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2008年10月

そろそろ整理の刻か

毎度当ブログを閲覧いただき誠にありがとうございます。

当ブログも他のブログを参考にしてか数々のバナーをつけてきました。それが功を奏してかアクセス数も増加しており、私の書評にも熱が入っております(熱が入っているということはもっと読みづらくなっているとおもいます。字が多すぎて)。

節目というわけではありませんが、当ブログがバナーだらけでカオス状態+お世話になった方々のブログのリンクすら滞っていた状況なので、この11月の最初の3連休で改装をします。

何日にやるのかは秘密です。もしかしたらF1最終戦の真っ最中にこっそり改装してしまうということもあります。何日にやるのかは私の裁量次第(というよりこの3連休で気が向いたらの話ですが)。

どのように整理されるのかは私もわかりません。どうなるか。

まぁでも改装される前もされた後も当ブログのごひいきのほどをよろしくお願いいたします。

経営理論 偽りの系譜―マネジメント思想の巨人たちの功罪

経営理論 偽りの系譜―マネジメント思想の巨人たちの功罪 経営理論 偽りの系譜―マネジメント思想の巨人たちの功罪
ジェームズ フープス James Hoopes

東洋経済新報社  2006-02
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本書は経営理論、とりわけマネジメント思想を「必要悪」としてとらえつつも、テイラー以降の経営思想の大家の本質を見抜き、今日の経営者やマネージャーが誤った行動をとる原因と理由について仮説を立てていくという普通の経営理論の考察には御目にかかれない1冊である。
まず第1章で衝撃の節が現れる
「マネジメントは非アメリカ的出る」
今日の経営理論の多くはアメリカ発である。しかしこの経営理論は「非アメリカ的」というレッテルをはるのには本書にも書かれているが矛盾が生じる。しかしここで「はじめに」の所にさかのぼると、
「マネジメントの大家(グル)として、アメリカ人を企業勤務になじませようと、水先案内人の役割を果たした点だ。(p.1より)」
「マネジメントの大家たちは、自由を愛するアメリカ人をマネジメント・パワー(経営の権力)に従わせるという、大仕事に取り組んだ。(p.1より)」
私の推測する限りではこうである。アメリカ人(イギリス等の国から渡ってきたアメリカ人と言いたいところだが、おそらく先住民族らのことを言っているのだろう)は自由気ままに暮らしたがったのだが、ヨーロッパの階層的主義(マネジメント)がやってきて自由をある程度まで剥奪し、企業文化を根付かせ、「偽りの自由の国」を創り上げたといっても過言ではない。こう考えると戦後のGHQによる日本の統治もまさにその一つと言えるだろう。さらにイラク戦争で行った統治政策も然り。
第1章の後はフレデリック・W・テイラーからピーター・ドラッカーまでの経営者を悲観的・批判的に書いている。ある意味皮肉を込めて書いているような気もするのは私だけであろうか。
経営理論はこの世にごまんとあるのだが、本書ほど異端となった本はない。経営理論を勉強している方であれば即刻手に入れてほしいものである。今までの経営理論の考え方が180度変わる。

目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話

目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話 (NHKブックス) 目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話 (NHKブックス)
上田 紀行

日本放送出版協会  2007-06
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今年の春ごろにチベット動乱があったのだが、この時と北京オリンピックの最中にダライ・ラマ猊下が会見される回数が増えてきた。チベット仏教にとっても今非常に深刻な状況に陥っており、チベット仏教が根絶されるのではないかという声さえも聞こえ始めた。とはいえ仏教の中でも最も過酷な修行を行い、悟りを開いているチベット仏教。日本ではそういった光景はあまり想像できない。しいて言うと昨年「堂入り」という宗派は分からないが日本仏教の修行の中で最も過酷な試練に挑み成功した人がいた。ちなみに「堂入り」とは山奥の小屋にて10日間飲まず食わず睡眠せずにひたすらお経を唱え続けるというもの(そこまでしか知らなかった)。とはいえこれを挑むほど熱心に仏教を行っているのだろうかという疑いさえ見えてくる。そして日本人は宗教間がないという人もいる。
それを含めて本書では著者とダライ・ラマ十四世猊下との対談において何をおっしゃられたのか、日本仏教の起爆剤とは、そして日本の問題とはというところまでに及んだ。
まずは経済。日本はGDP世界第2位の国であり、日経平均が一時7,000円台に落ちるほどの恐慌であっても、「格差問題」があっても金や物に恵まれている。戦後の高度経済成長の賜物であろう。しかしそれとは反比例して心の豊かさが急激に下がってきたこともある。むしろ日本人はモノの豊かさを大小に心の豊かさを置き去りにした感じさえもする。また宗教が必要なくてもモノがある、お金があるという時代である。しかし思いやりがなくなったと言われるとそうかもしれない。ここでダライ・ラマ猊下の御言葉を一つ、
「思いやりが大切であるということを強調するのではなく、お金をもうけることが大切なのだ、というような間違った方向付けをしてしまっているのです。(p.40より)」
「たくさんのお金がありさえすれば、思いやりのある優しい友人を持つことも、慈悲深い社会なども必要ではない、というような誤った認識をもってしまうわけです(p.40より)」
上記のようなことを教育の場では教えていなかったとしても社会がそれを語らずも教えてしまったという感じがしてならない。モノの豊かさが先行してしまい人間としての心が置き去りにされてしまっている。これではいじめも妬み・恨みも絶えないようなギスギスとした社会ができてしまう。さらには24時間のマクドナルドやスーパーまでできるためいつでもモノが手に入ることができる。つまり「足る」をわからない世の中になってしまった。豊かになったことが元凶であると言えば事足りるが果たしてそうだろうかという疑問さえある。ただモノの豊かさが心の豊かさに先行しているというのは事実である。そしてその経済成長は西洋的な手法を取り入れて成長できたのだと猊下はおっしゃっていたが、確かにその通りかもしれない。当然その手法というのは合理的・効率的要素が強く、当然利益優先等に絡んでくることだが、それに偏重するあまり日本人としての大事なことを失ったのかもしれない(例えば侠気もそのひとつである)。今度はこれを取り戻す番に来ていると私は思う。
続いては章またぎとなるが宗教と若者への教育である。今の教育には道徳という教科はあるが、学校において愛や思いやりを身につける必要があるのにもかかわらず知性と知識ばかりに目がとらわれていき真の教育は身についていないのかということと、日本人の宗教心の低下を嘆いておられたことである。まずは前者。これについて教育とは何なのかという問題にかかわってくる。今日の教育問題は専ら学力低下による問題ばかりであるが、実際もっと掘り下げてみると体罰指導やモンスターペアレントというようなことが起こり、愛情のこもった教育が施せなくなってしまっているのも事実である。今本当に深刻な教育問題は猊下が語っていたような内容であると私は思う。学力というのは競争によって、そして自ら学びたいという意識づけにすぎない。もっと根底にあるのは学力ではなく、人徳にあるのではなかろうか。人として、日本人としての素養を得るために国語をやる社会をやるし、その中で先生は子供たちに愛情を注ぐ。それによることの体罰や怒鳴り・諭すことは子供を育てるうえでも重要なものである。ある評論家は子供は叱られるのが商売であると言っていたが大体その通りである。というのはむしろ子供というのは誰かに見られて、そして大人たちの姿を見て育っている。その大人たちが子供たちを甘やかすあまりにモンスターペアレントのように無理難題を学校側に押し付けているとしか思えない。結局子供は自分の思い通りには育たない。親たちは自分の首を自分で絞めていることも忘れている。というかそれをさとしても聞く耳を持たないのが今の親の現状の一つだろう。道徳の教科化というよりもまず先生や親が態度で道徳を示さなければ本当の道徳にならないと私は確信する。私自身も親に厳しく育てられた身であるから。
そして後者の宗教である。これは宗教学の範疇にはいるため非常にわかりづらい表現になってしまうかもしれない。まず日本における宗教概念から言わなければならない。日本の宗教は神道と仏教、そしてキリスト教が主な宗教であるがそれだけではなくイスラム教やヒンドゥー教など数多くの宗教が共存している国である。その中で宗教紛争があるのではという不安はあるがそのような事件というのを一切聞かない。もしあったとしても中東諸国など海外で起こっている。ではなぜこのように日本は多宗教であってもそのような紛争が起こらないのだろうか。まず日本の宗教間の根幹である「神道」、これが多神教であること、宗教の大多数が一神教であるがそれを相容れるものがあるのだろう。そういう意味では「神道」というのはほかの宗教に寛容である。本書の話とずれているように思えるが、宗教的な影響力は猊下からの視点では減っているように思えるが、見えないところで宗教が出てくるのが実は日本である。怪談で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「日本は死者の国である」と言った。これに尽きると思う。日本は死んでいても地続きで生きていても神社や寺、教会に入りそこでお祈りを行い、しんだら今度は神様仏様となる。当然神道には葬式のようなことはやらないものの、その代わりその土地・国において貢献したものには「御霊」(靖国神社では「英霊」)として祀られる。つまり宗教的な概念をもたなくとも日本人の中に「カミ」の概念が染みついているためなので、宗教ということをありのまま入れなくても宗教的概念が染みついているのでそれを取り入れる必要がない。その証拠には室町時代末期にポルトガルからキリスト教の信仰のために日本にフランシスコ・ザビエルらがやってきたが思ったよりも侵攻されなかったのはそのためである。
まだまだ書きたいことはたくさんあるのだが、これ以上書くとものすごい長さになるのでさすがにここまでにしておく。ただ簡単にまとめるとこれだけは言える。本書は仏教にまつわることは書かれているが、それ以上に戦後日本人が忘れてしまったもの(こと)がぎっしりと本書に詰まっている。それは日本人が忘れてしまった宗教心、慈悲、思いやり、侠気であろう。日本人は経済的にも飽和状態になり始めている。今度はこれに対しての希求心が強まればもっと良い国になるのではと私は思う。

となりの神さま

となりの神さま となりの神さま
裴 昭

扶桑社  2007-06-30
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日本は八百万の神が祀られている「神の国」である。その中で宗教性がないと指摘されているが、日本人は自分たちの気付かないところで宗教というのが萌芽している。日本人はひな祭りやハロウィン、クリスマスなどを行い、結婚式は和洋両方行われることだってある(厳密に言ったら神道やキリスト教と言ったところ)。そして死んだら仏教、またはキリスト教でお葬式を行い神様仏様になる。そうして日本人は他の宗教に寛容的にとらえることができ、多くの宗教が共存できる社会となったのは周知の事実である。先のイラク戦争やベトナム戦争、そして今年のチベット動乱、そしてイスラエル・パレスチナの紛争を考えてほしい。異なる民族もさることながら異なる宗教がいがみ合っている。当然戦争や紛争、虐殺によってたがいを憎しみ合いさらに怒りが増幅し悲しみを起こす。自分たちの国の宗教が第一に考えその他の宗教を排除するということから起こっているのだろう。そうなってしまうと異なる宗教というのは分かりあえなくなってしまう。
ではこう言ったことを相容れられる日本はどうあるべきかと考える。今憲法9条の問題は鳴りを潜めているがいつもくすぶっている。この9条ということも考えなければいけないが自衛隊が海外に派遣し(アメリカの要請というのを無視してでも)、その中で災害派遣のような人道支援を行う。戦禍に巻き込まれた人たちにわずかながらであるが光を持たせる。日本は9条により他の国との交戦は認められない(集団的自衛権のやつがまだ論争中だが)。その中でも自衛隊というのはわざわざ武器で戦えと言わず戦禍の中で、罪なき民を救うことが可能である。そのことによっての国際貢献というのは私は今の日本だからでこそできると考える。日本に対する行為が増えることによって、過去の戦争の憎しみから和らぎ、そしてこれからの国際社会に大きなリードを得ることが可能になる。こういったアプローチができることこそ日本の強みではなかろうか。

TIME HACKS!

TIME HACKS! TIME HACKS!
小山 龍介

東洋経済新報社  2006-12-01
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1日24時間ある、さらに拡大すると1ヶ月は短くて28〜29日、長くて31日ある。もっと拡大すると1年は365〜366日ある。これらの時間は決して増えることはないし決して減ることはない。仕事を行っていくにあたり「もっと時間がったら…」と嘆く人も少なくない。ちなみに私自身もそういう考えに1度思ったことがある。しかしそれはかすかに思っていただけであり、その時は自分の時間の使い方が悪いからと言うことでどう使っていこうかということを試行錯誤したにとどまったので時間を増やすという考えはほとんどなかった。
余談はここまでにしておいて、本書はタイム・マネジメントについての勉強本である。最近「HACKS!」関係の勉強本が人気が高いので私も「HACKS!」に関する本について読んでみようかなと思ったが、最近できた読書本ではなくあえてこの時間術の本を選んだ。これから時間に追われるであろうというと気を考えてある程度予防線を張っていこうかなという気持ちである。
本書での時間の使い方として全部で89もの方法があるがこれをいっぺんに全部やっていくのは少し難しいのかもしれない。しかし一つ一つ実行していくと時間に対する価値はどんどん上がるのだろう。「タイム・マネジメント」はどの仕事でも大きく絡んでくる重要なファクターの1つである。ある会社の社長は言いました
「時間的に非効率な人は時間を大切にしない人だ。今生きている時を愛していないのだ」と。
時間の使い方というのは人それぞれであるが、時間を愛し愛されるために本書を手に取ったほうがいいのではないかと私は思う。

どうした、日本―中川昭一と宋文洲の不愉快な対話

どうした、日本―中川昭一と宋文洲の不愉快な対話 どうした、日本―中川昭一と宋文洲の不愉快な対話
中川 昭一/宋 文州

ダイヤモンド社  2008-04-18
売り上げランキング : 185784

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何か不思議な表題の1冊である。
本書は現財務大臣である中川昭一氏とソフトブレーン株式会社創業者の宋文洲氏の対談本である。簡単にいえば日本人の政治家と中国人の実業家の対談である。いかにも違和感のあり、表題にも書かれているとおり「不愉快」な会話であったように思える。しかし章が進んでいくうちにこういった考えが帯びてきた。
「決してわかりあえない関係ではあるが、「民同士」の会話だとお互いに共通する話題、そしてそれぞれの事情に駆られた問題が浮き彫りになっている」ということを。
まずは第1章、「格差」について。
日本もデフレスパイラルから脱したころから「格差問題」があらわれ、景気が大きく減衰している今でも「格差」については後を絶たない。とりわけ顕著なのが「後期高齢者医療制度」にまつわる「老人の切り捨て」という声である。しかし中国も同じように「格差問題」で悩んでおり、海岸部の富裕層と内地にいる農民の貧困層の差が日本より顕著である。格差対策は両国ともにおこなわれているものの一項にやむ気配はない。ただこれだけは言える。「格差はなくならない」ということ。
結構とんで第5章「教育」。
中国はPISAでも上位に入り、さらには数学オリンピックでもトップクラスにいるほど優秀な国と言える。しかし上位に入った要因は優秀な生徒や学生をどんどん力を入れてきたが、農村に住んでいる子供たちなどはそれほど教育が行き届いていないところほど非常に学力が乏しいというところがある。当然中国共産党もこれには頭を痛めているようだが優秀な大学生が1年間教育を行っているという所は、格差にあえいでいる中の一つの華のように思える。日本は恵まれており、世界的にもそれほど格差は見られないが、教育レベルは世界的にみても落ちている一方のように思える。しかし、世界的に見たらそうではない。確かに授業時間の削減により学力が低下したのは要因なのかもしれないが、周りの国から見たらまだ教育に恵まれているという感じはある。しかし甘えてはいられないが、日本も高水準の教育ができたわけだが、今度の課題はいかにして子供たちに勉強する楽しさを植えつければいいのかというのが本当の教育の課題ではなかろうか。昨今の「全国学力テスト」や「学力低下」というのが独り歩きしているように思えるのは私だけであろうか。
最後は「外交」
これは日本にとって最大の課題と言うしかない。むしろ日本の外務省をはじめ、政治からはそれを意識しているのだろうか。諸外国から見て日本の政治家や外交官は「弱腰」「腰抜け」と言われていることを。ただし政治家の中には外交に熱心でどのような国にも対等な目で見て、そしてどの国にも毅然とした態度で臨む熱心な政治家や外交官もいる。中川昭一氏もその一人である。では外交をどうすればいいのかというのも非常に面白い。とりわけ日中関係にまで踏み込んでいるところははらはらとする。というのは中川氏は尖閣諸島におけるガス田の開発に強硬な態度で臨んだことも記憶に新しい。そのためギスギスとした対談になるのだろうなと予想したのだが、ある程度ギスギスはしたものの、それでも中国を理解し、そのうえで対等に臨むという中川氏の信念を垣間見た所でもあった。やはり日本の政治家の鑑だと私は思う(ただしポカは起こしているのが玉に瑕である。例えばワンセグの件とか)。
不愉快な会話とはいえど双方に歩み寄りがありなかなかに実りのある対話であるように見えた。とりわけ両国の長所・欠点を露呈しながらさてどうしていくのかというところまで踏み込んでいたところが面白い。

後期高齢者医療制度―高齢者からはじまる社会保障の崩壊

後期高齢者医療制度―高齢者からはじまる社会保障の崩壊 (平凡社新書)後期高齢者医療制度―高齢者からはじまる社会保障の崩壊 (平凡社新書)
伊藤 周平

平凡社 2008-10
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「後期高齢者医療制度」は今年の4月から始まったがこの施行前後、そして今でも廃止を求める声が非常に強い。「高齢者を食い物にするつもりか」や「これ医者をいたわれ」という言葉ばかり飛び出すが、実際の所「後期高齢者医療制度」廃止後の財源についてどのように確保すべきというところがいまだに見えていないところが民主党をはじめ野党と詰めの甘さではなかろうか。
さて「後期高齢者医療制度」だが75歳以上の人たちはこれに強制的に加入することとなり、所得に応じてではあるが保険料がかかるという。ましてやワーキングプアや高齢により働けない人たちにとっては大変いい迷惑のように思える。しかしそれで「後期高齢者医療制度廃止」でいいのだろうかということまで突き詰めていくとこの制度もあながち悪いものではない。支払いの仕方というのをもっと見直せばこれ以上ない制度なのかもしれない。ジャーナリストの櫻井よしこ氏もこの「後期高齢者医療制度廃止」には否定的である。
これから老人の人口は右肩上がりで労働人口は減少するこの日本において老人が自分の老後を自分で守ることが増えてくるのは紛れもない事実であろう。当然所得の少ない老人を過剰に搾取することは憲法における生存権にかかわることであるが、この「後期高齢者医療制度廃止」による老人に対する医療費や生活費などの費用のヨリは労働者に当然回ってくる。それで本当に日本はやっていけるのだろうかと考える。むしろ格差が助長され、そして金の流れもこう着し日本の経済が長きにわたる低迷に陥るのではないのかという考えさえもよぎる。
前述憲法25条には「生存権」が担保されていると言ったがこれ自体形骸化しているといっても過言ではない(「プログラム規定説」と言われているほどである)。というのは「朝日訴訟」や「堀木訴訟」において合憲の判決が出ていることにより生存権の担保の線引きがない状態になっているのが現実としてある。政府はその解釈論にまつわる議論が活発に行われていないというのも欠点であるが。
私自身「後期高齢者医療制度」の廃止よりももっと大事なことがあると思う。それは「メタボ健診」による制度を廃止したほうがいいという所である。そもそもメタボリックシンドロームの中でもウェストの基準が世界的にみてもおかしい。男性85cmは全労働男性の平均のウェストとほぼ近く、約半数以上がメタボ(もしくは予備軍)という結果になりかねないのである。それで二兆円使っているというから馬鹿げている。実際その金を「後期高齢者医療制度」により払えない人たちを補てんするという発想ができないの金と言いたいがおそらくできないだろう。厚生省の役人がああ(C型肝炎だの、医療問題だの)だから。
私は「後期高齢者医療制度」は賛成ではあるが、見直しは必ずやらなければならないと主張する。まずは本書で書かれているように、保険金の払えない老人たちをどうすればいいのかというのを舛添厚労省指示のもと行うほかないだろう。それから高齢者の負担を据え置きにしつつ、最善の医療をどうしていくのかというのは、厚労省や医療機関ばかりでなく、国民一人一人が地域ごとに取り組むということも大事である。その最たる例が「兵庫県立柏原病院(小児科を守る会)」であるが、これについてはまだ詳しく調べていないため、次に医療に関する書評を行うときに詳しく説明する。

