湾において戒厳令をしき二・二八事件で2万8千人もの台湾人を虐殺したとして知られている。しかし蒋介石も悪いところばかりではなく若いころは日本に留学した経験があるほどの親日家であった。しかし共産党から国民党の弱点を突きながら反日に転じたといういきさつがあった。もし中国共産党がなかったら中国と日本が本当に手を取り合ったのかもしれない。
話を戻す本書は台湾駐日代表夫人から見た日本像を描いている。
第1章において台湾人が「旅行したい国」「移住したい国」「尊敬する国」はどこかというアンケートでどれも日本が1位であったことを挙げている(ほかにも「留学したい国」も挙げているがこれについて日本は2位だった)。日本統治時代の恩というのははるか遠く昔のことで忘れ去られたのかと思った。蒋介石・蔣経国(蒋介石の長男)の独裁の時代がありそこで反日教育が行われた。そして李登輝が相当になってから一気に台湾は民主主義国家となった。あれからまだ20年経つか経たないかというのにもなぜという考えがしてならない。ただ言えるのは日本ではやったものについて、台湾が見聞きする機会が多く、それを肌で触れたいという気持ちからあるというのは言えるのかもしれない。「言論の自由」が担保される要になってから祖父から日本統治時代のことをよく聞かされて日本に憧れをもった人もいるかもしれない。「隣の国は仲が悪い」というのは国際関係上で自然のことであるが、両国は例外であるといってもいいだろう。しかし現在の馬英九総統政権下でそれが維持できるのかというと疑わしくなるのはあるが。
第2章は1955年に日本の地にわたった著者自身のエピソードである。
著者はこの地で日本語と日本の文化を学んだ。その時は鳩山一郎内閣(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)で、いわゆる「55年体制」が出来上がったのもこの時である。その翌年に日本は国際連合に加盟した。
高度経済成長期に入り始めたころではあるがまだ貧しかった日本に移り住み日本の文化に触れこんだという。そのころ台湾は蒋介石政権下であった。
第3章は夫の出会いと同士の出会いについて書かれている
第4章は祖父・父・母の世代における日本像について書かれているが、その時代の台湾は日本によって統治されていた。日本は台湾に対し衛星の管理やインフラの構築など様々なことにおいて貢献したのは言うまでもない。それによってこのことを知っている世代は日本を愛しているという。ただし差別はあったというのは認めざるを得ない。同じ植民地下にあった朝鮮人を日本人と同じ権利を所有させたが、台湾人は「二等国民」として扱いエリートコースを歩むこともできず、台湾人が企業経営を行うことも許されなかった。また政治運動もあちこちで起こっており、死刑等の弾圧もあるかに思われたが、ある事件において弁護についた、のちの東京裁判において東条英機の弁護人となる清瀬一郎の涙を流しながらの発言により(「祖国で生まれ育った人を、祖国から出ていけというのは、法律上、人道上暴論である」)共感を呼び、逮捕されることにはなったものの、「食事つき無賃宿」というよううな懲役生活にさせることになった。拘留される時は英雄扱いで釈放される時には凱旋将軍となったという。政治運動は活発に行われたが弾圧を行っているという恐怖は見かけ倒しのようなものであったという。ちなみに大東亜戦争が始まってから台湾人も徴兵制の対象となり、そのことから帝国議会議員への可能性もあったのだが結局終戦によりオジャンとなってしまった。こういう人たちはこの歴史もよく知っており、さらに日本語がペラペラである。
第5章は台湾へ帰るという話である。まず言論弾圧により死んだ人の話から入る。李登輝政権初期のころの話であり、この言論人の話を見て、そのころの李登輝政権はどのようであったのかということも考えなければならない。とはいえその後言論の自由は法律の改正によって担保されたというのは言うまでもない。
第6章では著者が大学の教師を辞職をした後のことについて書かれている。ここで重要なものは「サヨンの鐘」と「霧社事件」である。まず「サヨンの鐘」は1941年に台湾全土で流行し、43年に李香蘭(山口淑子)主演で映画化されたものである。台湾では当時大流行であったが、現在日本でこの映画を知っている人はそれほど多くないだろう。「サヨンの鐘」は戦後国民党により撤去されたが、台湾民主化によって復元されており、台湾でも観光名所の一つとして知られている。台湾旅行をした暁にはぜひ見てほしい名所である。「霧社事件」は台湾の先住民族「タイヤル族」が小学校襲撃により日本人約140人(それに加え和服を着た台湾人2人)殺された事件である。これにより日本軍は弾圧を行ったが、これについては議論が分かれており毒ガスを使ったというが、どれくらい殺されているのかというのは定かになっていない。15歳以上のタイヤル族全員が殺されたと書かれている本まである。台湾統治をしている日本にとって先住民族の扱いを再考させる事件であったことには変わりはない。ちなみに国民党による「反日教育」でもこのことが重視されていた。
台湾は日本から程近い国であり、台湾統治時代のあと何年かは隔たりがあったものの日本と台湾が同時に歩んでいった時代があった。民族も多く言語も通貨もばらばらだった台湾を民族の尊厳を尊重させながら統一できたというのも日本の功績であった。私は戦前の日本を美化するつもりは全くない。差別もあったという事実もあった、統治がうまくいっていない時は弾圧もあり沢山の民族を殺したという過去もある。しかしそのことだけではなくまだまだ日本がやってきた功績というのはまだまだあるはずである。それを見つけることにより、真の日本人というのを見つけるべきではないだろうか。

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