日本を教育した人々

日本を教育した人々 (ちくま新書) 日本を教育した人々 (ちくま新書)
齋藤 孝

筑摩書房  2007-11
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表題からして何か釈然としない感じがする。今の日本を育て上げた外国人は誰なのかを言っているのだろうか。あるいはGHQのように日本を占領下に至らしめて再教育した人たちを挙げているのかという疑問がある。と言うことは寺子屋などの日本独自の教育はこれは海外から入ってきたものなのだろうかという考えさえも起きる。
しかし本書を読んでその考えはどこかに飛んで行ってしまった。本書は「日本を教育した人々」となっているが「日本の教育を形成した4人」について書かれている。その4人は吉田松陰、福沢諭吉、夏目漱石、そして司馬遼太郎である。
まず最初に吉田松陰である。私の尊敬する人物の1人である(ちなみにもう一人は台湾元総統の李登輝)。吉田松陰と言えば、1853年にペリーが浦賀沖にやってきたことから始まるその時は師である佐久間象山らとともに見届けただけであったが、翌年に日米和親条約のために寄港した船に金子重輔と共に乗り込んだが、行き着いたのはいいが結局追い返されてしまう。それが幕府にばれ野山獄へ服役したが松陰はそこで多くの書物と出会い、出獄後「松下村塾」を開き明治維新にかかわった人物を多く輩出した。しかし1859年安政の大獄により斬首刑でこの世を去った。吉田松陰は今もなお私を含めて小泉純一郎元首相や安倍晋髞元首相をはじめとして多くの人が尊敬する人物として挙げられている。
次に福沢諭吉である。「学問のすすめ」や慶応義塾大学の創立者として有名であるが、不覚にも私自身この「学問のすすめ」と言うのを読んだことがない。尊敬する李登輝台湾元総統が今年の9月に沖縄で公演を行ったがそこでは「学問のすすめ」が取り上げられていた。私も1度は読んでみたい。
次は夏目漱石である。夏目漱石は英語が非常に好きであったが教えること事態好きではなかった。そのため「教師失格」と言うレッテルを貼られていたが本人も「教師失格」と自認したという。さらに本書では「文化向上に貢献したゲーテと漱石」の節があるが。この2人に共通することは作家であるのと同時に大いに「悩んだ」人である。ゲーテの代表作には「若きウェルテルの悩み」があり、夏目漱石は今やベストセラーとなっている姜尚中の「悩む力」において「夏目漱石も悩んでいた」と言うくだりがある。そのことからではあるが悩んで悩みぬいてこそ文化の本質を解き明かし、文化の向上に貢献したということを考えると文化の質を上げるために「悩む」と言うことはいかに大事なことかがよくわかる。
最後は司馬遼太郎であるが、こればかりは私自身迎合できない。戦前の戦争は軍部の暴走であり、「魔法に掛けられていたかのようであった」としている。とはいえ数多くの資料を読みとおしてそう考えているのであれば本人の意見として尊重できるが、しかしそれについて解せないのが創作によりそれを如実に表したところがとりわけ迎合できない。本書に書かれている。
「エッセンスを砂金のように集めてみても、それが文脈の中に適切に組み込まれていなくては面白くない。そこで、想像力を膨らませながら、話の中にうまく嵌め込み、司馬風に料理したうえで提示するのである。(P.158より)」
創作によって想像力を膨らませて言った結果が今の「司馬史観」として歴史認識問題に大きな影を落としている最大の要因の一つではなかろうか。とはいえ司馬氏の創作としては非常に面白い。同じ司馬史観で書かれた城山三郎の「落日燃ゆ」も同じである。さらに最晩年には「二十一世紀の君たちへ」という短い文章もある。大学生の時に読んだのだが、非常にシンプルかつ切実に書かれているところはぜひ学校の国語の教科書に載せたほうがいいと考える。
上記の4人は今の教育に多大な影響を与えた人々である。当然それらの本は多かれ少なかれ人生において影響を与えることだろう。私的には日本の教育に最も影響を与えるべきなのは吉田松陰だが、なぜか歴史の授業の中でわずかしか書かれていなかったところが口惜しい。「講孟箚記」もそうだが「吉田松陰語録」と言うのも国語の授業の中でぜひ盛り込んでほしいものだ。

故国を忘れず新天地を拓く

故国を忘れず新天地を拓く―移民から見る近代日本 (新潮選書) 故国を忘れず新天地を拓く―移民から見る近代日本 (新潮選書)
天沼 香

新潮社  2008-08
売り上げランキング : 831990

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今も昔も変わらないことだが、面積の割には人口が多い日本。しかしあふれかえる人口をどうにか分散しようと台湾や韓国を併合し、インフラを整備して日本人を移民したり、満州を建国しそこでも移民を推進したりした。本書はそういう所ではなく、カナダやハワイ、北南米への移民に関して書かれている。当然そこでは非常に過酷な環境であったが、日本人の根性の強さに感動し、現地の人々に勇気を与えたということには称賛に値する行動であった。そしてその移民に関しては「学問のすすめ」で有名な福沢諭吉や「武士道」の新渡戸稲造、さらに北海道開拓の立役者の1人である榎本武揚らの移民論についても書かれている。最後には現在経団連が猛反発している日本への移民についてである。移民というのは日本は縁遠いかもしれないが戦前戦後の時代はそう言った移民が非常に多かった。しかし人口の過多、そして高齢者人口の増加によって移民でないと労働人口を維持できないような時代に入ってしまいかねない。そのことを考えると高度経済成長以後の日本の政策の無策さについても追及する必要があるのと同時に、少子化防止、そして高齢社会に対応した社会の在り方ということもまだまだ追求する必要があるように思える。しかし先進国はこれから、あるいはもうすでに高齢化社会を迎えておりこれからそういう問題に四苦八苦することだろう。その時だからでこそ日本はこういった問題にリードする立場でなくてはいけない。

出版記念講演会&パーティーの感想

昨日(投稿日が投稿日なだけに)の講演会&パーティーは非常に充実かつ非常に楽しかったものでした。当然名刺交換もたくさんしました。
思えばこういうビジネス本の講演会に参加したことは1度もなく、かつこれについて参加しようと何度もためらいました。
昨年7月に前身ブログ「蔵前トラック(すでに閉鎖)」において書評を始めてはや1年3か月。とはいえまだまだ1年3か月しかたっていない。しかもまだ社会人1年目の若輩者。敷居が高いだろうと思いました。
しかし自分自身「ファンクション・アプローチ」についてもっともっと知りたいと思い、思い切って参加することにしたというのが経緯です。

実際の講演会&パーティーですが参加者の一覧を見るなりやっぱり「敷居が高かった」という感じがしてなりませんでした。ただこれだけ言えるのがそういった私でも始められることはないだろうかという考えを持ちました。

「ワンランク上の問題解決の技術」の最後のところに書かれていたのですが身近な生活から「ファンクショナル・アプローチ」を実践できるということ。そして仕事の場でもちょっとした内容を「ファンクショナル・アプローチ」をもって解決できることを改めて知りました。その内容の根幹は

・それは何のため?

・それは誰のため?

私はまだ1年目なのでプロジェクトの中心にいるわけではありません。しかしそれらを上司やプロジェクトリーダーの方々に提案をするというだけでも価値はあるのかもしれません。

そう考えると今回の講演会&パーティーはまず無駄ではなかったということが確信して言えます。

それを実行に移せるのかどうかは自分の意識次第です。チャールズ・W・バイザウェイ氏の言葉にもありました

「意識を変えることは問題解決においてきわめて重要な一歩である」と。

講演を通じて自分が何ができるのかということをもう1回見直していこうと思います。ただし当ブログのスタンスは変えないということだけは付け加えておきます。おそらく読みづらいという人が出てくると思われますが、実際読んでいただこうと書いたブログではありませんので(笑)。あくまで自分の得た知識をアウトプットし、かつ主張するためであり、自分のためでありますので

最後にこのような私にメールにてコメントくださり、かつ充実な内容を提供してくださった横田様、

そのほか名刺交換してくださった皆様

本当にありがとうございます!!

姜尚中の青春読書ノート

姜尚中の青春読書ノート (朝日新書) 姜尚中の青春読書ノート (朝日新書)
姜 尚中

朝日新聞出版  2008-04-11
売り上げランキング : 25451

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東京大学大学院教授で政治学者の姜尚中が熊本の野球少年だったときからずっと数多くの書物を読んでいた。本書では夏目漱石やボードレール、丸山眞男、マックス・ウェーバーの作品をピックアップして姜尚中自身の半生を綴っている一冊である。
とりわけ私が衝撃を受けたのはボードレールの「悪の華」についてである。
「愚癡(ぐち)、過失、罪業、吝嗇(りんしょく:「ケチ」ということ)は
 われらの精藭(こころ)を占領し、肉體(にくみ)を苦しめ、
 乞食どもが 虱(しらみ)や螕(だに)を飼ふごとく、
 われらは 愛しき悔恨に餌食を興ふ(p.65より)」
すなわち人間における負の所業や感情は心の中を侵食し、それにより人間としての事前の心を失い、過ちを犯すだろうとボードレールは言っていると私自身はこう解釈する。そう考えると人間の業の深さ、「負」の感情を抱くことのリスクと言うのがよくわかる。
さらにもう一つ
「これぞ倦怠。――眼に思はずも涙を湛へ
 長き烟管(きせる)を燻(くゆ)らせて 断頭壷の夢を見る。
 読者よ、君はこれを知る、この微妙なる怪物を、
 ――偽善の読者、――わが同類、――わが兄弟よ(p.67より)」
倦怠は「微妙なる怪物」とボードレールは定義している。倦怠こそ人としての成長を阻害し、退化に導く。これは人が気付かない間に進行することで「微妙なる怪物」と言う定義がなされたのではないかと推測できる。著者はこの「悪の華」は17歳の時に読まれ、人生の中で最も印象に残った1冊となった。本書を通じて私自身も「悪の華」を読んでみたいという気持ちになった。そして姜氏は読書を通じて政治学者としての道を志し、そして独自の政治スタンスを築いて言ったことであろう。
本(書物、文献)はその人の見識を広め、人生そのものを変える効果をはらんでいる。私は昨年から趣味として読書をはじめ、それをアウトプットするために書評を始めた。ちなみに書評や読書を行うにあたりジャンルを決めていない。ジャンルによって得るものや面白さが違う。私はそれを楽しみたいからである。今年だけでもすでに確認できるだけで600冊以上の本を読んだが、その中で本当にためになったもの、内容が非常にチープで読む気になれなかったもの様々である。当然その中でも自分の考えをがらりと変えたものもある。読書を行うことによってそういう効果もある。自分自身そういうことから(政治や経済的な)スタンスをもしかしたら180度変えることもあり得る。
さらに私自身読書とは「一種の旅」と考えている。目標は当然設定されていない。旅を通じて得られるものは私にはわからない。わからないからでこそ読書と言うのは面白いと自分自身読書を通じて思った。そして姜氏もおそらくそうであったのかもしれない。

欲ばり過ぎるニッポンの教育

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

著者:苅谷 剛彦,増田 ユリヤ

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

一昨年の教育基本法改正や全国学力テストなど教育に関する問題は後を絶たない。さらに今では「教育格差」や「学力格差」が叫ばれており、今日の教育問題に暗い影を落としている。さらに今では文科省をはじめ多くの教育評論家たちがフィンランド式教育に注目を集めている。PISAの学力調査で世界一になったことが起因となっている。またそれとは逆に詰め込み式教育への回帰を唱えている論者もいる。確かにPISAで世界一になった時期、そして高度経済成長などに本の経済が上昇指向であった時はこの手の教育が最適であったのかもしれない。
しかし今はこの両者の教育方法は最適と言えるのだろうか。また小学校高学年から英語教育がおこなわれるようになったがこれは日本にとって良いことだろうか。本書はそのような教育の在り方に疑問を呈している。
本書でも書かれているとおり完璧な教育・子育ては存在しない。また「あれをやろう」「これをやろう」と言うのが多すぎて子供たち、その親たちや現場の教師に負担が重くのしかかる。そして学力調査で教育の改善ができるのかという疑問を持つが、学力を調査してそこにあった教育を考えるという観点であるならばこの学力テストは続けるべきだろう。
本書を読んで最も衝撃を受けたのがあるフィンランド人の母親の証言である。その母親は日本にも在住経験があり、息子も日本とフィンランドの両方で教育を受けたことがあるという。当前フィンランドの教育に誇りを持っているのだろうと思ったらどちらの教育がいいのかの答えはなんと「日本の教育」であった。実際に前述のような問題をはらんでいる日本の教育がなぜいいのか聞くと実はフィンランドの教育は宿題が多くてそれによる勉強に追われており、進路もままならないまま進学や就職をするという。それに比べ日本は内容は多いものの、まだ部活を行うなどの自由があり、職業選択や大学進学などの進路が自由に選べる時間ができるからだという。そう考えると本来の教育の在り方は国内の学力の向上のためにあるのだろうか。これからの社会の役に立つためにやっているのか、日本人としてのアイデンティティ構築のためにやっているのだろうかと言うのがはっきりしなくなる。私が考える本当の教育は後者2つと「知るを楽しみ、自ら楽しんでできる手助け、もしくは基礎をつくること」なのではないかと私は思う。
そして学力格差であるが、私は多少はあってもいいと思う。もしも全国が同じ学力であったのならばそこには成長もなければ教育の向上はあり得ない。例えて言うならば全員で手をつないで同じ順位でゴールするかけっこのように競走がない。これでは子どもたちは成長しない、むしろ親たちの機嫌を損ねさせないためだけなのだろう。当然学力や前述のかけっこにしても競争がなくては成長はない。そういう意味で学力格差はあったほうがいい。それを形にして表しているのが「全国学力テスト」なのだろう。むしろ学力格差を問題化することがおかしいと私は思う。
そして最後に本書では書かれていなかったが一昨年、世界史の履修問題が話題になった。私はつくづく思うのだが、小学校高学年の英語学習も含めていうと歴史や国語を学ぶことは「先人がどのようなことをやったのか」「日本人とは何なのか」と言うことを学ぶためにあるものではないのかと私は確信している。国際化だから、受験ではいらないからだということを理由にして「日本人であること」を捨てていくという人たち、そしてそれを助長した教師や文科省は一体どのような神経をしているのか逆に知りたい。むしろ国際化の時代だからでこそ日本人とは一体何なのかというものを学び「日本人として誇りに思うこと」を身につけることこそ真の教育ではないのだろうか。そう考えると昨今の「歴史教科書問題」も中国や韓国・アメリカに口出しする筋合いはないというのは至極当然のことなのに、日本の論客やマスコミはそれについて迎合するようなことを言っていることに私は怒りを覚える。むしろ矛先を向けるのは韓国や中国がいかに歴史や民族性を歪曲させて教えているのかというのを問い質したい。

ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する

ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する (Harvard business school press) ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する (Harvard business school press)
W・チャン・キム レネ・モボルニュ 有賀 裕子

ランダムハウス講談社  2005-06-21
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ブルー・オーシャン戦略に関する本がたくさん出ている。本書はその原点となった1冊である。ちなみにこの「ブルー・オーシャン」とは競争原理が全くない未開拓市場のことであり、逆に競争原理により血みどろの戦いが繰り広げられていることを「レッド・オーシャン」と呼ばれる。
ではこの「ブルー・オーシャン」をどのように見つけるのか、そしてどのようにして戦略を立てて、どのように実行すればいいのかについて書かれている。
第1部は「ブルー・オーシャン戦略とは」
ここでは「ブルー・オーシャン」の利益について、そしてリスクの低さについて書かれているが一つだけ釘を刺しておきたいのがいくら「ブルー・オーシャン」だから非常にいいからと言って、これが本当に市場で迎合されるのか。もし迎合されればリスクはそれほど冒すことなく利益を上げることはできるが、それができなければ閑古鳥となり利益は上がらないということ。もっと言うとそれに対する成功の可能性は「レッド・オーシャン」よりも低いということを考えると戦略といったものが非常に大事になってくる。これは第2・3部について詳しく書かれているのでここでは割愛する。
第2部は「ブルー・オーシャン戦略を策定する」
「ブルー・オーシャン」が見つかれば今度は戦略の策定である。ここで誤るとせっかくの「ブルー・オーシャン戦略」が台無しになってしまう。日本でも「QBハウス」が取り上げられている。理容業界であるが「1,000円10分」で差別化を図り、見事に業界を一気に変えさせた。これまでは高くても1,500円前後、しかもカットにシャンプーや髭剃りなど結構時間のかかるものだった。しかし「QBハウス」はカットのみでわずか10分間、さらに切ったときの髪を残さないように「エアーウォッシャー・システム」も導入。さらに待ち時間がわかるような工夫までされており、たちまち人気急上昇。それをまねたライバル店もできたがこの構図はいまだに変わっておらずこの戦略の成功例と言えるだろう。
話を戻す。「ブルー・オーシャン戦略」にはライバルがない。それを考えるとライバルとの差というのが分からなくなる。もっと言うと需要はどのようなものかというのも分からないので予算の立てようがない。そこでそれに近い業界とどのように差をつけるのかそしてどのような客層を対象にするのかということなど新たな顧客の掘り出しというのも大事になる。
第3部は「ブルー・オーシャン戦略を実行する」
さて次は実行することになるが、そのうえで戦略の修正やハードルの乗り越え方について書かれている。そして成功に向けてプロセスが大事だということも書かれている。それを大事にすればおのずと成功の道は開けるだろうという。
最後の巻末には「ブルー・オーシャン」で成功した企業を挙げている。
本書は戦略を立てるにあたり「ブルー・オーシャン戦略」というのを提唱している。本書で上げられた例は「QBハウス」以外はすべて海外の企業であるため日本における「ブルー・オーシャン戦略の本」があるので後ほど読んでおきたい所である。

日本二千六百年史

日本二千六百年史 日本二千六百年史
大川 周明

毎日ワンズ  2009-08
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本書は昭和14年に発売されたものの復刻版であるが、本書の最初の部分にも書いてあるが、不敬罪違反により削除された部分も復刻している(つまり初版版を復刻したと同じである)。そういう意味では歴史学上最も重要な文献の一つと言えよう。ちなみに当時では20万部以上のベストセラーとなった。
さてこの著者である大川周明であるが、起訴されたA級戦犯の中で唯一の民間人であり、さらに精神疾患(後に「脳梅毒」と判明)により免訴された思想家である。ちなみに東京裁判の開廷の時にパジャマと下駄姿で出廷し、パジャマをはだけ出すなどの奇行を行った後、東条英機の後頭を「ピッチャン」という音を立てて叩き、「It’s a comedy!!(これは茶番だ!)」など叫び、ウェッブ裁判長が精神異常をみなし免訴としたエピソードがある。
それはさておき、本書の内容は簡単にいえば歴史教科書という位置づけであるが、本書において不敬罪違反に引っかかった部分は傍線で引かれており、不敬罪がどのような範囲で引っかかったのだろうかという一つの資料になる。さらに現代語に崩すことなく誤字脱字だけ修正されているためありのまま書かれていたものが復刻したといってもいい。ただし普通に読むと若干読みづらい感じもあるが、中学や高校の歴史の教科書よりもありのままに書かれており、おそらく中国人や韓国人に見せたら発禁にしろと言いそうな内容であることは間違いない。
まず印象に残った所を見ていこう。
「この計画は北条市の探知するところとなり、後醍醐天皇は誓書を関東に賜いて、辛うじて事なきを得た。(中略)皇室は之によりて鎌倉の鼎の計量を知りたもうことを得た。したがって京都における革新の計画は、この一撃により阻まれることなかった。(pp.137-138より)」
ここの部分は改訂の際に不敬罪違反により全部削除された部分である。革新の計画をもっていたのだがこれが北条氏が知れ、天皇の賜りにより事なきを得たということである。もし革新の計画が成功されれば天皇の継投は断絶したのかもしれない。しかしそう考えるとなぜ不敬罪違反になったのかがよくわからない。天皇と言うことを軽んじて用いたせいなのか、あるいはそれを知ることを禁ぜられたのかという疑義がある。
さらにもう一つ
「フランス革命はナポレオン専制によって成った。ロシア革命はレーニン及びスターリンの専制によって成りつつある。而して明治維新は、実にその専制者を明治天皇於いて得た。(p.276より)」
これは前述の推測があってもなくても一発で不敬罪違反として削除されたのだろう。天皇陛下に大政奉還をおこない新政府のもとで独自の民主主義を確立していった政府であるが、大政奉還により政権を天皇に返すということで天皇陛下への専制政治を返すという解釈はできるが、天皇は大日本帝国憲法下では統帥権は確立していたが、実際天皇は重臣会議の決定の下で首相の大命降下を行うことや助言をもって内閣に実行していたこと、天皇専制によって政府は成り立ったというのには語弊がある。
このほかにも傍線部分には重要な部分から語弊のある部分まであるが、本当の日本史を読むにあたり思想家の歪曲は若干あるにしても、ありのままに書かれている歴史の教科書はそうそうない。ありのままの歴史を学びたい人には格好の1冊である。そして大川周明が戦前・前後どのようなことを訴えたかったのかより調べたくなった。折しも昨年は大川周明の没後50年。日本の歴史を紐解いていくためには重要なものがまだまだ残っているのかもしれない。歴史をあかしていくのと同時に「西欧が最も怖れた知の巨人」「東亜の論客」と呼ばれた大川周明の思想について見ていく所存である。
最後に作家の佐藤優氏が大川周明の「『日本二千六百年史』を読み解く」というwebマガジンがあるためこれも併せて読むともっと本書を面白く読めるのでお勧めしたい。

なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密

なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書) なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)
小笠原 泰

PHP研究所  2006-05
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表題にひかれてしまった。元長野県知事であり新党日本代表の田中康夫氏の「なんとなく、クリスタル」にいかにもパクリのような感じの表題であったため本書を手に取ってしまった。しかし内容紹介に書いてあるとおり21世紀を生きる日本人の多くは「なんとなく、日本人」果ては「地球市民」と答える人もいる。そんなぬるま湯のようなことになっていたら当然国際間の競争にも負けてしまい、ついには日本人が1人もいなくなるというようなことにもなりかねないのである。日本がこのままでいいのか。国際ビジネスマンの経験し、西洋的思考法を熟知した著者の渾身の作品である。
前述にもあるとおり西洋的思考法、つまり論理的思考法をもって日本人論に立ち向かっていっている。こういった切り口というのは非常に面白いことだが、はたして日本人は論理的ではないのかというとそうではなかった。安土桃山時代の時にポルトガルから宣教師が日本にやってきたときのこと、キリスト教信仰のためにイエスの教えを説いたのだが、日本人は宗教のこと、そしてポルトガルやその周りの国々のことについて宣教師を質問攻めにしたというエピソードがある。そしてその宣教師が帰国した時にこう言った。
「日本人ほど、論理的な民族はいない」
「論理性」というと西洋人や海外の人たちのことを考えてしまい、日本人は感覚的だろうという考えが多いが、歴史的に切りつめていくと実は「論理的」であったのは日本人である。それについて西洋人たちはもっと勉強し、戦後の日本はそう言ったアイデンティティが破壊された。「なんとなく、日本人」になったのはアメリカら戦勝国のせいと言える。しかしそれに甘えてしまった日本人も日本人である。日本人が日本人であるためにまずすべきことは日本語と日本の歴史を事細かに勉強することである。日本の歴史を勉強するだけでも先人のすごさや今の日本を気付きあげてきた人たちへの感謝になる。そして戦前・戦中の軍隊の日本への勇ましき姿を垣間見ることができる。決して自虐史観にはまらない真の日本人になれる。それこそ日本人としてのアイデンティティを養う一つになる。そしてそれを世界に発信していけば必ずや日本は誇れる国になる、「日はまた昇る」のだ。

なぜ日本の政治経済は混迷するのか

なぜ日本の政治経済は混迷するのか なぜ日本の政治経済は混迷するのか
小島 祥一

岩波書店  2007-01-31
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日本の経済はアメリカのサブプライムローンの焦げ付き問題のあおりを受けたせいで景気は減速し、日経平均も8,000円台前半まで落ちてしまった。しかし今回の経済減速の原因はアメリカにあるので日本はそういったアメリカの道連れからの脱却を考えることも大切なのかもしれない。
しかし本書でも挙げられているとおり「失われた10年」は日本がこの経済政策を迅速に行っておらずむしろ放置してしまった結果によるものである。特に2000年代に入った時にはそれが如実に表れ、小泉政権の初期にはブッシュ大統領に早急な経済政策を行うようにという圧力を掛けられていた。手は打ったのか打たなかったのかはわからないが、「失われた10年」が去り、ようやく景気が回復したのは2003年後半になってからのことである。ただし景気は伸びても「実感無き好景気」だったことは忘れてはならない。日本が1854年にペリーが浦賀沖にやってきたときに表れ、悪しき伝統となった政府の「事なかれ主義」が招いた結果であろう。
それを起こしてしまった政府の責任は当然思い。ではその責任をどのように報いるとかというと、私は今の景気対策を迅速に手を打ち「日もまた昇る」が如く景気回復を行ってから解散をするのが先決であると思う。それこそ日本政府が起こした贖罪となるだろう。
最後に余談であるが本日の深夜の「朝まで生テレビ!」において当ブログでいくつか書評を取り上げた勝間和代氏が出演される。勝間氏のほかにもそうそうたる顔ぶれであるのでぜひ頑張ってほしい。

戦前・戦後の本当のことを教えていただけますか

戦前・戦後の本当のことを教えていただけますか 戦前・戦後の本当のことを教えていただけますか
兼松 學 加賀谷 貢樹

PHP研究所  2006-05
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本書は一昨年の3月に亡くなられた兼松學氏の戦前・戦後のことをつづっている。ちなみに兼松氏はこの当時は鉄道省に入省し、霞が関で大東亜戦争を体験した。そしてその後の日本の戦後のことについてありのまま話された。
第1章は戦前の暮らしについてだが、父の誇りと共に勉学そして遊びにがむしゃらだった少年時代から外国人と英語で論争、東京帝大時代から鉄道省に入る前までのことである。旧制中学というと現在でいう高校であるが今も昔も変わらないのが受験戦争の厳しさであろう。そこに入学し、勉学に励むという意識を考えると昔のほうが使命感が強かったのかもしれない。今ではブランド高校や大学に入って勉学よりも遊びに満喫する人もいる。とはいえ大学もシステムが厳しくなったことによって一生懸命勉強する学生も増えてきたということを考えると、だんだん戦前のように戻っているという感じも受ける(ただ少子化のせいか昔ほど競争が熾烈ではなくなったのかもしれない)。そして東京帝大の時代と左翼である。当時は大恐慌時代でありその中でマルクス思想にはまっている人もちらほら見られたという。実際私のいた大学も現在大人気の「蟹工船」の作者が在籍していた大学であった(でも私自身は左翼にはまったことはなかった)。そういうことと60年代の大学紛争のことを考えると大学と左翼の縁というのは非常に深いのかもしれない。
第2章は兼松氏が鉄道省に入省した時から陸軍にはいった時のことについて書かれている。ここで歴史認識問題にかかわる重要なことが書かれている。「従軍慰安婦問題」である。兼松氏が朝鮮半島に行った時も挑戦で強制的に慰安婦を重用したことはなかったと証言している。ただ、売春婦を仕切る朝鮮人のボスがいて日本軍に頼み込んで商売をしていたという(pp.88-89より)。慰安婦問題はここから歪曲に歪曲を重ねたものなのかもしれない。もっと言うと史料の中では日本軍を装った人さらいがいるので厳しく取り締まれというものがある。もしかしたらそれに関係してくるのではないかというのが私の頭によぎる。そして五・一五事件、二・二六事件から日独伊三国同盟、そしてあまり知られていなかった1940年の11月10日に行われた「紀元二六○○年式典」についても言及している。南京攻略の時に提灯行列というのが行われたことは知っていたがこのときも提灯行列が行われた。ちなみに当時は「提灯」というのは非常に珍しく、おめでたい時にしか御目にかかれなかったという。
第3章は大東亜戦争(太平洋戦争)である。兼松氏はパール・ハーバーへの攻撃を聞いた時にこの戦争は負けると思ったという。しかしこれは絶対口に出して言えなかっただろう。当時の日本の世論は開戦派が大多数を占めていた。その中で非戦・反戦や戦争は負けると言ったとたんに「売国奴」というレッテルが貼られてしまうという風潮であった。まるで大東亜戦争は聖戦だったという人には「右翼」というレッテルが貼られていた時と同じような感じである。そして「大東亜会議」の舞台裏についても書かれていた。本書には書かれていなかったがこの「大東亜会議」の構想を固めていたのは当時の外相であった重光葵であり、首相だった東条英機は会議の大義よりも参加国の方々をもてなすための事務作業に熱中していた。しかし東条は根っからのメモ魔・準備魔として知られていたため会議は大成功であった。しかし兼松氏は東京で鉄道省官僚だったことを考えると東京大空襲のことについて取り上げないわけにはいかない。東京大空襲だから東京から地方に行ったのかと思ったらなんとこのときも東京にいたという。兼松氏は1944年12月の日曜日に休日出勤した時に空襲に遭ったのだが幸い無傷であった。当時兼松氏らが会議を行っていた運輸省のビルの脇に爆弾が落ちたという壮絶な体験をしたという。ちなみに大規模空襲の時にアメリカ軍はターゲットにするべき飛行場に爆弾を落としていなかったことについてはいかにアメリカ軍が計画的に一般人を狙って爆弾を投下し殺戮していったのかが浮き彫りに出ている。
最後に第4章は「戦後」である。とりわけ刻銘に書かれていたのは「学力低下政策」と「日本国憲法」である。まず「学力低下政策」については驚きを覚えた。戦前までは六・五・三・三制をとっていたが、戦後になって六・三・三・四制になった兼松氏の友人がこう語っていた。
「これではやがて、三、四十年経ったら日本人の教育水準が著しく下がるのではないか(p.192より)」
折しもその通りになってしまったのは言うまでもない。アメリカは計画的に日本を「一億総白痴化」にさせたのはこの証言からでもわかる。そして日本国憲法もアメリカ盛ということは周知の事実であり本書では書かれていなかったが東京裁判は戦勝国が仕組んだ「一種のショー」であった。しかしGHQの検閲(事前検閲)により国民には知られなかった。しかしこの日本国憲法について到底飲めない内容であったが天皇の御許しによりできたということも忘れてはならない。しかし「国防」については早くから「国防がなければ国家とは言えないのではないのか」という議論があったのは今も昔も同じであった。それが60年以上たった今もその状態であるのは兼松氏もさぞかし嘆かわしかったことだろう。
兼松氏の歴史についての証言は私のような本当に知らない人たちにとっていかに新鮮であったのだろうか。在りし日の日本があってこそ今の日本があり、そしてこれからは私たちが引き継いでいくことになる。そのことから日本語、日本の歴史を知らなければならない義務がある。今私たちに抱かれた使命は重いが、これが日本の未来にかかっているのだから。

ワンランク上の問題解決の技術《実践編》

ワンランク上の問題解決の技術《実践編》 視点を変える「ファンクショナル・アプローチ」のすすめ ワンランク上の問題解決の技術《実践編》 視点を変える「ファンクショナル・アプローチ」のすすめ
横田 尚哉

ディスカヴァー・トゥエンティワン  2008-07-15
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26日の日曜日に本書の出版記念講演&パーティーに参加することなのでまずは予習をしていくために本書を手に取った。実際に今回の講演は本書に書かれていないことが主であることなので、まず本書を頭に入れておかなければという気概にあふれている。さて本書の中身をみる。
本書はGE流の問題解決術及び解決メソッドを綴った1冊であるが、その中身というのは「ファンクショナル・アプローチ」をもって問題解決にあたるというものである。「ファンクショナル」とは一体何なのかというと「機能(ファンクション)」のことで、「機能に着目すれば、道が見えてくる」と書かれている如く昨日から見て解決の道筋を立てるというものである。
本書の構成は以下の通りになる。

まえがき
第1章 ワンランク上の問題解決とは
第2章 実践ファンクショナル・アプローチ ステップ1 準備
第3章 実践ファンクショナル・アプローチ ステップ2 分解
第4章 実践ファンクショナル・アプローチ ステップ3 創造
第5章 実践ファンクショナル・アプローチ ステップ4 洗練
第6章 日常をファンクショナル・アプローチで考える
終章 目標に向かって、とるべき針路を見つけよう

問題解決をやって以降にも何をやったらいいのかわからず、とりあえず過去の例にすがりついたり人のやっていることに乗じていこうとする。短絡的ではあるが問題解決がうまくいくのかもしれないがほとんどわずかな場合や同じ問題であった時のことでしかない。問題は多岐にわたるため同じ問題に直面するという保証はまずない。第1章ではこれだけではなく問題解決ができない理湯を4つに分けて紹介しており、さらに問題に直面した時の4つのパターンと問題解決に向けての5つのアプローチ法を簡単に紹介している。本書はその中から「機能分析法」、すなわち「ファンクショナル・アプローチ」を紹介する。ただしこれですべて解決するわけではなくあくまで解決方法の1つを紹介しているにすぎない。
最初は「準備」である。ツールや心構え、手順、問題対象を確認するところから始める。ここで準備をしていくのは全部で5つ。

・解決しなければならない問題 → これがないと話にならない
・小さな付箋紙とペン → 100円ショップに行けば簡単に手に入る
・一緒に手伝ってくれるメンバー → 支えあってこそ
・まとまった時間 → 様々であるが解決するには時間がつきもの
・解決への情熱 → 情熱があれば何でもできる

さてこれで準備完了。
さて次は「分解」。図で見たところ付箋紙を使ってクラスター分析を行っているように見える。問題を枝葉のようにして付箋を付けていき、その中で何が根本的な問題なのか、そしてすぐに解決できる問題は何なのかというのを体系的にしている。体系的に洗い出してみると新たな問題も発見できたり、解決の仕方もより鮮明に見えてくると言ったところである。そしてキー・ファンクションを抽出したら今度はそれを行うにあたってのインプット・アウトプットになる。アプローチ・チャートの図があるがよりインプットが少なくかつアウトプットの量が多くなるにつれ価値が高くなるという図である。いかにそこの方向にシフトしていけばいいのかというのがこの分解の要素の1つと言えよう。
分解ができたら今度は「創造」である。まずはブレインストーミング。「創造」を捻出するにあたっての技法の1つである。とにかく自由奔放でアイデアの量を求め、改善を結合していくというものであるが、絶対にやっていけないことがあって、それは「批判」と「議論」である。アイデアを出すにあたって、批判や議論を行うようでは当然会議の時間の無駄にもなり何よりも斬新的な発想ができにくくなってしまう。私自身も体験したことはあるが新しいこと・そして思いついたものをどんどん言っていくということなので何でも思いつく。その中でどう分類していくのかということができるため非常に面白い。これの技法はおそらく多くの企業でも行っていることだろう。それだけ創造性に富んだ技法であるのだから。
そしてここで出てきたものを練るのが最後の「洗練」である。ここでは欠点をどう取り除いてくのか、そしてどう想像を練り上げていくのか、アウトプット量を増やしていくのかを練ったうえで解決していく。
このファンクション・アプローチを日常生活でも実践していこうというのが第6章であるが、これがなかなかである。普段の勉強法の本は「仕事の上で」というのが多いが、本書は日常生活でもこの解決法を練習するという所でも役に立つことを紹介している。身近なところから実践していくに本書を効果的に使える。そしてこれだけ売れているという理由か垣間見えた所である。
第6章の部分を書いたように本書は今までのような勉強本とは一線を画している。勉強本の価値は実践を通してからでないと分からないが、その中では仕事の場においてやるしかないので普段の生活の中とではちょっと縁遠い。しかし本書は日常生活でも実践の方法が書かれているところがあるのですぐに実践できるというのが大きい。巻末には実践的なシートもあるためぜひやってみたい。
さて、本書ではこう言った方法が書かれていたが、2000億円を削減したと言われているこの実態というのが本書に書かれていなかった。これについての詳細は一番最初に書かれているが26日に明かされる。これ以外にもこの「ファンクショナル・アプローチ」について知りたい人がいたらぜひ来てください。私も行きます。

名ばかり管理職

名ばかり管理職 (生活人新書) 名ばかり管理職 (生活人新書)
NHK「名ばかり管理職」取材班

日本放送出版協会  2008-07
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昨年の秋ごろに「日本マクドナルド」で起こった残業代支払いを巡って起こした裁判がある。そこで「名ばかり管理職」というのが話題をさらった。先の裁判は地裁で原告の勝訴となったが、マクドナルド側が控訴し現在も係争は続いている。この窮状について昨年の11月に「クローズアップ現代」でも取り上げられた。げんざい「名ばかり管理職」が数自体は把握できていないもののコンビニやファミレスといった業界を中心に数多くいるというのが現状である。
本書はこういった「名ばかり管理職」の現状について克明に描かれている。
第1章はコンビニとファミレスの正社員の「名ばかり管理職」の実状であるが、まず最初に想像を絶する労働状況に只々驚くばかりである。そして日本の労働基準法等について順守しているのかという会社の体質にも疑いを覚える。
第2章は上記の「マクドナルド裁判」である。
「名ばかり管理職」が争われた裁判であるが原告の方はなんと現役である。労働のことに関して争う裁判は民事では会社の労働団体と会社と争う構図であったり、もしくは辞めた社員が会社を相手取り裁判を起こすと言ったことを想像するが、この裁判は現在もその企業で働いておりしかも一人で裁判を起こしたということでメディアは共感と感動を覚えた。実際その勇気ある行動によってこの「名ばかり管理職」というのが明るみにでた。芋づる方式のようであるが勇気ある人ひとりの行動によってここまで大きな話題となり人を動かしたということは人間一人の弱さはあるものの勇気と誠実を通す行動はいかに人を共感できるのかというすごさを感じた。
第3章は「名ばかり管理職」のことについて統計を行った結果について書かれている。
第4章はそれを生んでしまった原因についてであるが、企業の効率化が悪い方向に生んでしまった結果がこれである。
第5章は行政の功罪である。それについての矛先は厚生労働省であるがそれについて責任を問えと言って舛添大臣を辞任させるというのは一寸考えものである。厚生労働省は問題を山積しており、パンクしそうになるほどであるが、もし舛添大臣が辞めたときに誰がこれらの問題を処理できるのかということを逆に問いたい。
第6章は「名ばかり管理職」に戸惑う企業の現状についてである。
「名ばかり管理職」はごく最近出た話であるが、これを解決するには相当の時間をかけなければならない。それと同時に管理職を含めた労働者の在り方についてもっと考える必要があると私は思う。ある国会議員や論客は「企業あっての労働者」と主張しているが、ではその労働者たちが病気でいなくなったら、企業は生きていけるのか。企業あっての労働者であるならば、こういった現状にいち早く問題を究明して手を打っていくということが企業としての在り方である。それを行っておらず保身に走る企業は日本の企業として胸を張っていけるのだろうか。私はむしろ恥ずかしく思う。企業として働くよりもまるでスペインやオランダが植民地に対して行った強制労働に酷似しているのではなかろうか。そしてその体質を改めない限り経済は衰退するという危機感を抱いているのだろうか。私はこう問いたい。

歴史和解は可能か―東アジアでの対話を求めて

歴史和解は可能か―東アジアでの対話を求めて 歴史和解は可能か―東アジアでの対話を求めて
荒井 信一

岩波書店  2006-01-19
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まず表題から意見を言う。
「絶対に不可能」である。
実際日本は従軍慰安婦など戦争責任について河野談話や村山談話でお詫びをしているがそれに関する、もしくはその歴史的史実の値する史料というのが一切なく、何を根拠に誤っているのかよくわからないこと。さらに中国の江沢民政権下では数多くの反日・抗日記念館が建っており国家主席を引退する直前には日本に対して未来永劫このことを突きつけるよう幹部に指示したとも言われている。中国はそういった反日に対することで怪気炎を上げ国家を維持しなければ13億人をまとめきれないという背景も存在する。また中国は共産党一党独裁政党、韓国は民主主義ではあるがごく最近になってようやく民主主義に移行できたばかりの国(それまでは独裁政権だった)であり、北朝鮮は個人独裁の国である。また歴史的事実からしても不可能であると確証できる。中国は今も昔も「中華思想(華夷秩序)」というのが存在しており、世界の中心であると思いこんでいる。さらに中国の皇帝には周りの国々との貢(「朝貢」という)があったことも有名である。日本もそれの一部であったのだが飛鳥時代において聖徳太子がそれをやめたという所から中国や朝鮮は日本に対する侮蔑心というのが芽生え始めたとされている。豊臣秀吉が倭寇を行うにあたり朝鮮を侵攻しようとしたところ明軍が朝鮮側に援軍に入り破れてしまった。間違えの内容に言っておくがこれは1回目のことであり2回目は秀吉がなくなったことにより引かざるを得なかった。それにより朝鮮の民は日本に対して強い反感を抱いたのは言うまでもない。
さらに本書の内容は明らかに中国・韓国に譲歩しろというような内容である。到底飲めないよう内容であり、日本人としてのアイデンティティに反するようなものでしかないと私は思う。
もっと言うととある動画を偶然目撃した。韓国のあるトーク番組であるがこの日のゲストは何と東条由布子氏。東条英機の孫にあたる方である。その対談の内容は靖国問題。しかし韓国は一方的な感情論が多かったが、東条氏の論破の仕方が素晴らしかった。東条氏は大東亜戦争中に相手の父親を引き合いに出し、日本のみならずアジアのために戦った。それに誇りを持っているのにもかかわらず二なぜあなた方は日本に謝罪を要求するのかと問い詰める。それをやることによって亡くなった父親は悲しむだろうとも言った。これには「そうか!その手があったか!!」と思ったのと同時に韓国人の親に対する思いのなさを露呈してしまったように思えてならない。韓国人は中国人と同じように家族を重んじる民族ではなかったのかと疑いさえもした。
なぜここまで歴史認識問題がこじれたというのは日本の外務省にも責任がある。1992年に当時の首相であった宮沢喜一が韓国を訪れた際に元慰安婦たちの訴えに驚き、その後の首脳会談で8回もの「謝罪」「反省」という言葉が使われた。ちなみに韓国人が慰安婦問題に使ったものは吉田清治の「私の戦争犯罪」という証拠ばかり取り扱われている。それに済州島の先住民や韓国内でも戦争をよく知っている老人たちも信じていない。実際慰安婦に関する史料は1つあるのだがこれは「慰安婦を装った人さらいがいるから厳しく取り締まれ」という内容である。従軍慰安婦のために強制連行を行ったという証拠はどれも「いつ」「どこで」「誰が」というような出所がはっきりとしないものばかりである。話が飛んでしまった。しかし外務省はそれからヒアリングを実施したがこれ自体の資料は15年経った今も公開されておらず、さらに河野談話もあいまいな表現にしようとした外務省の小細工であった。それによる河野談話によってついに慰安婦問題が決定的に出始めたのである。これについて確固たる証拠を出して解決するということがほぼ不可能になるまでこじれてしまった最大の要因である(「村山談話」もその一つである)。では日本はどうすればいいのかということになる。韓国がそれだけ声高に言っているのだから、日本人もその正当性を訴えるべきである。最近はそういったことが出始めてきた。これからさらにそういう本や発言が増えることを期待しながら、私も声高に叫ぶ所存である。

ワンランク上の問題解決の技術

上記の著者である横田直哉さまからコメントをいただきました。

>ブログを拝見させて頂きました。びっしり、って感じですね。
>濃度の濃いブログ、毎日書かれているのですね。

はいびっしりです。書きたいことを書くとここまでになりますね。

「濃度の濃いブログ」ですか、ありがとうございます。こう書かれるとは夢にも思いませんでした。本当にありがとうございます。

さてお知らせです。

10月26日に上記の出版記念講演・およびパーティーがあります。私もそれに参加をします。

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講演もさることながら、何と業界人や著名人との交流会もあります。とにかく内容の濃いイベントでしたので即決で参加を決定しました。早期割引が終わっていたかと思ってたら何と25日までに延長となったので是非ご参加ください。

講演とパーティー両方で16,000円。

本で書かれなかった内容の講演と著名人の方々との交流を考えればこれほどお得なものはありません。

IPTV革命-放送・ネット・モバイルのビジネスモデルが変わる

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西 正

日経BP社  2008-04-24
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インターネットとTVが仲違いしている様相であるが、IPTVという構想ができ、ついにネットワークを通じて映像を配信するサービスというのができた。さらにNHKは「NOD(NHKオンデマンド)」というインターネット配信を行うことが決まった。いよいよTVがインターネットに対して本格的に殴り込みに入ってきた様相である。
第1章はインターネットの普及により「見直し番組」の提供についてであるがNHKは積極的に取り入れるという方針を決めている。一方民放連はそれに関しては消極的である。むしろ著作権(もしくは著作隣接権)を盾にしてやらせないという体質がある。それにも理由があり、CMとの広告料などの既得権益の確保に躍起になっている。しかしNHKがサービスを始めるとなると追従してやるということも考えられるが、それほど認知はされていないながらも、すでに行っていることも事実である。ちなみにNHKは有料配信を目指しているが視聴率の関係で無料化せよという声も少なくない。そのコンテンツ自体の全貌は分からないが製作費をわずかに削れれば無料化も可能ではなかろうか。さらに広告費を若干とれれば無料化というのも十分に可能である。ただこれについてはNHK側も見解が分かれており、受信料で賄うのかそれとも利用料として別にとるのかという議論はある。それについての両方のリスクについては未払い問題も絡む。そして後半にはすでに進んでいるアメリカの「キャッチアップTV」のケースを取り上げている。これについては日米の広告の違いからそういったネット配信も可能になるという違いを見せている。民放のTV局は広告によるスポンサーが主となっている(ただし小さな番組にはそういったスポンサーがつかずスポット広告になる)。一方アメリカのTV番組はそういったスポンサーを持たず、CMはすべてスポット広告のみである。まず広告の在り方から見直すべきところだがどこまで踏み込めるのかというのも課題といったところである。
第2章は「民放業界の再編と地上デジタル再送信手段の多様化」であるが、持ち株会社制度解禁による民放業界の再編については進んでいることは事実だろう。ただし在京キー局の圧力を考えると再編の道は途中でぱったりとなくなることが心配である。そして後半では地デジについて取り上げられている。現在地デジの普及率が芳しくなく20%あるかないかといったくらいである。しかも地デジを見ることのできない地域もあったり(「難視聴」により視聴できなくなるところもある)、さらには地デジのチューナー内蔵テレビやチューナーも高いために変えないという人も少なくない。2011年7月24日にアナログ放送を終了するとなっているがそれを知っている人の割合も75%しかおらず総務省は危機感を募らなせなければならない。日本は完全移行となっているが実際に行った国はオランダ、フィンランド、イギリスなど4カ国しか行っておらず地デジ先進国といわれているアメリカでもアナログ放送は続けている。地デジの移行期間延長もしくはデジタル・アナログの並行も視野に入れて抜本的に見直していかないとTVの視聴人口も伸び悩むどころか頼みのTV局の財政赤字にもなりかねない。それによって日本経済の減速も避けられないと私は思う。
第3章はIPTVのコンテンツについてであるがさっそくこれに至ったニーズについて紹介する。「YouTube」などの動画共有サイトでは著作権で違反になっているTV番組を投稿するというのが増えている。TVのテロップにもそういったものが出始めた。著作権側とユーザー側でも著作権意識に隔たりが生じ、解決の糸口すら見えていない状況である。しかし裏を返せばそういったニーズがあるということをTV局はなぜビジネスチャンスとしないのかが不思議である。前述にも広告の既得権益がなくなるからと言ったが実際に無料で動画配信を行いそこで1〜2回本編の前にCMを流すだけでもいい収入になり、動画の周りに広告バナーを張り付けるだけでも既得権益に程近い広告収入を得られるのではなかろうか。そうなると広告収入の確保も楽になり視聴者のニーズも柔軟になり視聴率も上がる。IPTVや動画配信というのはそういったことを秘めている。著作権の権利処理については本書でもわかりやすく図にして書かれている。とりわけ取り沙汰されやすいアニメを例にしているところが本書の面白いところの1つである。アニメは広告収入が取りづらく、視聴率もそれほど取れない。では収入源といったら何かというとOVAの収入や一部は有料ネット配信にても収益を得ている。さらにTV局のみならず、出版社や玩具会社なども出資しているため収益としては非常に少ない。当然二次利用収入も活路はあるのだがやっているところもあるがそれほど収益が出ないというジレンマもある。
第4章はIPTVスタートに向けて進化が問われる課題について書かれている。IPTVはCATVのように多チャンネル化を目指しているが、これについてユーザーの利便性やサービス内容によって競争が成り立つのではないかというのが著者の考えである。IPTVはNHKが単独で行っているため「ブルー・オーシャン」の様相を秘めているが、おそらく民放も間もなくかみついてくるだろう。その時にどこで差をつけるのかというのも非常に面白く、もっと言うとTV番組の質の向上にもつながるのでTV離れを抑止させさらなる視聴人口の増加を図ることができる。TV後進国となっている日本にとってどのような起爆剤となるのか見極めていかなくてはいけない。

著作権保護期間―延長は文化を振興するか?

著作権保護期間―延長は文化を振興するか? 著作権保護期間―延長は文化を振興するか?
田中 辰雄 林 紘一郎

勁草書房  2008-08-11
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現在日本における著作権の保護期間は存命期間及び死後50年である。現在はそれほど目立ってはいないがこの保護期間を70年にしようとする動きもある。実際現在では据え置かれる状態であるが権利者を守るためという理由で20年延ばすべきだろうか、被権利者の権利を守るために延ばさざるべきかというのは分かれている。しかしその議論に関しては権利者側でも著作権保護が大多数ではなく「保護期間延長派」「保護期間据置き派」「保護期間短縮派」に分かれている。そう考えると著作権の保護期間延長は必ずしも権利者のためにならないこともあるのではないのかというのも一つ考えられる。本書はその著作権保護期間について法律学、さらには統計学的に考察している。
まず序章にて前置いているのはあくまで統計や主張をまとめたものであるため、実際の判断は読者に任せるというスタンスを本書では取っている。そういったことにより、より中間的にかつ冷静な観点で考察されているところがなかなかの良書である一つの理由と言えよう。
第Ⅰ部は「著作物の寿命と再創造」であり著作権の寿命について考察している。実際に著作権によって著作者の権利が守られているわけであるが著作権の期間内で廃れ、著作権が切れてパブリック・ドメイン化したものはそれによるメリットというのは本では印税のみであり印税がない分という額はそれほど大差ない。実際に著作権の寿命を考察してみると実際この著作権の期間が長すぎるのではないのかとも思ったりもする。そのことから「保護期間短縮派」が出てきているわけである。さらにインターネットの登場によって著作権の在り方について考えなければならない時が来たのは間違いない。パブリック・ドメイン化によるメリットというのは歴然としている。というのは本は出版に関してのもろもろの費用はかかるが、インターネットで流すとその費用はそれほどない。有料でもわずかな額でも本の印税に匹敵できるほどの儲けになる。ただしあくまで費用に対しての利益を見ただけであり実際本当に儲かるのかは作品次第である。著作権の分当然衰退により、その権利が消滅した後はほとんど認知されないということもあるが、逆に消滅して初めて認知されたという例もある。夏目漱石も映像化や漫画化や復刻も行われたことによりいまも読み継がれており、さらにクラシック音楽も著作権が切れた後に再評価する動きも出てきている。著作権によって障害となっていたものが解かれたことにより再評価や古き作品を楽しむという動きが出てきたのであろう。とりわけ音楽については著作権がネックとなっており、作品や演奏規模によって1曲につき数千・数万円も取られることもある。そのことから著作権というのがネックになっているのは事実である。しかしそれが活字であったりとした文化の振興につながるのかというと実はそうではないと私は思う。というのはビートルズがなぜブレイクしたかということにある。ビートルズの音楽にはその前にはやっていたイギリスの曲をまねたり、もしくは参考にしたりしていることにある。そのことを考えると著作権による保護によって果たして作品の増加を助長したのか、文化を振興したというのが疑われる。それについて詳しくは次の第Ⅱ部について書かれているためそこで詳しく述べていく。
第Ⅱ部は「保護期間と保護方式」でありおそらく本書の根幹部分に位置づけられる。最初にも書かれているとおり日本の著作権の保護期間は詳細にいうと普通の著作(個人による)については「生存期間及び死後50年まで(著作権法51条2項)」、団体名義の著作物は「公表後50年まで(同法52条1項、53条1項)」、映画の著作物については「公表後70年まで(同法54条1項)」と定められている。
日本ではこの著作権の保護期間の延長についていまだに議論されているところであるが、2002年にアメリカから日本への「年次改革要望書」で著作権の保護期間延長を求めている。アメリカはすでに保護期間を50年から70年延長した。もっと言うとポルトガルでは1948年無期限に延長したが、1971年までに撤回されている。そのことを考えると世界的な観点から考えて著作権を延長したほうがいいのではと考える人もいるがこれはあまりにも短絡的すぎる議論である。実際この著作権の保護期間延長によって社会的に有益になるのかというのを権利者、被権利者双方の利益を考えつつ議論していかないとどっちつかずとなり、今日のような権利者・被権利者の隔たりというのは埋まらないと私は思う(そう簡単に埋まらないというのはあるが)。本書では実際に保護期間延長を行った国々は本当に文化の発展に貢献したのかについて考察している。日本でも映画限定だが保護期間が延長したがそれについて利益になったのかというとまだ何とも言えないようだが映画製作数が増えたという論拠にもまだ至っていないというのも事実である。いずれその答えは出てくるだろう。
そして終章はシンポジウムによる意見などをもとに現在行われている著作権保護期間の延長の是非についてまとめ、そしてそこから5つの提言がなされている(pp.258-259より)。
1.「「声なき声」を反映させる政策立案過程を工夫する」
2.「法と技術の関係を見定める」
3.「延長理由の挙証責任は延長を主張する側にあることを明確にする」
4.「今度の制度設計に当たっては、立場を入れ替えて考えてみる」
5.「デジタル化による変化を取り入れる」
全くの正論である。当然これについて受け入れなければ合理的にかつ時代に沿った改正ができないといってもいい。しかし法律を改正する立場である政治はこういったことを受け入れるだろうかと考えると疑問が残る。とりわけ3.は非常に難しく思える。権利者側が政治への発言力が強いのは明白である。著作権に対する規制が緩和されると当然業界内でも不利益を生じることがあるので当然政治に圧力をかけてくる。そうなると我々消費者も置き去りにされてしまうという図式になりかねない。政治はこういった人たちのためではない。しかしそういったことをいかに打破するのかというのも政治家の課題といえるのではないだろうか。

言われた仕事はやるな!

言われた仕事はやるな! (朝日新書) 言われた仕事はやるな! (朝日新書)
石黒 不二代

朝日新聞出版  2008-05-13
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「最近の若者は…」や「最近のサラリーマンは…」といった「俗流○○論」というのが非常に多くなっている。そういう意見が出ると「じゃああなたたちはどうなのよ?」と返したくなるのが私であるが。
さて本書の表題を見ると、「上司などからもらった仕事は一切手をつけるな」と一見思ってしまう。しかし表題はそのように見えて、実はチャレンジの出来る企業、「人をしかる」企業がなくなっているということを憂いて著者はこういう本を出したのであろう。
著者はアメリカでアメリカ流の企業文化を学び日本に戻り会社を興した。実際に今の日本人にはそういったチャレンジングなことを好まないと私自身は考える。実際企業に愛着を持つのは昔からあり、会社に愛着を持つことで日本の経済は戦後目覚しい成長を遂げたことは忘れてはならない。とはいえバブルが崩壊し企業のあり方に変化が生じたことは忘れてはならない事実である。しかしアメリカなどの諸外国をそのまま日本で使うということはお勧めできない。それぞれの民族性や文化というものに違いが生じている為なじまないことが多い。とはいえ企業形態やあり方がいまや変わりつつあるときにそういった国を参考にしたり、もしくは朝日山動物園のように試行錯誤を繰り返しながら作っていくというのが企業確信のひとつの手段かもしれない。そしてそれと共に会社人間でもなく、仕事人間でもない社会人になること。しかし仕事の効率や仕事への意識というのは当然高くしないといけないというのが必要となろう。そういう意味で今日ビジネス本の売り上げが伸びているというのもうなずける。「仕事はいわれてやる」のではなく「自らその仕事を取りに行く」という意気込みがほしいところである。

F1 中国GP ハミルトンが今季6勝目!! そしてチャンピオン争いは最終戦へ!!!

結果は以下の通り(GPUpdate.netより)。

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTime
1 L・ハミルトン マクラーレン 1:31:57.403
2 F・マッサ フェラーリ + 14.925
3 K・ライコネン フェラーリ + 16.445
4 F・アロンソ ルノー + 18.370
5 N・ハイドフェルド BMW + 28.923
6 R・クビサ BMW + 33.219
7 T・グロック トヨタ + 41.722
8 N・ピケ・ジュニア ルノー + 56.645
9 S・ヴェッテル トロロッソ + 1:04.339
10 D・クルサード レッドブル + 1:14.842
11 R・バリチェロ ホンダ + 1:25.061
12 中嶋 一貴 ウィリアムズ + 1:30.847
13 S・ボーデ トロロッソ + 1:31.457
14 M・ウェーバー レッドブル + 1:32.422
15 N・ロズベルグ ウィリアムズ + 1 laps
16 J・バトン ホンダ + 1 laps
17 G・フィジケラ フォースインディア + 1 laps
Did not finish
18 H・コヴァライネン マクラーレン + 6 laps
19 A・スーティル フォースインディア + 41 laps
20 J・トゥルーリ トヨタ + 55 laps

ハミルトンがポール・トゥ・ウィンで最年少ワールドチャンピオンに王手をかけました。ただ2位にはマッサ。油断はできません。

6位のクビサがタイトルの可能性がなくなりましたので、タイトル争いはハミルトン対マッサとなります。チャンピオン予想は後ほどのことで。

3位はライコネン。可能性がすでにないことなのでマッサのサポートに徹しました。昨年はマッサがライコネンをサポートに徹してチャンピオンをとったわけですから(マクラーレンの自滅というのもあるが)、今回は逆の立場で貢献することがライコネンにとって大事なことかもしれません。そして来年は逆の立場ということで。

ヴェッテルが久しぶりにノーポイント。さすがにあれだけポイントを稼げば評価は高いでしょう。ただ来年移籍するレッドブルはちょっと調子が悪い模様。それを打破するのはヴェッテルなのか?

日本勢の話に行きましょう。

トヨタはグロックが6位だったのですがトゥルーリは第1コーナーでのボーデとのクラッシュによりリタイア。コンストラクターズ4位の夢がついえてしまいました。しかし最終戦に向けて今度は5位を死守を目標に頑張れと言いたいところです。

ホンダ勢はバリチェロ11位。バトン16位でした。マシンが決まらなかったもののバリチェロのペースが上がっていっているように思えます。ロス・ブラウンがトップなだけに…という考えもあるようで。

中嶋は1ストップ戦略が功を奏して12位フィニッシュ。マシンがあまりいいようには思えませんでしたが、それでも戦略も順位的にもチームメートのロズベルグに勝っているところもいくつかあるのでなかなかだと思います。

さてワールドチャンピオン予想。過去のデータをもとにして予想を立ててみました。

ハミルトン:2位フィニッシュでチャンピオン

マッサ:母国優勝だがチャンピオンを逃す

ということも考えられます。そうでなくともハミルトンはチャンピオンをとるためにリスクはとらないという戦略をとるのではないかと。ただこのGPまでアグレッシブな走りをしていただけに優勝をとるような気もしますが…、チャンピオンの取り方がわかっていればおそらく危険な走りは鳴りをひそめるかと。ただ何か起こるかわからないということだけはあらかじめ言っておきます。

マッサの得意なコースの一つなのでここは勝たないわけにはいかないでしょう。ポール取れればある程度のプレッシャーになると思います。

さて次は最終戦ブラジル・インテルラゴス!!! チャンピオン争いの結末やいかに…。

F1 中国GP ハミルトンがタイトルをかけ渾身のPP!! そして優勝予想

結果は以下の通り(GPUpdate.netより)。

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTime
1 L・ハミルトン マクラーレン 1:36.303
2 K・ライコネン フェラーリ 1:36.645
3 F・マッサ フェラーリ 1:36.889
4 F・アロンソ ルノー 1:36.927
5 H・コヴァライネン マクラーレン 1:36.930
6 M・ウェーバー レッドブル 1:37.083
7 N・ハイドフェルド BMW 1:37.201
8 S・ヴェッテル トロロッソ 1:37.685
9 J・トゥルーリ トヨタ 1:37.934
10 S・ボーデ トロロッソ 1:38.885
11 N・ピケ・ジュニア ルノー 1:35.722
12 R・クビサ BMW 1:35.814
13 T・グロック トヨタ 1:35.937
14 R・バリチェロ ホンダ 1:36.079
15 N・ロズベルグ ウィリアムズ 1:36.210
16 D・クルサード レッドブル 1:36.731
17 中嶋 一貴 ウィリアムズ 1:36.863
18 J・バトン ホンダ 1:37.053
19 A・スーティル フォースインディア 1:37.730
20 G・フィジケラ フォースインディア 1:37.739

ハミルトンがタイトルをかけて有利な展開となっていきました。その後方にはフェラーリなので油断できないでしょう。

あとウェーバーがエンジン交換ペナルティのため16番グリッドから、ハイドフェルドが3番グリッド降格処分のため9番グリッドからのスタートとなります。

さて優勝予想。

本命:ハミルトン

対抗:ライコネン、マッサ

要注意:アロンソ、コバライネン、クビサ

タイトル争いはおそらく最終戦にもつれ込むのじゃないかと。

F1 中国GP PP予想

昨日のフリー走行では両方ともマクラーレンがトップでした。

それはさておき、PP予想といきましょう

本命:ハミルトン

対抗:コバライネン、マッサ

要注意:ライコネン、クビサ、アロンソ

といったところでしょう。

霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」

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高橋 洋一

文藝春秋  2008-05
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昨日の平均株価は市場で2番目の下げ幅を記録した。それ以前にも900円以上値が下がった日もあれば、1000円以上の急激な値上がりをするなどごく最近では乱高下状態であるが実際は急激な値下がり感があり、経済は衰退の一途をたどっているといってもいい。しかしこれは日本の要因ではなくアメリカのサブプライムローン焦げ付き問題に端を発し、先日にはリーマンブラザーズの破綻によりアメリカ経済が急速に衰退した余波を受けている。世界的恐慌とも言われるような世界経済の中でいま日本の経済的な舵取りはどのようにすべきなのかということもすぐに対策を立てなければならない。ケインズの介入対策がいいのか、もしくは経済成長を促すようなことを起こして衰退から脱すればいいのかと意見は様々であるが私自身も経済はそれほど詳しくない。実際ケインズによる資金の流通もいいように思えるが、過去の失敗例からしてどうだろうかという疑問はある、さらに経済成長を促すような一大センセーショナルを起こしても結局アメリカ経済衰退の余波によって飲み込まれてしまうのではないかという危険性だってはらんでいる。麻生内閣は今非常に難しい舵取りに挑んでいるところであろう。
さて本書の話題に移す。本書は「霞が関埋蔵金」で話題となった東洋大教授の高橋洋一氏がこの国の経済について解説している。
とはいってもまず第1・2章は「埋蔵金」についてである。しかしこれがなかなかなものであるといってもいい。その埋蔵金となる証拠が出るわ出るわ。しかしこの埋蔵金はそのありかを見つけたのは高橋氏だが、ネーミングをつけたのは実は「財政改革研究会」、通称「与謝野馨研究会」である。ネーミングについては著者自身批判しているが、実際この埋蔵金についてどのように使うのかというのは選択権は国民にあると高橋氏はいう。誰にこの埋蔵金を託せばいいのかというのを次の総選挙で答えを示せばいいのだが、実際に自民党と民主党のマニフェストは似たり寄ったりなのでそれほど差が付いていないというのが私の意見である。
第3章は「お金はどう動くのか」だがここでは日銀総裁のことに関してどうも目につく。もっぱら福井前総裁への痛烈な批判と白川総裁選出の驚きと疑問と言ったところだった。実際日銀総裁が空席だったのが大体何日かありその間日銀総裁の選出が三週間も迷走した時があった。その時に英国の「The Economist」が「JAPAiN」という造語をつくり日本の財政政策を非難した記事が出たのもちょうどこの時だろう。実際日銀総裁は誰がなるかというよりも誰がどのような目標を立てて財政政策にあたるのかというのに着眼しなければならないと高橋氏は語っている。実際財政政策は非常に逼迫している状況にあり、与謝野氏が提唱する財政緊小による財政再建がいいのか、中川秀直氏らが提唱する「上げ潮」がいいのかというのは未だに不明であるが、実際に日本の借金は膨れ上がっている。破綻寸前の状況じゃないかと意見したいところだがこれについては高橋氏が新刊を出されたのでそこで詳しく語ることにする。
第4章は「公務員制度改革の闘い」、第5章は「国家を信じるな」であるがここでは国会議員をはじめ官僚、さらには地方行政にまで言及している。とりわけ財務省(旧:大蔵省)は在籍していただけあって非常に生々しい話ばかりであった。さらに地方行政については知事に関する批判について書かれており、現在活躍している宮崎県の東国原知事については揮発油税暫定税率廃止に反対だったことを批判している。暫定税率維持について地方公共団体の長がそろって主張するにも理由はあるが、暫定税率はさかのぼってみれば田中角栄が道路の建設のために緊急に税をつけたものであり、それが30年以上続くといういかにも反則的なことをやっているよりは、暫定税率をどんどん減らしていくという案を出すとか、高橋氏が提示した暫定税率をやめて道路は地方税でつくれがいいとかという提案をなぜ政府は行わないのかが不思議である(その背景に官僚があるので言えないか)。
本書は埋蔵金の解説書でも経済学入門でもない。今の日本の、霞が関の経済の現状について書かれている。本書で特に重要なのは第2章であろう。「財政融資特別会計」は一見の価値がある。

統帥権と帝国陸海軍の時代

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秦 郁彦

平凡社  2006-02-11
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敗戦後は「統帥権」というのは廃止されたが、大日本帝国憲法下での統帥権は天皇陛下にあった。この統帥権の独立について著者は破滅の道に進んだとしている。実際この統帥権について取り沙汰されたのは日露戦争のことであるが、もっとこれが表面化したのは1930年代のことである。もともとこの「統帥権」については大日本帝国憲法11条に条文化されていたがそれの解釈や背景にあたり上記のいざこざが見られたという。実際日本国憲法でも「政教分離」や「第9条」による解釈で紛糾しているが、群舞をもっていた大日本帝国でも同じであった。「法治国家」であるが故に、そして法律があるが故に解釈の問題というのは起こり得る。その解釈の帰着点は存在せず、解釈論が意見につながるだろうと私は考える。最も法学者の多くは判例に基づいて解釈を行っているが、あくまで証拠を述べたに過ぎず、私が法律論を語るのは気が引けるが法律を条文化するにあたり様々な背景などがある。私自身は法律とともにそれが「いかにしてつくられたのか」が私の中では大事になる。実際そこまでさかのぼれば法律はどのようなものかというのが自ずとわかると私は思う。
少し外れてしまったためここで話を戻す。本書の一番最初に出て来るのは司馬遼太郎である。実際「司馬史観」も歴史認識問題に影を落とすことになるがこれは別の本で紹介しているが、本書はその中から特に司馬遼太郎が情熱を注いだという「統帥権」についてである。司馬遼太郎はこの「統帥権」について、
「統帥権がかつての日本をほろぼしたことについて書いている(p.8より)」
「<統帥権>という無限の権能を振り回し、国家を破滅に追い込んだ参謀どもが跳梁した昭和前期の十数年は<日本ではない>ことをあかしだて…(p.8より)」
統帥権こそが日本の軍部を暴走させた諸悪の根源であると司馬遼太郎は断じたのである。しかしこれには語弊があり、前述のように「統帥権」の条文については天皇陛下しか持つことができなかった。それに近いものである例はいくつも存在するが、実際は政治家が軍内部への火に油を注ぐためにけしかけた問題であることも忘れてはならない。例えば「統帥権干犯問題」がその最たる例であろう。
私自身「統帥権」についてはまだあまりよく分かっておらずここではっきりとした感想を述べるのも気が引ける。まだまだ調べる余地があるのではっきりしたうえで自分の意見をつくっていきたいが、軍部と政治の軋轢というのが垣間見えたというのだけははっきりといえる。

データブック貧困

データブック 貧困 (岩波ブックレット) データブック 貧困 (岩波ブックレット)
西川 潤

岩波書店  2008-06-05
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「貧困」とは一体何だろうかというのを戦後、高度経済成長まで忘れてしまったのかもしれない。大戦中や戦前は配給制により満足のいく食事ができず、国のために勤勉を行い、夜遅くまで仕事に勤しんだという人がほとんどである。しかし労働状況が一向に改善されないことから小林多喜二の「蟹工船」のような減少が起こっては鎮圧されたということもあったという。バブルが崩壊し、「失われた10年」を乗り越え日本は「貧困」が他人事でなくなるような時が来ようとは。評論家の金美齢氏はこのような格差社会でも「日本の格差はそれほどではない」と断言している。では格差対策はやらなくていいのかというとそうではない。「格差がない」と言われるからでこそ日本における貧困問題は解決していかなくてはならない。事実憲法では生存権というのが担保されている。それを担保されるために「生活保護制度」がある。しかし生活保護の件数は多くなるい一方でパンク状態となり、さらには生活保護費の削減も行おうとしている。これで最低限の生活がおくれるのかというのが疑わしくなる。そしてもう一つ「生存権」の話であるが、これにまつわる裁判が依然最高裁で数件あったのだがいずれも国の勝訴に終わっている。そう考えると「生存権」というのは形骸化していると思えてならない。今憲法の話も9条のことばかりに集中しすぎておりそれによって「護憲」「改憲」と論じてしまう。私自身は「改憲」の立場であるがこれは9条の話にとどまらない。「護憲派」でも国民のために変えなくてはいけない条項がたくさんあるのではないかと疑いたくなる。
「貧困がない」や「格差がない」ということで格差解消の政策を止めてはいけない。むしろそれを考えない経営者は自分の首を自分で絞めているということを果たして認識しているのだろうか。

世界の貧困問題と居住運動

世界の貧困問題と居住運動 世界の貧困問題と居住運動
ホルヘ アンソレーナ

明石書店  2007-12-26
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貧困問題についてもいくつか取り上げられているが、今回は少し貧困の中でも居住運動に目を向けてみる。家がないという貧困も少なくない。日本でも「ネットカフェ難民」や「マック難民」というのが取り上げられているが、それと比にならないほどである。お金もなければ働く当てもない。日本のようにネットカフェやマクドナルドのファーストフード店もない。本当に外が家であり、青空のもとで生活を過ごすという人たちである。本書はそのような現状とそれらに対してどのような住宅供給をさせているのかについて迫っている。
第1・2・4章についてはいくつかの文献で紹介したものなので割愛させていただく。本書の紹介としては第3章以降がふさわしいだろう。
第3章「政府による貧困層のための居住プログラム」
政府主導で居住の供給を行っている事例を取り上げられている。おもにインドの住宅都市開発会社やスリランカの百万戸家屋プログラム、アルゼンチンの地方自治体支援する相互扶助などである。政府主導でこれほどやっており、市民もそれをよく活用していることであると思う。国際協力として貧困というのは日本でも考えるべき一つの課題といえるだろう。
第5〜7章では基本的に住宅の紹介といったところである。実際に貧困で苦しんでいる人達のための住宅提供であるところから非常に廉価でつくられている所には驚きを覚えた。
最初にもいったが貧困の中には帰る場もない人たちもいる。その人たちに最低限の衣・食・住を提供して挙げることもまた人権なのかもしれない。貧困問題は人権問題とイコールする人もいるが、私は「≒」といったところである。最低限生活できなければ最低限の生活が担保されないことによる人権侵害になる。しかし貧困の定義は非常にあいまいであり、「心の貧困」というものもある。これは主に富裕層らが占めているが、これは人権問題かというとそうではない。そのことからひとくくりに「貧困=人権」というのはある意味危険な理論になりかねない。余談ではあるがこれだけは付け加えておく。

グラミン銀行を知っていますか?

グラミン銀行を知っていますか―貧困女性の開発と自立支援 グラミン銀行を知っていますか―貧困女性の開発と自立支援
坪井 ひろみ

東洋経済新報社  2006-02
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ノーベル賞のことで話題となっている。先日日本では、米国シカゴ大名誉教授の南部氏ら3名が物理学賞を受賞し下村脩氏が化学賞を受賞した。また個人的に注目だった平和賞は前フィンランド大統領のマルッティ・アハティサーリ氏が受賞し、中国の人権運動家の胡佳(フー・ジア)氏は惜しくも受賞を逃した。
さてこれを述べるのかというと本書は一昨年にノーベル平和賞を受賞した「グラミン銀行」を取り上げるからである。
この「グラミン銀行」とは一体何なのかというと、1983年バングラデシュに建てられた「貧者のための銀行」であり。ムハマド・ユヌスもその創設者のひとりであり、同銀行の総裁である(ちなみにこの方も2006年に平和賞を受賞している)。この銀行は低金利でお金を融資し貧困の解消に役立てられているが、借主の97%が女性であることから「貧困女性開発の自立支援」の副題がついたのだろう。
ちなみにこのグラミン銀行は「マイクロクレジット」ということを行っている。これは貧しい人々が起業できるように、少額の借金によって安定した生活がおくれるようにするということである。マイクロクレジットはグラミン銀行だけではなく様々なところで行われているがグラミン銀行ほど有名になった例はそれほどない。
さてこのマイクロクレジットについてグラミン銀行の活動について書かれたのは本書であるが、すべてがうまくいっているわけではない。実際グラミン銀行の融資率は約20%であり日本の消費者金融とさほど変わらない(むしろ前者のほうが若干上)ために返済が滞ってしまうことも少なくない。それによりマイクロクレジットをやめた人もいる。しかしそれもごく少数であり、本書の巻末に書かれている2005年10月のデータによると返済率は99%と非常に高い。認知はされてきてい降りメンバーも約5百万人(これも2005年現在)に膨れ上がっているという。
本書を読んでの感想であるが、グラミン銀行こそ貧困の救世主として注目されている。しかし融資している対象やこのグラミン銀行のメンバー構成もほとんどが女性であるためか「貧困の女性のための銀行」といえる。実際これだけのお金をもってきたかというのも気になったが、強制貯蓄によるものであるという。これについては少し幻滅した感じもある。というのは恵まれない人たちのために募金で集めてこれほどの額になりましたということを自分自身で想像していただけに、裏切られた感じがしたからである。しかし貯蓄も悪いものではなく、当然設けてきたのだからそれに還元するという考えからすると強制であるにせよ、これが大いに役立っていることには間違いない。
現在世界の半分は1日2ドル以下での生活を強いられている。さらに世界の約20%が1日1ドル以下での生活を強いられている。そのことを考えるとお金で人々を喜ばせることができるという手段もある。第2第3の「グラミン銀行」ができることにより少しでも貧困が解消できる起爆剤となればいいと私は思う。

世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと

世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと 世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと
ジェレミー シーブルック Jeremy Seabrook

青土社  2005-07
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世界の1%が世界の全資産の半分を独占しているという。さらに言うと世界の大多数が1日1ドルで暮らす人々であるという。富裕層は貧困から見て雲の上の存在、見えない存在となっている。逆に富裕層は貧困の生活は想像できないし踏み込むことはごくわずかである。通信企業やNGOやNPOらがようやくこの窮状を伝えたときに重い腰を上げるがそれもわずかしかいない。当然貧困を救うために今日でも募金活動は続いている。本書ではこの貧困についての寸描が書かれているが一部だけ紹介する(p.36より)。
世界で8億4000万人以上が栄養不良の状態にある。
毎年600万人に上る5歳未満の幼児が栄養失調で死んでいる。
世界で12億人の人々が、1日1ドル未満で生活している。世界の人口の半分が1日2ドル未満で生活している。
年に1200万人が水不足で死んでいる。11億人が浄水を手に入れることができず、24億人が適切な衛生設備なしで暮らしている。
それを考えると今の日本はこれ以上ないほど恵まれている。健康のことにいつも気を遣い、さらにダイエットやスポーツにお金をかけるという人もいる。前の「非常識力」でカンボジアの人々が日本の事情を知って驚き「私たちは太れたら幸せなのに」と言っていた。もしかしたら今の貧困層の人たちの最初の理想はこれであろう。満足のいく食事ができて、満足のいくまで水が飲めて、今度は勉強ができて、働けてという順で願望があるのだろう。
そして目に見えない「貧困」はこの言葉とは縁遠い金持ちにもそういった貧困はある。しかし金によって物は豊かになる。しかし肝心なものが必ずと言ってもいいほど貧しくなる。心の豊かさである。何でも手に入るが、思ったものが手に入らないものに不平を言うということもある。さらには金があるからと言ってお金では手に入らないものまで金で解決しようとする。
さらに本書では貧困の定義についてこう言及している(p.63より)。
「貧困の反対は富ではなく充足である。満足、安心、安定した暮らしができること、これが貧しい人々が望むものである。それに代わって、彼ら(金持ち)は豊かさの追求を与えられるこれは充足をすり抜けて進み、満足をどんどん手に入れにくいものにしていく
 貧困の定義が大変難しい理由はここにある」
つまり貧困層が充足できるものを得たとしても金持ちなどの富裕層が充足できないものにケチをつけて貧困だと自分たちが訴える。ある種の詭弁であるように思えるのだが、貧困の反対が充足である以上、充足できるまでそれが乏しい状態、つまり貧困であるという論理になる。貧困の定義から言ったら非常に難しい。もっと考えると貧困は解決しても新たな貧困が生まれるというイタチごっことなり永久に解決できないのではとも考えられる。
さて貧困層のが死となると国の人権問題にかかわることであるが、この世界人権宣言にも「食べること」や「教育を受けること」などの経済的抑圧からの自由がないと本書は指摘しているが、前者はWHO、後者はユネスコが行われる。しかし貧困層へのということであればそれらとのリンクも考えなくてはいけないだろう。
貧困というのは簡単なようで定義づけが非常に難しく、それを解決しようがないほど難解なものになっているが、貧困層が最低限生活できるということがまず最初の貧困の解決であろう。

日本史の一級史料

日本史の一級史料 (光文社新書) 日本史の一級史料 (光文社新書)
山本 博文

光文社  2006-05-17
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歴史の説やエピソードにおける意見は史料をもとにして行われる。とりわけ本書に書かれているような「一級資料」はそれについての重大な証拠となり得る。しかし本書を読んで混同してはいけないのは「一次資料」と「一級資料」は基本的に違うという所だけは釘を刺しておかなければならない。
それと本書の主張と相容れられないのがもう一つある。本書で書かれているのは安土桃山時代から江戸時代にかけてであり、それらの歴史を証明するのは史料のみである。そのため資料からいかにして歴史を読み取るかというのがカギとなるため、「一級資料」を駆使して歴史を読み解くしか方法がない。しかし江戸時代末期から現在にかけての近現代史ではそのことをやるとかえって歴史認識問題を混沌化させてしまう。つまりは「一級資料」という判断だけでやってしまうと責任の所在がどこであるのか、ある事件は一体誰が首謀者なのかが見えなくなってしまう危険性がはらんでいる。近現代史は「証言」や「それを裏付ける史料」をもとにして「誰が」「どこで」「いつ」などを証明とした「一次資料」が大事となる。ただ歴史学においての検証は人によっては「一次史料」と言った分別もあれば本書のように「一級資料」をもとにして学説を立てる人もいる。そのため歴史学的にも確固たる検証方法は今のところあいまいなのではと思ってしまう。
本書はあくまで歴史的史料の調査方法の一つを紹介したまでである。これが確実にいい方法とは限らないので注意頂きたい。

中国が笑う日本の資本主義

中国が笑う日本の資本主義 (ヴィレッジブックス新書 8) 中国が笑う日本の資本主義 (ヴィレッジブックス新書 8)
跡田直澄

ヴィレッジブックス  2008-06-30
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内容から見るにして表題は「笑う」というよりも「嗤う」と言ったほうがいいのではないのかと思った。
しかし分からないでもない。現在の日本は民主主義国家ではあるが、ある意味独裁主義国家みたいな後世になっているのは事実。「55年体制」の自民党1党独裁が38年も続き、1度政権交代が行われ、95年に自社さ政権で自民党は政権に復帰。それからもうすでに13年も経つ。その中で数多くの疑惑やスキャンダルがかけられるが一項に政権交代の足音が聞こえなかった。しかし去年の7月の参院選で参議院で与野党が逆転し、民主党が第1党となり、ねじれ国会となった。これにより自民党が非常に不利の立場となった。次の総選挙ではそれを維持するのには3分の2以上の議席が必要だが今の自民党にその議席を取れるのかというと絶望的であり、ましてや議席の半分まで行くのかどうかも分からない状態である。政権交代の足音はようやく日本でも聞こえ始めたと言っていい。民主党に政権担当能力はあるのかというと実のところ私も分からない。私自身民主党に任せてみるというのがもっとも良いと思う。政権になれているからとかという理由ではなく批判ばかりしている政党が政権を担当させてみたらどのように日本は変わるのだろうかというのが見てみたいからである。それで信用ができなかったら自民党に鞍替えすればいいという話である。それが民主主義ではなかろうか。
本書は全部で8章構成となっているが掻い摘んで紹介する。
第3章は「天下りは悪ではない」
著者が言うには世の中には「いい天下り」と「悪い天下り」があるという。実際「天下り」というと「悪」というイメージが固定化される。悪い印象ながら官僚によって支配されてきたのは事実である。これは戦後に限らず明治、もっと言うと江戸の末期からそれが顕著に表れてきていた(政府の「事なかれ主義」も同様である)。そう考えると著者の「いい天下り」ということに疑いをかけたくなる。著者が言うには天下りシステムは天下った方々の給料に見合った形でノウハウを提供し、それを民間企業が円滑に進めていくためにもなるという。それによる対価は一端のサラリーマンに払われる金額の10倍以上となるが、情報がいただけるわけだから安いものだという。官僚は白書といった情報を流すがそれが十分ではなく、余計な情報まで機密にかけようとし、情報漏えいにより本当に機密とすべき情報が流れてしまうという矛盾したシステムとなっていることは紛れようのない事実である。しかしそんなに悪くないと言った著者でもこの天下りシステムは一刻も早く改めなければならないという。その実態として「調査コンサルタント」と「羽田空港」が紹介されているがこれが想像できないほど恐ろしいものである。官僚がもっと悪になりそうである。改めるには「特権」を持たせないことである。天下りをしても「特権」を持たせず競争原理の中にさらしてやったら天下りはそれほど悪くなくなるだろうというのが著者の見解である。これは確かにと納得できるが、元防衛庁審議官の太田信正氏は天下りを完全に断ち切って恩給制度を復活させたほうがいいと主張しているが、どっちがいいだろうかというのにはまだ時間がかかるだろう。
第5章は「首都東京のムダはこんなにある」
この章は本当に笑いが止まらなかった。まずいきなり「北海道東京大学の誕生」という節が飛び込んだだけで、吹き出しそうになった。実際東京が一極集中しているのは明らかにおかしい。中国でも首都は北京だが商業的には上海や香港と言ったところが栄えている。でも日本は政治的にも経済的にも栄えているのはほとんど東京をはじめとした首都圏である。地方に分散したほうがいいというのが筋だが、「東京に行ったほうが近い」「東京に行ったほうが(儲けが)早い」という呆れた理由で東京進出している企業がたくさんある。地方行政も「霞ヶ関主導型」になっているため本当の地方は首都圏の景気が良くなってもそれほどよくなったように感じない。地域格差が生まれる。最近では道州制についての議論が活発になっているが、官僚らが骨抜きにしそうで怖い印象がある。しかしいつまでも東京ばかりに経済の中心を持たせるのはよくないと思っている。実際江戸時代は政治の中心は江戸であり、商売の中心地は大坂(大阪)だった。そのことを考えたら経済の中心地を大阪に戻したらいいだろうというのが私の意見である。
あと第5章の最初に書かれている(pp.104-105より)
「東京大学を旭川に」
「大阪大学を帯広に」
「京都大学を夕張に」
「学術会議を旭川に」
というのには個人的には大賛成である。理由?地元だから(笑)。
第6章は「巨額資産をため込む日本政府」
多額の借金を抱えても巨額の資産をため込んでいるというのが著者の見解だが。当然東洋大教授の高橋洋一氏の「霞ヶ関埋蔵金」にもその一つとして含まれている。それだけではなくNTTの株式もあるとは驚きであった。実態の所は把握しきれていないのだが1000兆円以上あるという。もしかしたら羽根がやNTTもそれに含まれるのではと考える。そう考えると借金解消を考えるとそれらを売却したほうが早いという考えも無きにしも非ずだが、もしも手放したらどうなるかというところも検討しなくてはならない事項であろう。

誰が教育を殺したか?

誰が教育を殺したか? 誰が教育を殺したか?
夏木 智

日本評論社  2006-08
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学校教育には今も昔も問題は隠されている。しかしここ最近はその問題が深刻化している。学級崩壊やいじめ、さらにモンスター・ペアレントなど教師の側に立ってみれば頭の痛い問題が山積している。教師の側はそれだけではなく文科省や日教組から数多くの事務処理作業を依頼してくる。それにより教師たちは忙殺され、独自の授業を行うというのが難しい状況になる。表題になる「誰が教育を殺したのか」ということを考えると生徒やその親、教師自身も含めたら、文科省や日教組や教育評論家も同罪と言えよう。
さて本書では二部構成で書かれており、第1部では「教育の風景」と題して今の教育現場の現状について書かれており、第2部では著者自身の改革案について書かれている。
今回は第2部について批判的に書いてみる。まずは教育改革についての批判について書かれているが、私自身半分その通りで半分違うと言いたい。教育再生会議において、確かに教育評論家が半数以上いるのは共感できるが、義家弘介といった現場で教育を行った方までいる。その人たちも「楽園」と言えるのだろうか。
教育改革は鶴の一声で効果が表れるのではない。そのことに関してメディアは分かっているのかどうかは分からないが、ただ学力低下を叫んで、国民はバカになったと嘆き叫んでいるようにしか思えない。確かに世界的水準からみても日本の順位は落ちているが、実際学力格差を考えると水準は依然高いままである。ではその高い状態を維持しながら水準を高めていくという教育が重要視されるが、私自身教育改革は藤原和博氏の提案が最適であると私は思う。教師は教えるよりも子供たちの学習意欲をわかせるためのサポート役が子供にとっても幸せであると思う。
最後の12の提言についてだが、学校弁護士制度や研究指定校をなくすこと、私立学校の情報の公開については賛成であるが、教科外科目を教えること、部活動を学校から切り離すこと、については反対である。さらに官僚の学校での研修制度であるが現に行っている所もある。ただそれによって本当に現在の教育事情を把握できるのかというと疑わしい。
教育改革はまだどれが最適なのかというのがいまだに暗中模索の状態である。暗中模索状態であるがその中で様々な提案が提示されそれを実践しながら最良の教育を行うしか方法がない。

生老病死の哲学

生老病死の哲学 生老病死の哲学
佐藤 三千雄

本願寺出版社  2006-07
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人には「生」「老」「病」「死」という4つの宿命がある。その4つにどのような哲学が込められているのか本書はそのことについて書かれている。
「生」
仏教とソクラテス、そしてローマの哲人セネカの言葉から始まる。ここでは後者の2つについて挙げる(両方ともp.3より)。
「真正に哲学する人々は死ぬことを練習している」(ソクラテス)
「哲学者の全生涯は死の思惟である」(セネカ)
宗教も哲学も最終的には「私」とは何なのかという果てしなき課題の中で思索している。私自身も哲学や宗教書を読む際、自らの「死」について考えている。私にはこういう格言がある。
「「死」を考えてはじめて「生」がある」
人にとって「死」とは何なのか。どのような「死」がいいのかというのは永遠の課題と言える(実際私自身「殉職」に憧れるのだがそれをやってしまうと社会が許してくれないと思う)。そしてもうひとつ(p.6より)、
「生は苦なり」
ちなみにここでの「苦」は出生までのことについて書かれているだけで、人生における「生」について書かれていなかったところが残念であった。しかし人生における「生」は「苦」もあれば「楽」もある。そのことを考えれば、人生において「生は苦なり」となるのにはちょっと無理があるのかもしれない。
「老」
人間において「老」は避けようがない宿命である。しかし追い方によっては後の人生に華を持つこともできれば、そのままただずっと死ぬまで生きているだけの人間となってしまう。本書では老いには社会的に二面性があるという。
「敬老」と「棄老」である。
これはなかなか興味深い。肉体と精神に関しての老衰はそれぞれ意見が分かれるが、しかし追い方によっては肉体・精神ともに老いる人もいれば、肉体は衰えていても精神的に老いない(逆に若返る)人もいる。要は行き方次第である。昨今は高齢社会と言われているが、年の取り方も勉強したいものである。ただ20代である私はもう少し遅くていいのかなと甘く考えてしまうが。
「病」
人が病に冒される時は必ずやってくる。その時の心情というのは私自身、病に罹り病院に入院した経験はないが、その時は人生について何か悟りが開けるかもしれないと考える。その中で「死」とは何なのか、「生」とは何なのかというのが、とりわけ「生」と「死」の狭間で如実に表れるのではないだろうか。
「死」
宗教における「死」というのはキリスト教と仏教で違う。
キリスト教は死んだあと「最後の審判」によって天国へ行くのか地獄へ行くのかが分かれるという。
仏教は厳密にはあまりよくわからないが「輪廻転生」によって「生」と「死」が繰り返し行われるという。
神道は死生観はそれほど伝えられていないが、地続きによって地上に残るものもいれば天上へ行くと考えられるが、新党はそれほど勉強していないので本当のところはあまりよくわからない。
死後の世界は宗教によって千差万別あり、本当に死後の世界がるのかと言うのは死んでからでないと分からない、のでここでは割愛させていただく。本書での死に方については「生」の所で書いたためここも割愛。
本書を読んで思ったのがこの高齢社会において誰もが永い「生」を望んでいるのかどうかが分からないのである。ここ最近の健康志向や医療の高度化により寿命は確実に長くなっているのは事実である。しかし本当の所これでいいのか、長生きすればそれでいいのかとも思ってしまう。イギリスで18世紀の文学作品においてジョナサン・スウィフトの「カリヴァー旅行記」の第3編において「ストラルドブラグ」という不死の人間のことを思い出す。「ストラルドブラグ」は不死ではあるが不老ではないため当然老衰にあい、法令により80歳になったら死んだとみなされ厄介者にされる。当然病気による死はまずないため「生」による苦しみがいつまでも続くとも言われている。そう考えると生き永らえることは果たして善いことだろうかという疑いを持つ。私自身は必ずしも善いことではないと主張する。人間には最適な人生があり、そしてそれに向かうために道を切り拓いて向かっていく動物であると私は思う。その目標や思いや夢がなくただ生きることは私は無駄としか言いようがない。それは空っぽの人生を「ただ生きる」という苦痛でしかないと私は思う。
「生」と「死」は隣り合わせである。しかしただ生きるのではなく、私はどうせ死ぬのであれば輝きを放ちながら死にたい。私の理想の死に方が「殉職」であるのもそこからきている。

入門組織行動論

入門 組織行動論 入門 組織行動論
開本 浩矢

中央経済社  2007-03
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「組織行動論の実学」によってこの組織行動論に目覚めたといってもいいかどうかは分からないが、リーダーであるべきことや組織にいる中でどのようなふるまいを行うべきか、組織とは何なのかについて学術的にみてみたいので本書を手に取った。
本書の構成は以下の通りである。

はしがき
第1章 組織行動論への招待
第2章 モチベーション
第3章 組織コミットメント
第4章 キャリア・マネジメント
第5章 組織市民行動
第6章 組織ストレス
第7章 チームマネジメント
第8章 リーダーシップ
第9章 コミュニケーション
第10章 組織文化
第11章 組織変革
第12章 組織的公正

この章建てから見る限り机上の空論ながら実践的なものも入っているような気がする。実際に本書を読んでほしい読者として大学生のほかにビジネスパーソンに読んでほしいと書かれているので一読の価値はあるかもしれない。今回もちょっと章建てが多いので自分が注目したところをかいつまむ程度にしておく。
第6章は「組織ストレス」だが、組織行動においてストレスはつきものであるが、ここではストレスについていくつか分類している。ストレスにもいくつか種類があり、「VDT症候群(コンピュータなどの機械仕事によって起こるストレス)」「テクノストレス(コンピュータと人間関係の崩壊によるストレス)」「バーンアウト(燃え尽き症候群)」「過労死」がある。そう考えるとシステム開発にかかわる業界はストレスと限りなく溜まりやすい立場になる。そこでストレスの発散の仕方については現状と課題程度しか取り上げられていないため書かれていなかった。しかし過労死について、英語による単語ななく「karoshi」と英語でも通じるほど日本独自の病だという。もっと学術的な話になるが日本人は勤勉の民族とも言われるが、それに利用しすぎたことによりこういった過労死が出始めたのか、それとも経済が世界的に追いつくためにはこれしかなかったのか原因や対策については経営層も考えなくてはならない深刻な問題となるだろう。
第8章「リーダーシップ」ではLewinらの研究によるリーダーシップの体系が書かれているそれによると「専制型」「民主型」「放任型」といった分類に分けられるようだ(本書ではもう一つ「変革型」についても書かれている)。ちなみにそれぞれ利点と欠点があり、どれがもっともいいリーダーなのかというとどちらとも言えない状況にある。例えばアップルのスティーブ・ジョブスは明らかに「専制型」であるし、多くの企業が採用している「民主型」「放任型」も然り。しかし現在の日本では「専制型」というのは悪と捉えがちになっているのかもしれない。実際に不祥事を起こした会社の半数近くは「専制型」によって事業が急成長を遂げたと言える。会社を急成長に導き業界でも名が知られるのが早いのが「専制型」の強みとも言える。しかしそのリスクはあまりにも大きくリーダー自身が権力にしがみつくことにより権力の腐敗が起こる。そうなると所々で軋みが目立ち、そして不祥事いう形となって社会的にバッシングを受けてしまう。「実学」でも書いたが権力はいったん持つと強いが、一変道を外れると急な坂から転ぶように凋落の一途をたどってしまう恐ろしいものである。権力は使い方もそうだが、譲り方、引き際についても学ばなくては権力の扱いに苦慮してしまうだろう。
組織とは何かについて勉強もでき、同時にどういったリーダーシップを築き、コミュニケーションを形成していったらいいのかなど、実践的に学ぶ一つの基礎として1冊あると結構心強いだろう。

F1 日本GP アロンソが復活の2連勝!! ワールドチャンピオン争いは熾烈を極める!!

結果は以下の通り(GPUpdate.netより)。なおペナルティのため22:45に修正。

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTime
1 F・アロンソ ルノー 1:30:21.892
2 R・クビサ BMW + 5.283
3 K・ライコネン フェラーリ + 6.400
4 N・ピケ・ジュニア ルノー + 20.570
5 J・トゥルーリ トヨタ + 23.767
6 S・ヴェッテル トロロッソ + 39.207
7 F・マッサ フェラーリ + 46.158
8 M・ウェーバー レッドブル + 50.811
9 N・ハイドフェルド BMW + 54.120
10 S・ボーデ トロロッソ + 59.085
11 N・ロズベルグ ウィリアムズ + 1:02.096
12 L・ハミルトン マクラーレン + 1:18.900
13 R・バリチェロ ホンダ + 1 laps
14 J・バトン ホンダ + 1 laps
15 中嶋 一貴 ウィリアムズ + 1 laps
Did not finish
16 G・フィジケラ フォースインディア + 46 laps
17 H・コヴァライネン マクラーレン + 51 laps
18 A・スーティル フォースインディア + 58 laps
19 T・グロック トヨタ + 60 laps
20 D・クルサード レッドブル + 67 laps

こちらもどうぞ(↓)。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081012-00000516-sanspo-moto

1コーナーの勝負が熾烈だったことに尽きると思いますが、それだけではなく前半の勝負が全体像であったかのような感じもしました。

それを制したクビサもしかり、そしてピット戦略で勝ったアロンソもしかり、見どころの多いレースでした。

そしてチャンピオン争いを演じているハミルトンは最初の1コーナーでライコネンとの接触によりドライブスルーペナルティ、マッサもハミルトンの接触によりドライブスルーペナルティ、さらに3回目のピットでのボーデとの接触による審議の対象もあって踏んだり蹴ったりのレースでした。しかし後半のマッサの追い上げには鬼気迫るものがありました。それで8位入賞ですからチャンピオンへの執念を見せつけたレースといったところでしょうか。

※ (22:45追記)ボーデに25秒加算ペナルティがあったためマッサは7位入賞となりました。そのためポイント差が5ポイントに縮まったそうです。

しかしチャンピオン争いといったらクビサも浮上してきたということを忘れてはなりません。ただトップとは12ポイント差と非常に不利な立場にあるようですが、昨年のことを考えるとどうなるかわからない。ハミルトン対マッサにクビサが入ってこれるのかというのにも注目が集まりそうです。

トヨタ勢はグロックがマシントラブルでリタイアしましたが、それを払拭するような形でトゥルーリが5位入賞と散々と言わせないような走りを見せてくれました。もう少し長ければネルシーニョを抜けただけに5位は不満という考えもありますが。

ホンダ勢はレースペースは不調でしたが、荒れたレースを見事走り切ったといってもいいでしょうか。それぞれ13・14位完走です。

中嶋は最初の1コーナーでクルサードとの接触が悔やまれます。それが影響してか結局目立たぬままの状態でした。15位完走はいいんですが、オーバーテイクとか見せてほしかったなぁという気がしてなりません。

チャンピオン争いといったらコンストラクターズも熾烈です。マクラーレンがコバライネンのリタイアとハミルトンの入賞圏外によりノーポイント。それに対してフェラーリはライコネンの3位表彰台によりフェラーリが逆転しました。ただ差は6ポイント。油断禁物です。

次戦は来週!!中国・上海!!!

F1 日本GP ハミルトンが今季6回目のPP!! そして優勝予想

結果は以下の通り(GPUpdate.netより)。

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTime
1 L・ハミルトン マクラーレン 1:18.404
2 K・ライコネン フェラーリ 1:18.644
3 H・コヴァライネン マクラーレン 1:18.821
4 F・アロンソ ルノー 1:18.852
5 F・マッサ フェラーリ 1:18.874
6 R・クビサ BMW 1:18.979
7 J・トゥルーリ トヨタ 1:19.026
8 T・グロック トヨタ 1:19.118
9 S・ヴェッテル トロロッソ 1:19.638
10 S・ボーデ トロロッソ 1:20.167
11 D・クルサード レッドブル 1:18.187
12 N・ピケ・ジュニア ルノー 1:18.274
13 M・ウェーバー レッドブル 1:18.354
14 中嶋 一貴 ウィリアムズ 1:18.594
15 N・ロズベルグ ウィリアムズ 1:18.672
16 N・ハイドフェルド BMW 1:18.835
17 R・バリチェロ ホンダ 1:18.882
18 J・バトン ホンダ 1:19.100
19 A・スーティル フォースインディア 1:19.163
20 G・フィジケラ フォースインディア 1:19.910

ハミルトンが今季6回目のPP獲得しました。

しかもライバルのマッサが5番手スタートという不利な立場となっている分有利かもしれません。ただ決勝は何か起こるかわからない。しかしこのドライコンディションの富士はタイム差がそれほど開かないところから考えるとマッサはいかにオーバーテイクショーを展開していくのかが勝負です。ホームストレートあたりが勝負所かと。

トヨタ勢はトゥルーリが7番手、グロックが8番手。必ずしもいい位置とは言えませんが、表彰台狙えるかどうかというのも考えなくてはなりません。しかし先頭にはマクラーレンとフェラーリ勢。非常に難しいかもしれませんが、荒れればどうなるかわかりません。

トロロッソの2台もQ3進出。ベッテルは昨年辛酸をなめている分、どのようなレース展開になるのかというのも見どころでしょう。

注目の中嶋は14番手。フリー走行の成績からしてあまりいい位置ではありません。決勝はドライコンディションとなる分オーバーテイクショーが難しいので、ポイント獲得が難しいものとなるでしょう。しかしめげずにポイント獲得に向けて、できたら表彰台獲得に向けて頑張ってもらいたいものです。

余談…中嶋が走るたびに実況(塩原氏)は中嶋(父)に一言ふるのはいかがなものかと。

ホンダ勢はQ1落ち。マシンのパフォーマンスが良かったらといいたいところですが、決勝での巻き返しに期待したいところです。

さて優勝予想。

本命:ハミルトン

対抗:ライコネン、コバライネン

要注意:マッサ、グロック、アロンソ

ドライコンディションと考えるとハミルトンがポール・トゥ・ウィンが堅いかと、そこでライコネンやマッサのフェラーリ勢が一発の速さで追いつけるかどうかがカギといったところ。グロックをここに入れたのはフリー走行の成績から8番手からのオーバーテイクショーで表彰台の可能性があるのではないかという考えからです。

1コーナーの勝負もそうですが、ホームストレート上でのオーバーテイクバトルが注目するところですね。

あとはタイヤ戦略といったところかもしれません。フェラーリやマクラーレンがどのような戦略を仕掛けてくるのだろうかというところも注目です。

F1 日本GP フリー走行3回目 クビサがトップタイム! 中嶋も5番手!!

結果は以下の通り(GPUpdate.netより)

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTimeLaps
1 R・クビサ BMW 1:25.087 19
2 T・グロック トヨタ 1:25.171 25
3 N・ピケ・ジュニア ルノー 1:25.415 19
4 N・ハイドフェルド BMW 1:25.474 24
5 中嶋 一貴 ウィリアムズ 1:25.056 23
6 D・クルサード レッドブル 1:25.614 20
7 F・マッサ フェラーリ 1:25.709 15
8 M・ウェーバー レッドブル 1:25.785 20
9 F・アロンソ ルノー 1:25.799 19
10 S・ヴェッテル トロロッソ 1:25.880 24
11 L・ハミルトン マクラーレン 1:25.901 8
12 S・ボーデ トロロッソ 1:25.984 22
13 J・トゥルーリ トヨタ 1:26.013 21
14 N・ロズベルグ ウィリアムズ 1:26.213 19
15 H・コヴァライネン マクラーレン 1:26.239 10
16 K・ライコネン フェラーリ 1:26.277 18
17 R・バリチェロ ホンダ 1:26.662 22
18 J・バトン ホンダ 1:26.922 26
19 A・スーティル フォースインディア 1:27.357 12
20 G・フィジケラ フォースインディア 1:27.918 17

ウェットコンディションの中で行われた3回目のフリー走行。クビサがトップタイム、中嶋が5番手でした。

予選はドライなのかウェットなのか…読めない状況になってきましたが、このフリー走行でこれだけの好タイムを出したと考えると今回の予選で何かしでかすかもしれません。

あと1時間足らずで予選です。それまでに準備しとかないと。

F1 日本GP フリー走行2回目 グロックがトップタイム そしてPP予想

結果は以下の通り(GPUpdate.netより)。

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTimeLaps
1 T・グロック トヨタ 1:18.383 44
2 F・アロンソ ルノー 1:18.426 41
3 L・ハミルトン マクラーレン 1:18.463 40
4 F・マッサ フェラーリ 1:18.491 40
5 K・ライコネン フェラーリ 1:18.725 39
6 M・ウェーバー レッドブル 1:18.734 39
7 中嶋 一貴 ウィリアムズ 1:18.734 36
8 S・ヴェッテル トロロッソ 1:18.761 23
9 H・コヴァライネン マクラーレン 1:18.803 32
10 J・トゥルーリ トヨタ 1:18.863 45
11 R・クビサ BMW 1:18.865 39
12 N・ピケ・ジュニア ルノー 1:18.888 43
13 N・ロズベルグ ウィリアムズ 1:18.981 41
14 S・ボーデ トロロッソ 1:19.040 41
15 R・バリチェロ ホンダ 1:19.258 42
16 A・スーティル フォースインディア 1:19.287 41
17 D・クルサード レッドブル 1:19.327 36
18 G・フィジケラ フォースインディア 1:19.482 44
19 N・ハイドフェルド BMW 1:19.894 37
20 J・バトン ホンダ 1:19.999 42

ホームサーキットであるトヨタ勢がやってくれました。グロックが速さを見せつけてくれました。やっぱり凄いです。明日はどんな予選を見せてくれるのか期待です。

そして中嶋は1回目に続き2回目もトップ10入り。2戦連続のQ3進出に期待。

さてPP予想。

本命:ハミルトン

対抗:マッサ、ライコネン

要注意:コバライネン、グロック、中嶋

こんなところでしょう。

F1 日本GP フリー走行1回目 ハミルトンがトップタイム、マッサが2番手

フリー走行1回目の結果は以下の通り(GPUpdate.netより)。

Pos.ドライバーコンストラクターズTyresTimeLaps
1 L・ハミルトン マクラーレン 1:18.910 23
2 F・マッサ フェラーリ 1:19.063 24
3 H・コヴァライネン マクラーレン 1:19.279 20
4 K・ライコネン フェラーリ 1:19.399 31
5 F・アロンソ ルノー 1:19.473 30
6 N・ピケ・ジュニア ルノー 1:19.743 35
7 S・ヴェッテル トロロッソ 1:20.121 30
8 R・クビサ BMW 1:20.160 26
9 S・ボーデ トロロッソ 1:20.182 34
10 中嶋 一貴 ウィリアムズ 1:20.217 25
11 A・スーティル フォースインディア 1:20.288 26
12 N・ロズベルグ ウィリアムズ 1:20.350 28
13 M・ウェーバー レッドブル 1:20.620 24
14 N・ハイドフェルド BMW 1:20.628 23
15 J・トゥルーリ トヨタ 1:20.657 33
16 R・バリチェロ ホンダ 1:20.753 32
17 J・バトン ホンダ 1:20.769 27
18 T・グロック トヨタ 1:20.823 37
19 D・クルサード レッドブル 1:20.905 24
20 G・フィジケラ フォースインディア 1:21.014 28

この日本GPでは前回も言ったとおりフリー走行もupします。ただ速報とまではいかないのでご了承ください。

さて始まりました日本GP。最初のフリー走行のトップはハミルトンでした。その後ろにマッサ、さらにコバライネン、ライコネンと続いています。

注目の日本勢は、中嶋が9位と健闘しています。

さて午後は2回目。どのようなフリー走行になるのでしょうか。

日本ナショナリズムの解読

日本ナショナリズムの解読 日本ナショナリズムの解読
子安 宣邦

白澤社  2007-03
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最近ネットではナショナリズムのようなことが叫ばれるが、そもそも日本のナショナリズムは一体何なのかというと確かに考えさせられる。もっと言うと「ナショナリズム」とは一体何なのかという問いにも行き着く。簡単にいえばナショナリズムは「民族主義」である。そういうと日本におけるナショナリズムというのは「日本人としてのアイデンティティを尊重し、他の民族性を排除する」という考えであるが。実際日本人の宗教性から考えると他を排除する風潮があるのだろうかという疑問がある。キリスト教やイスラム教は他の宗教を排除する考えを持つところが多いようだが日本は神道主義でそれ以外の宗教を排除するという考えはあまりない。
それを考えたうえで日本のナショナリズムを読み解こうというのが本書である。全部で10章からなるが全部紹介するとかなり長くなってしまうのでいくつか紹介するだけにしておく。
まずは第2章「「日本語(やまとことば)」の理念とその創出」である。まず飛び込んでくるのが2つの言葉であるがどれも本居宣長の作品である。短いものを1つだけ紹介する(本居宣長「新刻古事記之端文」より)。
「あやにかしこき遠皇祖之神(とうすめろぎのかみ)の御代の雅言」
古くから形成されそれが変容しながら今の日本語として進化を遂げたのだろう。日本語はまさに神から頂いた美しい言葉でありそれを何代にも変容しながらも受け継がれているという。本居宣長がこの日本語の語源について「古事記」の研究によって明らかにしているが、その後いくつかの諸説があるためそれが確証となるにはまだまだ時間がかかるだろう。
次に第6章「「日本民族」概念のアルケオロジー」である。
題目から出ているが「アルケオロジー」とは一体何なのか。「アルケー」と部分に分ければ少しは解るかもしれない。「アルケー」というのは哲学用語で「根源」を指す。したがってアルケオロジーは「根源になったもの」というのが私なりの推測である。実際にgoogle で探しても意味は見つからないので直接百科事典などで調べたほうがいいかもしれない。
「日本民族の根源」とは一体何なのかを考察しているのがこの章である。「日本民族」の概念ができたのはそれほど昔ではない。明治40年に創刊された雑誌「日本及日本人」によって日本人とは、日本とは一体何かというのが論じ始めてから日本民族としての学問が始まった。もっとさかのぼると1853年、ペリーが乗っていた黒船4隻が浦賀沖にやってきたときに日本の鎖国時代は終わった。それまでは日本人とは一体何なのかということを議論したり、論じたりする意義が見当たらなかった。世界に目を向けずとも国は栄え、民も生活できたのである。しかし欧米列強の足音が聞こえ始めたころから日本人は一体何なのかという議論が芽生え始めた。そして本格的に論じ始めたのが前述の雑誌の前身「日本人(明治21年創刊、わずか7年で廃刊)」本格的に議論されるようになった後は柳田國男の民俗学などにより、日本人が学術的に形成されていった。当然日本語論と共に1945年に本来の日本の文明が崩壊した。これからの日本人は一体どうあるべきか、そして日本はどうあるべきかについて再考しなくてはならないのと同時に、本書に書いてあるとおり「戦後ナショナリズムの批判的解読」も必要な課題である。

武士道の教科書

武士道の教科書 武士道の教科書
中村 彰彦

PHP研究所  2006-11-21
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「武士道」というと新渡戸稲造のことを思い出す。新渡戸稲造はこの武士道の英訳版をつくり世界中で武士道精神を教えた立役者である。それと同時に国際連盟の事務次長も務め、さらには台湾統治下では製糖の製造の指導を行い飛躍的に生産量を伸ばしたという。
本書はその武士道の解題的内容なのかと思ったらまず著者が会津藩第五代藩主の「松平容頌」であることからこれとは違う。本書は武士道というよりも「日新館童子訓」というものを解題するという1冊である。
これについて細かい解説をする。まず日新館についてだが享和三年(1803年)に庶民も通える子供たちのための藩校として建てられそこでは文学や礼儀作法のほかに兵学などの武道も教えられたという。その基礎的なものとなったのが「日新館童子訓」であるがこれは松平の命によってつくらせたものである。内容は全部で上下巻合わせて75話で構成されておりその中身は躾や仁徳に関してのことが書かれており童子たちの精神的なバイブルとなった。教育は半によって千差万別であるが、会津藩は教育に関して非常に熱心だったということがよくわかった。これにより武士の精神を学び「白虎隊」などのような血気盛んであり志をもった人たちができてきたきっかけとなったのではないだろうか。
新渡戸稲造の「武士道」とはまた違ったものが読めるので非常によかった。

脳の力こぶ―科学と文学による新「学問のすゝめ」

脳の力こぶ 科学と文学による新「学問のすゝめ」 脳の力こぶ 科学と文学による新「学問のすゝめ」
川島 隆太 藤原 智美

集英社  2006-05-26
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本書は藤原氏が川島氏に対して教育や脳に関することについて様々な質問を行い。それを川島氏が答えるというものである。内容は構成自体が学校の授業の如く、教育に関して脳にどのような影響がるのか、それだけではなくそれを取り巻く環境についてどのように影響を及ぼすのかについても言及している。
第1章「学ぶ脳」として1時間目から放課後まで、見事学校の時間割のように章だてられている。まずは1時間目の英語から。川島氏は早期の英語教育には反対とおっしゃっている。というのは最初に自国語を理解せずに国際化だ、国際化だという理由で英語教育に走るのは危険であるという。しかも川島氏は言語教育についてこう書かれている。
「人間にとって、言葉とは、単にコミュニケーションのツールにとどまるものではありません。道具である前に内面形成に密接に関係する、人間が生きていく根拠といってもいいものだと思います。(p.19より)」
私自身「言語はツール」と言っていただけにこの言葉はぐさりときた。そういえばここ最近の文献でも国語や歴史教育は思想教育と言っていた(「文明としての教育」にて)。つまり日本が古くから伝えられ、変容していった言葉を使わずして何が日本人なのかと。国際的になるよりも、外国人と話したいことよりもまず日本を学べ。日本人であることを学べ。国語や歴史の教育にはこの意味が秘められているに違いない。
次に3時間目「国語・算数・読み書き計算(その1)」。ここ最近でもないが学校では「テレビは1日数時間まで、ゲームはやるな」とか「何時間まで」と言った変な制約が出てくるようになった。それの端を発したのが森昭雄の「ゲーム脳の恐怖(以下「ゲーム脳」)」であり、事実PTAの推薦図書にまでなったという。ではなぜこれほどまでしてテレビやゲームを敬遠させたがるのか。実際この「ゲーム脳」はサンプリングや解明方法に欠陥があることが明らかになったが、いまだに「テレビ・ゲーム=悪、もしくは有害」というレッテルが貼られたままである。実際川島氏はゲームと脳の研究については消極的だったが、依頼されて研究した時に面白い結果が出たという。なんとゲームを行う時間やる種類によって微妙な差があるが活性化するものもあれば、活性化しないものがあるという。これは驚きかもしれないが、2003年にアメリカから出た論文であるがゲームをたくさんして育った人間は視覚情報処理能力に長けているというのである。このことからゲームやテレビは頭を悪くするというのは全くの見当違いであり、想像力が衰えるだろうという論調も退けられるだろう。ただここまで蔓延したのを変えるのは時間がかかるだろう。脳を活性化するゲームが出てきても未だに「ゲームは脳に悪い」もしくは「ゲームをやったら殺人率が増える」と言った嘘話をする人もいる。それを完全に払しょくできる日はいつになるだろうか。
そして最後に注目したのは1回目の休み時間。「ゆとり教育」と「詰め込み教育」に関してである。「ゆとり教育」は結局その本質が伝わらないまま失敗に終わり、授業時間数も増えることになった。では日本人にとって最良の教育とは一体何なのかというのも問われている。今は「フィンランド式教育」に視線が奪われがちだが、結局のところ今の日本の教育は「受動的」であり「やる気」が無いと言われているかも知れない。しかし「能動的」であり「やる気」を出させることこそ教師の仕事であるが、今となっては科目のことを教える機械みたいになっているとしか言いようがない。とはいえこれで教師のせいにするのはあまりにも短絡的すぎる。教師をそうさせた要因、これは日教組と文科省ではないのか。あまりに教育の理想を追求するあまりに教師を犠牲にしてまでアンケートなどの事務作業を強いらせている。もしもそういう負担が軽減すれば教師独自でもっと良い教育ができるのではないかと思う。実際に文科省や日教組の鶴の一声でそういう事務作業を軽減させることができるが果たしてやるのだろうか。
第2章は「育つ脳」であるがここは藤原氏と川島氏の対談であるが、学校や脳や心について書かれている。
「ゲーム脳」の理論を科学的に反駁しているところが魅力的であったのと同時に、脳的な観点から教育の在り方を見ているところが非常に面白かった。分野の違う2人が対談をするだけではなく、質疑応答形式で書かれていたところが、価値観の違いが感じられてよかった。教育に新たな風穴ができたのではないかとも思った。

日本人はこうして奴隷になった

日本人はこうして奴隷になった 日本人はこうして奴隷になった
林 秀彦

成甲書房  2008-03-15
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日本人は奴隷になったという。
私もそれに関しては否定できない。むしろ大東亜戦争の敗戦によりアメリカの少しの間の占領統治下の中で日本の文明は崩壊してしまったように思える。ある哲学者は言った「文明が2度崩壊すると、その国は滅びる」と。日本人は明白なものですでに1回は崩壊している。しかしもっと歴史をさかのぼればもう1回崩壊しているのがあるのかもしれない。もしもその崩壊が見つかったのであればすでに日本がなくなったといってもいいかもしれない。今の日本人には美徳が見られずもっと言うと「小市民主義」に陥っている。地域のコミュニティが薄弱化してしまい、仲間同士の集団意識が無駄に、そして過剰になっている。ついにはその日本に誇りを持たず日本人と呼ばない人まで出てきている。日本に生まれてこのありさまかとさえ思ってしまう。庶民に限ったことではない。政治の世界でも経済の世界でもである。
ではなぜこれほどまでに奴隷化してきたのか。本書は帰国して見てみた怒りのまま書かれている。今やアイデンティティ無き祖国を、今や無国籍状態となっている祖国を、今や進化を恐れている祖国を、そして美徳を失った祖国についてを。
日本人に忘れたことを著者は解っていたのかもしれない。しかし日本にいる限りわからない日本人独特の強さがある。しかし日本人にも学ばなければいけないところがある。日本が好きだから、祖国だからでこそこの怒りのラッパを書き上げたのだろう。
我々は本書のことを肝に銘じ、何を為すべきかを考えなければならない。
まずは「奴隷であることを気付かせること」。そこからでないと始まらない。

ネット時代10年後、新聞とテレビはこうなる

ネット時代 10年後、新聞とテレビはこうなる ネット時代 10年後、新聞とテレビはこうなる
藤原 治

朝日新聞社  2007-02
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インターネットが急速に普及しだしてすでに10年以上経つ。インターネットが急速に普及し、進化するとともに新聞の販売部数は減少し続け「新聞離れ」という現象が起き、テレビも視聴率が伸び悩み「テレビ離れ」を引き起こした。その中でインターネットは独自の強さを発揮しながら急激にアクセス数を伸ばしている。いつかテレビや新聞がインターネットに呑みこまれてしまうと危惧する人まで出てきた。本書はそういったメディアの変遷と今後の見通しについて書かれている。
まず第1部は「過去形としてのメディア」として新聞・テレビの「既存メディア」とインターネットとの違いと、新聞離れ・テレビ離れについて書かれている。まず飛び込んでくるのが「ある意味」大人気の朝日新聞である。実は朝日新聞は当初「官報」として出版していたそうだ。実際私もそこまでは知らなかったが、政治と大きくかかわっていただけに、政府に対しての悪口もうまいと言ったところ(しかも露骨)。さらにはほかの新聞氏への攻撃もなかなかなところが大人気になった模様。皮肉と悪口はここまでにしておいて、新聞やテレビの報道による記者クラブ等による報道の画一化によりメディアの独自性というのは国民にあまりよくわからなくなってしまった。もっと言うと在京キー局の政治的、経済的な過度の干渉によって内容自体がチープなものになってしまっている。しかも一方向となっていることによって違った情報を見たいという人は同じ情報しか見ることができないためどの新聞を読んでも同じようなことに陥っている。結局「新聞離れ」はインターネットによるものだけではなく上記の理由がその一因であるが未だにその反省はないようである。「テレビ離れ」は起こっているがこれは若年層を中心に発生しているが逆に年配の層ではテレビを見る機会が多くなっていることである。そのことの差し引きによって「テレビ離れ」は進んでいないというところであろう。しかし地デジが進むにつれてどんどんテレビが減るだろうと思うかもしれないが、今度はワンセグが普及しだすことによって気軽にテレビを見ることができるため「テレビ離れ」は起こらないのではないのかと考える。
第2部は「現在進行形のメディア」としてインターネットによって起こったメディアの変化と地デジによる影響である。ここでは現在起こっている新聞がインターネットで行っていることからどのようにして展開していくのか、テレビのネット配信についてが書かれている。まず新聞であるが髪を媒介としない新聞ができるのではないのかと本書では推測する。しかし新聞は新たな形としてデータで販売し、自らプリントアウトして新聞として読むという構想まで書かれている。新聞は絶えず進化する、もしくはしなくならないと思っているがこういう形での進化というのは非常に高いように思える。ただし製紙業界と新聞業界による癒着が無ければの話であるが。続いてテレビのネット配信である。これは以前もこっぴどく言ったが有料によるネット配信を総合的に行えと主張した。2005年現在であるが本書で在京キー局文の配信状況はある程度わかった。一応在京キー局はほとんど行っているようであるが、はたしてこれが浸透しているのだろうかという疑いは捨てきれない。むしろコンテンツはやっているがそれによるネット配信を行っているという宣伝が足りないのではないのかという考えさえする。はたまたは「有料」であることによりユーザーは見向きもしないのだろうか。これに関してはまだまだ様子見といったところである。
第3部は「未来完了形としてのメディア」で2011年以後の地デジ一本化以降のメディアについて推測している。2011年以降テレビの保有台数は減るのではないのかという文献もあるが確かにその通りかもしれない。しかし前述のとおり携帯電話のワンセグが急速に普及していることから地デジの普及によるテレビ離れは起こらないといってもいい。しかし「テレビのパソコン化」もしくは「パソコンのテレビ化」は起こるのはほぼ間違いないといってもいい。そう考えるとテレビとインターネットの生存競争はもうすでに始まっている。とは言ってもインターネットとテレビの融合というのは避けられない現実としてある。そしてその融合以後メディアはどのようになっているのかというと本著では「eプラットフォーム化」していると推測している。情報が容易にとることができ、その中で双方向に流れるという。つまりインターネットを媒介とした19世紀イギリスのコーヒーハウスのような現象が起こるとしている。またこれによって広告の在り方も変わるが、おそらくGoogle化と言って間違いないのかもしれない。

情報とメディアの倫理

情報とメディアの倫理 (シリーズ“人間論の21世紀的課題”) 情報とメディアの倫理 (シリーズ“人間論の21世紀的課題”)
渡部 明 大屋 雄裕 山口 意友 森口 一郎 長友 敬一

ナカニシヤ出版  2008-07
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情報媒体やメディアというのは絶えず進化している。しかしその中には倫理という大きなジレンマも存在するというのは周知の通りだが、そのメディアや情報における「倫理」というのは一体何なのか。それを本書が考察してくれている。
まず序章ではこの倫理の射程について書かれているが、まずここで整理したいのが「情報」「メディア」の定義についてである。
普段ニュースや読書などで取り入れるものは「情報」であるが、その情報の範囲も極めてあいまいである。その情報でも何を得たのかという量的な概念から成り立つこともあれば詳しい情報が手に入ったという質的な概念があるが、形式的には量的なところを情報であるととらえている。ただ情報の本当の概念はまだまだ混迷にあるため形式的なものにとどめておく(ちなみに本書でもここでとどめている)。
次に「メディア」である。メディアというと「新聞」「テレビ」「インターネット」が真っ先に思い浮かぶ(もっと言うと「雑誌」もそうだろう)。しかしこのメディアというのは情報伝達を行うためのあいたいとはっきり言うがそれをどのようにして伝えるのかはそれぞれ違う。最近出たメディアの「インターネット」は、新聞やテレビなどと違い双方向型である。そのためピンキリはあるもののお互いに議論をしつつ情報を得ることができる。しかしこの「メディア」という語源を考えてみるとラテン語で「中間の(medium)」という言葉から派生語である(pp.8〜9より)。情報に差が来ないように万遍なく媒介するのがメディアである。
漠然としたものであるが、実際にこの2つのことを的を絞って話す(書く)ということは非常に難しく、時代とともに意味合いが変わっていくだけに根本的な意味をなさないのではないかと私は思う。
さて第1部は「知識と倫理」である。まず1章は「知識の必要性」から始まり2章では「その知識に対する倫理の必要性」について考察している。
第2部は「データの倫理」であり、3章では「電子化社会とその原則」、4章では「電子化された社会と法制度」である。ここでは結構タイムリーなところもあるため重点的にみていく。前述のとおりインターネットの普及によってメディアは大きく変わっていった。新聞やテレビなどのメディアはほとんど単一方向(はがきによる投稿でようやく双方向になるが)であるが、インターネットは双方向の妨害になる条件がそろっておらずむしろ自分の得た情報を公開し、その中で討論することも可能になった。その意味では創作者や受容者という概念が失われたという悪い意味としてとらえられることもできる。さらにインターネット社会になるにつれて法の整備も急ピッチで進められており、法規制の強化は今も叫ばれている。当然ネットでも倫理というのは例外なく扱われるが、そもそも法規制によってよくなったのだろうか、倫理やリテラシーをどのようにして身につけさせたらいいのかという課題は山積している。
第3部は「メディアの倫理」であり、6章は「メディアと性」がある。
第4部は「ジャーナリズムと倫理」であり、7章は「ユビキタス社会と個人情報保護法」、8章は「マスコミと職能倫理」である。
今日の報道を見ると日本の新聞やTVのジャーナリズムに疑問を呈することが多い。それに「個人情報保護法」、もしくはその法律の過剰解釈によりジャーナリズムも揺らいでいる。しかしその個人情報保護法とジャーナリズムというのは別個として考えなければならないが、それと混同する人も少なくない。しかし混同してもいいというのであれば今のメディアスクラムや報道による風評被害は何なのかと問うてみたくなる。そこにメディアの倫理は成り立つのだろうか。そこに平等はあるのだろうか。
第5部は「情報通信革命と倫理」であり、9章は「情報通信革命と社会」、10章は「ネットワークセキュリティーと社会」である。
情報の発達とともに倫理というのは変わっていくのかもしれない。しかしその「倫理」の根幹は不変なものでありそれに変わっていくのはミクロの部分である。セキュリティーやリテラシーが叫ばれているが果たして今の状況で叫んでも効果はあるのだろうか。そして真のセキュリティーとは、リテラシーとはということも考えなくてはいけない。過剰に反応しすぎると進化は止まり、進化を重視しすぎるとリテラシーは崩壊する。
「倫理と進化」
情報に限らずこれの両立は永遠の課題と言えよう。

団地が死んでいく

団地が死んでいく (平凡社新書) 団地が死んでいく (平凡社新書)
大山 眞人

平凡社  2008-04
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高度経済成長期に多くの団地ができた。しかし経済の飽和化によって団地はなくなりはじめやがて団地でつくられたコミュニティ精神も薄弱化しつつある現在、団地再生のカギはどこにあるのかについて書かれているのが本書である。
そもそもなぜ団地がつくられたのかというと戦後間もない時に住まいが確保できないことから比較的安い家賃で入居できること、そして公営であるためつぶれる心配はほとんどないという所から団地に入居したいという人が殺到した。その重要により高度経済成長期、及びバブルの時には公営住宅が乱立していった。しかし経済が減速し始めたころ団地にはかつてのような盛況がなくむしろ入居者も減速し、誰もいない公営住宅も見られるようになった。
公営住宅にはコミュニティの育成もさることながら孤独死になる老人が減るという効果もあった。そう考えると今老人の孤独死が増えている原因は前述のとおりのコミュニティ精神の薄弱化が要因に挙げられる。もっと言うと暴走老人の増加もまた然り。
衰退の一途をたどっている団地ではあるがただでは転ばないのが団地というすごさ。ありとあらゆる手法で再生し、「驚きの施設」とまで言うほどの団地もある。その団地には家族用、独身者用、店舗用などに分けられているだけに飽き足らずその中に娯楽室や児童遊園、集会所、浴場まで完備しているという。様々な工夫を凝らしているようである。さらに「老人の孤独死を守れ」キャンペーンや工夫なども凝らしており、日本人の半数は集合住宅に住んでいることでもはや他人事ではなくなった。これからは団地という概念だけではなく集合住宅でどのように協力していけばいいのかも考えるべきである。

文明としての教育

文明としての教育 (新潮新書) 文明としての教育 (新潮新書)
山崎 正和

新潮社  2007-12
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文明とともに教育あり。本書はそのことが書かれている。本書の右おり部分には
「国語教育こそ「愛国教育」である」
と書かれている。まさにその通りである。国語というのは日本の文学を触れながらそのときの時代背景や評論に関して理解を深めるための科目である。それとともにその作品について討論や作文を通して批評していくのも国語教育の根幹の1つである。しかし今の国語教育は果たして文学の楽しさを教えているのだろうかというところが疑わしい。自分自身の体験では小学校は討論や作文が頻繁に行われていたため今考えると非常に有意義であったし、今討論力や文章力に欠けがちの日本人にとってこういう教育こそ必要なのではないかと思う。そういう考えから小学校の時の先生には非常に感謝している。それはさておき、中学校と高校の授業はそういった討論や作文に関することはほとんどなく、作品に関する読解や考察ばかりで作品の楽しさ以前に読解力先行の教育であったように思えてならない。さらに古典も子分を現代文に訳せという問題や宿題が課されていたためかあまり楽しめなかった。実際文学作品や古典に関して本当に楽しいと思ったのは大学に入ってからの話である。その時はテストの概念もなくただただ古典を読んでどう思ったのかというのを感じ取れた。実際大学4年になってからはそれを記憶をとどめるために書評を始めたくらいであるから、今は活字に対してなんら抵抗もなく、むしろ依存症や中毒のようになったのは言うまでもない。
本書は東西の教育史を検証しながら文明と教育のかかわりについて考察するとともに日本本来の教育とは何なのかを解き明かしていくという1冊である。
まず第2章はソクラテスとプラトンについて書かれていたがまずソクラテスによる理想の教育とはこう主張している(p.31より)
「教育とは人びとに無知であることを自覚させる援助だ」
まさに「無知の知」を植えつけるための教育としている。そのうえで本当の教養とは一体何なのかを身につけるのが本来の教育者の役割だとソクラテスは主張している。要するに固定観念を捨て何もない真っ白な状態にさせて知力を身につける。ソクラテスは対話によってそれを行ってきたのである。そしてそのソクラテスの弟子であるプラトンは「読むこと・書くこと・算術」が教育のもっとも基礎となる教科と定義している。しかしよく見ていただきたいのがこの3つである。実は日本でも「読み・書き・そろばん」というのを聞いたことのある人もいるが、そのルーツがまさかギリシャにあるとは私でさえも思わなかった。
第5章では日本の教育の歴史についてであるが、ここでは鎌倉・室町から江戸時代にかけての教育についてである。まず安土桃山時代にはキリシタンの宣教師が日本に上陸したときに日本の好奇心の強さ、知的水準の高さ、それよりもかなり論理的であったことに驚いたという。日本人は論理力がないということを歴史的に語る人もいるがこれを聞いたらおそらくその論理も崩壊するのではないかと思った。さらにキリスト教は日本人はそれほど伝来していなかったのは言うまでもなかったがこれは神の在り方について日本人と西洋人との差異があったのだろう。そしてもう一つは日本人には「反知性主義」がないところにある。「反知性主義」とは宗教や財政・階級的なことによっての対立からそこから知性を得ることを嫌う考えである。しかし日本は全くないわけではなかった。1960年代に起こった安保闘争と授業料の値上げで起こった大学紛争ではこのことが起こったのではないだろうか。
第7章では教育の在り方についてである。昨今では「ゆとり教育」や「詰め込み教育」と叫ばれているがではこれが本当の教育であるのかというところが疑わしくなる。本書ではサービスとしての教育なのか、国家政策としての教育なのかの定義であるが、私が目についたのはむしろ教育とは選ぶものなのか、強制されるものなのかという所である。しつけは学校で行うモノと言ったいかにも的外れ、もしくは無責任な親が増えているが、もともとしつけは親など家庭や地域ぐるみで行わなければならない。そしてその礼儀作法などを学ぶのは決して学校だけではなく自ら動いて部活や塾に参加し、身につけるということが本当のしつけや礼儀を身につける家庭教育ではなかろうか。
そして最後は第8章「国語、道徳、歴史」である。歴史というと教科書問題が話題となっており、事あるごとに韓国や中国の抗議を行うが、それに屈してはいけない。歴史や国語というのは日本が育ててきた伝統をそのまま学ぶわけである。それが外国の軋轢により変わってしまえばそれだけ日本人としてのアイデンティティが失われることになる。最も最初に書いてあった「国語教育こそ「愛国教育」である」はそこから根源になっている。国語も歴史も思想教育には違いない。真の日本人となる教育だからでこそ国語や歴史が存在するのだから。

ビジネススクールで身につける変革力とリーダーシップ

ビジネススクールで身につける変革力とリーダーシップ (日経ビジネス人文庫―ポケットMBA (ふ2-3)) ビジネススクールで身につける変革力とリーダーシップ (日経ビジネス人文庫―ポケットMBA (ふ2-3))
船川 淳志

日本経済新聞社  2006-04
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最近巷では「リーダーシップ」や「変革力」というのがよく言われている。しかしこのリーダーシップ、そして変革力とは一体何なのか。どのようにして育むべきなのかというのが見えてこなかった。本書はそういうところは一体何なのかということを教えるのと同時にビジネススクールの良さについて書かれている。
とりわけ注目すべきなのは第4章「変革力の本質」と第5章「変革リーダーのマインドセットとスキルセット」である。
第4章「変革力の本質」は変革には痛みを伴うと著者は主張している。小泉政権下で「痛みなくして改革なし」ということが頭に浮かんだ。しかし痛みと喜びに関することで痛みを伴う変革として挙げられるのが規模の縮小と大規模なリストラであるが、そう考えると非常に短絡的思考に陥るのではないのかとも思えてならない。むしろ社員の人数や企業規模の縮小といったマクロ的観点よりも社員のボーナスや給与削減といったミクロ的な観点もあるのではと著者に問い質したくなる。
第5章はリーダーシップであるが、ここで問うべきものはリーダーとマネージャーについてである。リーダーとは先の変化に順応し、それを見据えたうえで計画を立て組織をまとめていくという立場であり、変革性を重視している。一方マネージャーは組織の調整など未来というよりも現在の所を調整する立場にある。その意味では組織性を大事にしている。これが両方成していくと最強になるわけであるが、これが非常に難しい。そもそも変革性というのは第4章で述べたが、では先を読むことはどのようにして読むのだろうかという考えが出てくる。これは業界や仕事内容など個々的な観点で千差万別であるが、本書では対人スキル、専門スキル、そしてコンセプチュアルスキルである。最後のコンセプチュアルスキルは組織全体の機能などを見抜くスキルなので組織に対する順応や嗅覚というべきだろうか。対人スキルはコミュニケーション能力のことを問われているようだがここで言うコミュニケーションは組織の中でいかに教えていくのかという力、外部環境に順応できるように組織への目配りができる力などがあげられるだろう。もう一つにはマインドセットとスキルセットがあるが、自分自身が考えるビジョンとそれに関係するスキルを相乗関係でプラスに持っていかせることを指す。ここではジャック・ウェルチ、パーシー・バーネビック、そしてカルロス・ゴーンの3人について検証している。
本書を読んで考えさせられたのは自分でリーダーシップを育てる難しさである。当然組織の中でリーダーシップを発揮されなければ組織として成り立たない。とはいえそのリーダーシップをどのようにしてつけていけばいいのかというのを考えると非常に多いように思えた。しかし一朝一夕。ひとつひとつのスキルを身につけ、そして徐々にリーダーシップを育ませる。それが一つの手ではないだろうか。

非常識力

非常識力 非常識力
中村 文昭

PHP研究所  2007-06-16
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題名からして惹かれた。
本書はビジネス書というより、啓蒙書というよりも、まず読んでみたほうがいいかもしれない。まず少し開いたところで著者のパワーを感じた。
「アホになってみよう」
これが本書のもっとも言いたい所であると私は思う。アホだからでこそ非常識になれるという。これは見事といってもいい。
ちょっとここで弊害が無いように言いたいのだが「アホ」のとらえ方は東京の人と大阪の人とで違う。東京の人ではアホというのはマイナスとして捉えがちだが、大阪の人は逆にプラスにとらえる。それはさておき本書では農業のビジネスを立ち上げた者たちの物語であり、これから社会で生きていく人たちへの激励書といったところだろうか。
まず第1章は日本の若者たちへの檄である。自分を肯定し、評価や点数にとらわれることなく、何事も「ネタ」として楽観的にとらえる。確かに我々若者はそういった人はそうそう見かけない。日本の政治や経済に関するニュースを見るそのことで日本を憂い、自分の評価が気にすることから自分への自己嫌悪がある。しかしそれを払拭しなければ前に進むことができない。技術的なことは様々な本から吸収し血肉となっていけばいいが、それ以前に「自分何でもできる」といったいかにもバカなような心構えが非常に大事である。そういった自己暗示こそがこれから自分を成長するための糧となる。
第2章は心の豊かさと笑顔についてである。日本は高度経済成長によりものは非常に豊かになった。しかし心の豊かさは置き去りにされたままであった。その高度経済成長に残った影がいま日本中にはびこっている。心の貧しさである。実際自然に笑顔が出るところというのはそうそうないようにも思える。それに引き換え本書にも書かれているがカンボジアではものはそれほど豊かではない。むしろ心が非常に豊かであり、どんなことでも自然の笑いが出ている。さらにダイエットブームにも世界中から見たら懐疑的であるという。それもそのはずである。満足いくまで食べられない国もたくさんある。そう考えると飽食化している日本はどうなのかとも言いたくなる。そしてこれが書かれていた。
「人は、少しの幸せだけでいい(p.66)」
その通りである。しかし幸せを大きく求めるあまりに権力などによる柵が生れ、自分を見失ってしまう。当然それ以前にもっと大切なことがあるのにもかかわらずそれに気づかず、結局自分は不幸な人間と思いこみ自己嫌悪に陥る。たった一つだけでもいい。自分の中にあるかすかな幸せを理解してそれを宝にしてほしい。私自身もそうしたい。
第3章は「ニートや引きこもりが地球を救う」という題名。麻生首相が本の中で「ニートは捨てたもんじゃない」とも言っていたが、もしかしたらこれが起因しているのではないのかとも考えられる。彼らを農業をさせればもっと日本は良くなるのではないかという発想である。実際北海道には休耕地が非常に多い。その中で農業などができれば自分自身が見えてくる。哲学的に難しく言うと植物の「生」と「死」を見出すことにより自分が生きている、ここにいる歓びを知ることができるいい機会ではないかと私は思う。北海道は農業大国ではあるがまだまだ成長するきっかけがほしいところ。その中で著者が提唱する「耕せ!にっぽん!」はこれから起こるであろう食糧危機や農業問題を一手に解決できるカンフル剤にもなる。さらに忘れ去られた「瑞穂の国、日本」を復活させるきっかけも作れる
第4章は「実行力について」、第5章は「若者へのメッセージ」である。
第5章では著者自身、「お節介な大人」として見回りしてはたむろしたりたばこを吸っている高校生らに注意しているという。近年そういったお節介な大人というのが減っているように思えてならない。最近では、注意することに逆ギレして殺人事件にまで発展したということが起こっていることで大人たちは若者を恐れてしまっているのだろうか。そしてこのような若者を育てた大人はどんな態度でものを見ているのだろうか。そしてそのような社会になった責任はどこにあるのだろうかと突き詰めていってしまう。しかし過ぎてしまったことは仕様がない。これからを見出さないといけない。そのためには若者の世代から変えていこうと言わなければならない。若者には未来がある。その未来を切り開こうではないか。

司馬遼太郎と東京裁判―司馬歴史に潜む「あるイデオロギー」

司馬遼太郎と東京裁判―司馬歴史に潜む「あるイデオロギー」 司馬遼太郎と東京裁判―司馬歴史に潜む「あるイデオロギー」
福井 雄三

主婦の友インフォス情報社  2006-07-01
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司馬史観というと、司馬遼太郎独自の歴史観であったがそれ自体が一部支配されている。戦争は正義であったが敗戦後はその戦争自体を悪と決め付けるような一般国民の風潮と全く同じである。
まず第一章は「東京裁判に呪縛されていた「司馬史観」の軌跡」である。
司馬史観は戦後の自虐史観の呪縛を解いてくれたというが私自身そうとは思わない。城山三郎の「落日燃ゆ」という小説があったのだが広田弘毅に関してこれほど歪曲されて書かれた本はないと思っている(実際あの本も広田は悲劇の人物だと言っているが、これ自体はその通りであるが)。そもそも東京裁判はかねてから「ニュルンベルク裁判」に倣って行われたが、それ通りにやってしまうとまず独裁体制なのかというとそうではなかった。過去に起こった事件の体制から見てしても内閣が全く違っており、ましてや東条英機は昭和15年に陸軍大臣を務めるまでは一切政治にかかわったことがない。東条は首相を狙っていたのかという考えの人もいるが東条自身政治への興味は一切なかった。その証拠に東条は政治のことについて「水商売の教育は一切受けていない!」といっていた。東条は政治を水商売と喩えていた。それはさておき本書では東京裁判のことを「茶番」と書かれていたが、これについてはA級戦犯で起訴された唯一の民間人であり、思想家の大川周明を思い出す。東京裁判開廷初日の時に大川はパジャマと下駄履き姿で奇行を繰り返し、しまいには東条英機の後ろ頭を「ぴっちゃん」と叩いて精神異常が認められ退廷させられた。退廷の時に言った言葉の一つとして「これは茶番だ!みんな引き上げろ!!」がある。茶番だということは何人かはわかっていたがこれを口に出したのは大川一人だけではなかろうか。
第二章は「司馬遼太郎氏の作品にみる「司馬史観」の誕生と形成」である。
司馬遼太郎の作品を批判しているが、そもそも司馬遼太郎は「国盗り物語」や「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」など歴史的な資料をふんだんに使いながらも独特の語り口で人気を集めている。著者はこの戦前の史観と幕末史観を混同してしまっていること、そしてこういうようなつぶやきを唱えているのであったという。
「幕末のころから日本の社会に巣くっていた、宗教的な狂信とでもいうべき攘夷思想が、昭和になってから息をふきかえし、無知な軍人の頭脳を妄想に駆り立て、ついに大東亜戦争をひきおこして、数百万の国民を死に追いやった(p.63より)」
司馬遼太郎は軍人は無知だと言ったが、これについては半分その通りだが半分はそうではないと私は思う。当然単純に行動した軍人もいるが、しかし中には頭も鋭い軍人もあった。とはいえ世界的に理解する知識がある人は一つまみしかいなかった。大東亜戦争の時は日本がけしかけたわけではなく、東条や武藤章は必死になって戦争回避工作をしていた(実際東条自身は強硬な開戦論者だがそれよりも天皇陛下は開戦を回避したがっていた。周知の通りだが東条は天皇の意見を自分の意見よりも尊重したため、その行動に至ったのである)。しかしハル・ノートを突きつけられたことによりやむなく開戦に至った。それによって駆り立てて戦争を引き起こしたというのは考えられないと私は思う。日中戦争もまた同じである。
第三章は「東京裁判が今もなお醸成する「閉ざされた言語空間」」である。
まず前半は著者自身が体験した激論について書かれているが、そういった言論ファシズムなどによる自虐史観の刷り込みがまかり通っているのか。しかもメディアはそういったことを否定、もしくは日本=「悪」としてまるで売国の輩の如く伝聞している。それで日中韓が平等な歴史観を持つことができるだろうかというのが疑いをもってしまう。それ以前に歩み寄るということは外交的にも「負け」を意味するものであることを日本の外務省は解っているのだろうか。日本精神は戦後失われてしまった、と思っていた。しかし阪神淡路大震災の時に日本人が自国民同士との暴動しなかったことが本書で挙げられている。確かにその通りかもしれない。いざという時にはそういった精神が残っていることを証明された瞬間であったのかもしれない。それと同時に北朝鮮による拉致問題も国民が怒りの声を上げなければこれほどまでの問題になっていなかったのだろう。それを考えると日本はまだまだ捨てたものではない。むしろそういった感情を表に出して、こういった自虐史観を脱して立ち上がることが大切だろう。
第四章は「東京裁判史観とは正反対の戦前のアジア情勢と国際世論」である。
これについては白人が見た戦前のことについて第二次世界大戦がはじまる前後に書かれた雑誌を抜粋しながら説明している。それによると日本人の本来の姿というものが高く評価されている。一部の論客や大多数のマスコミは日本の全然の時代精神を悪に塗りつぶそうとしている。当然中国や韓国も侵略したと歪曲して喧伝している。果たしてそれが真実なのか。当事者同士の歪曲喧伝によるものではないだろうか。むしろ当時第三者であった国々の報道が非常に冷静であるからでこそ日本の良さが伝えられた。その日本がなぜこういった自虐史観に埋没していったのか。それは中国やアメリカなどの情報戦略に嵌った以外に考えられない。もっと冷静に資料を突きつめれば自虐史観から脱却することは十分に可能である。
最後は東谷暁氏との対談であるが今回は割愛させていただく。
自虐史観を完全に払拭することはやるとなると非常に時間がかかるだろう。恐らく10年・20年、もしくはそれ以上の時間を要するだろう。それだけ数多くの諸説や証拠がそろっているだけにそれに関する批判や論破というのは生半可なものではない。それだけではなく本当に正しい歴史観を若者に与えることも必要である。その理由からこういった長いスパンが必要であると私は考える。歴史を捏造することは容易ではあるように見えるが、必ず真実がそれを裁くだろう。しかしそうなるにはまだ時間がかかるのである。そして真の日本人像についても問われる時が来るだろう。

暴かれた[闇の支配者]の正体

暴かれた[闇の支配者]の正体 暴かれた[闇の支配者]の正体
ベンジャミン・フルフォード

扶桑社  2007-04-28
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本書は世にも恐ろしい「闇の権力」について暴いている1冊である。その「闇の権力」とはアメリカの「ある」勢力と書かれているが、おそらくハゲタカファンドであったり、もしくはマフィアであったりと想像できるかもしれないが、実態は私も謎である。しかしアメリカの政治の中枢と関わりあいをもっている可能性は非常に高いだろう。しかし少し読んでみると、
「暴力舞台を背後で操るアメリカの特定勢力のことを、便宜上“闇の権力”と呼んでいる(p.9より)」
と書かれていた。そうなるとアメリカマフィアの可能性がますます高まってくる。しかしアメリカにはそういった暴力系の団体も多い。しかももっとひどいことに日本の暴力団のような「仁義」や「侠気」がなく、本当に企業や政府を食い物にして荒稼ぎをしている。
まず第1章では郵政民営化についてスポットを当てている。郵政民営化と言えば今年(?)の総選挙にて政界引退が決まった小泉元首相の政権下で行われた改革である。ちなみに小泉氏が厚生大臣だった時代でもそのことをしきりに言っているとするならば、昔からそういうことについての理念をもっていたのだろうか、著者の言うようなアメリカのいいなりに屈したのだろうか、真相は謎である。
1・2章の間には経済学者で、2度の痴漢容疑に掛けられている植草一秀に著者とのインタビューであるが、これも陰謀説ではないのかという両者の意見であるが、では植草氏はなぜこのような目にあったのだろうか。植草氏は時の小泉政権、竹中経産相の構造改革を批判していた。その人がなぜ捕まるほどの陰謀を手にしたのだろうか。痴漢事件や手鏡事件に関しての捜査にも疑いを向けられている。痴漢事件は確かに悪いことであるがその痴漢事件を悪用して示談金など多額の金を要求するという手口も存在する。実際それによる事件が明るみに出たのはわずかしかなく、それも摘発するキャンペーンも行ったほうがいいと私は思う。
第2章はメディアと政治家であるがまず目に飛び込んでくるのが「9・11」である。9・11の事件の後アメリカのブッシュ大統領が「テロとの戦い」をしきりに主張。それが日本のメディアにも多く流れ、当時の小泉首相もそれに同調する発言を行ったことで話題となった。私自身これについては疑いなく見ていた身分だったので真相はあまりよくわからなかったが、対日工作が行われていたのならばアメリカに関することほぼすべてに洗脳されているのではないかという疑いさえ感じてしまう。この章では著者自身も恐怖体験をしておりとあるアメリカ人に付け回されていたことが明らかになった。著者自身は今も無事だがいつ謀殺されるのか分からない身であるという。「言論の自由」と言われているが、見えないところによる「言論の封殺」がここまで押し寄せられているのかと驚愕したのと同時に「言論の自由」とは一体どこまでが線引きなのだろうかということも考えさせられる章であった。
第3章はアメリカや日本だけではなく世界を牛耳る構図のことについて書かれている。アメリカは第2次世界大戦後数多くの戦争を起こしておりその中で「正義」や「民主化」のための大義名分を唱えてきた。しかし先のイラク戦争でもアメリカの石油会社との絡みも見られているように、大概諸国が自分の思い通りにうまくいかないことへのいらだち、そして気に入らない国への略奪といったような感じがしてならない。
第4章はそんな日本に対して檄を飛ばしているかと思ったらちょっと違っていた。9・11のねつ造説から始まり、それによるパール・ハーバーの再来と言うようなことまで書かれていたが、日本に対しては5兆ドルを世界のために使えということでしか書かれておらず、肩透かしを食らったような感じがしてならなかった。では具体的に日本はどう立ちあがっていけばいいのかというのが書かれていなかったところが残念であった。

ナンバー2が会社をダメにする

ナンバー2が会社をダメにする (PHP新書 547) ナンバー2が会社をダメにする (PHP新書 547)
岡本 浩一

PHP研究所  2008-09-13
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ナンバー2という役割について何なのかという所から見ていかないといけない。ナンバー1というと当然社長や会長やCEOといった元締め的存在であるため、それに従いながら現場において管理的な役割を持つのがナンバー2ではないだろうか。
さて第1章では企業不祥事についての意思決定能力と企業風土の在り方そして懐疑の姿について書かれている。第2章はホロコーストを例にとった権威主義の暴走、第3章は職場の権威主義、第4・5章は「組織風土」「属人風土」に関してである。
ナンバー2も例外なく権威の中枢にいるためそれにおぼれる人も少なくない。それについては「組織行動論の実学」でも書いているがいったん権威に酔いしれてしまうと自分を見失ってしまう、さらには急激な凋落の一途をたどる転換点となりかねない。そして左翼思想に入ってしまうという傾向がある。これは本書で初めて知ったがこれは非常に強く共感できる。現在の日本のメディアというのは国交相を辞任した中山氏の「日教組」発言をあげつらって非難をしている。もっと言うと森元首相の「神の国発言」に関しても非難をする。要するに「言葉狩り」の現象が起こっている。当然メディアも政治の取材なども幹部の軋轢もあるように思えてならない。もっと言うとCM等の広告料のためにスポンサー寄りの発言なども目立つようになっている。実際TVも権威の温床になっているということは事実として挙げられる。
「属人主義」の問題点についても明らかにしている。権威の範囲が広ければ広いほど下の労働者に対する扱いなどの管理体制が杜撰になりやすい。ではそれをどのようにして防止していくのかという考えが出てくる。それによって1回不祥事が起これば犯人捜し、責任転嫁。交渉事には何事にも「イエス」で終わらせるといったデメリットがあげられる。
ではナンバー2として何を為すべきかというと「本を読み、自己鍛錬に臨むということが大切である」と著者は主張している。何事にもよく勉学を重ね、独自の意見・見解を持ちビジョンを明確にする。読書においてもベストセラーなどの本よりも一つの専門分野よりも、まんべんなく本を読むことを著者は進めている。確かに今の経営者は多読を実践している。それによって自分の価値観を見出すことによって権威主義の甘い罠から脱却をすることができるという。

読書進化論~ちょっと言い忘れてしまった~

読書進化論‾人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか‾ (小学館101新書) 読書進化論‾人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか‾ (小学館101新書)
勝間 和代

小学館  2008-10-01
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昨日投稿した読書進化論だが、ひとつだけ言い忘れたことがあった。
第3章「「書く」人も進化する」で書評のスタンスについて書いたが、ここで紹介するものを忘れていた。書評といったらこんな記事もあったので紹介したい。

論座 2008年4月号  [雑誌] 論座 2008年4月号 [雑誌]
販売元:セブンアンドワイ ヤフー店
セブンアンドワイ ヤフー店で詳細を確認する

タイトルにも書かれているとおり海外の書評に関することについて書かれていた。実際日本には書評の文化が根付いていないと本誌で嘆いている。その理由として日本人には「散文」という文化がないというのが一因とされている。

アメリカやヨーロッパ各国ではこういった書評というのはごくごく当たり前に扱われているが、実際の感覚として諸表は議論の場であり、かつコラムであるという。

そうなると今の書評ブログは実践論や本に関することについ手が結構多く、そこから時事論について書いたりするのはむしろ重宝される存在なのかもしれない。

私自身、本を選ぶ基準は適当であるが、実際ニュースにまつわる本も選ぶ時もある。当然その諸表はその時のニュースを織り交ぜながら書いてみてこうなのかという気付きも得られる。むしろそういう書評を通して議論ということもある意味楽しいかもしれないし、散文の良さを明らかにするのもい一興かもしれない。

情報社会論―超効率主義社会の構図

情報社会論―超効率主義社会の構図 情報社会論―超効率主義社会の構図
加納 寛子

北大路書房  2007-03
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「情報社会論」というだけに、ホットな話題についての考察がよかったように思える。それだけではなく情報社会に関することは非常に多岐にわたるが余すところなく考察されているところ、それでいて時点のように分厚くなくそれでいて的を射ている内容だったという所には称賛に値する1冊である。
第1章は「情報社会の進展に伴う社会構造の変化」であるがニート・フリーターに関する問題についての終焉について取り上げられていたがまず平成不況末期による就職超氷河期によって若年者無業者率について、軒並み増えている。しかし15〜24歳の範囲では横ばいに増加・減少をしているがとりわけ「団塊ジュニア」と呼ばれる25〜34歳では2000年以降増加の一途をたどっている。このような問題は本書ではここしか取り上げられていなかった。とりわけ問われたのは経済格差と情報格差についての考察なのであるが経済格差と情報格差についての相関図があるが本書では正の相関に近いように思えた。つまり情報格差と経済格差というのは無関係というわけではないようである。
第2章は「情報社会の進展に伴う社会構造の危機」とあるがここではサイバー犯罪に関することが大半を占めていた。現にサイバー犯罪というのは大きく分けて「不正アクセス禁止法違反」「コンピュータ・電磁的記録対象犯罪」「ネットワーク利用犯罪」など大きく分けて3つ分けると、「不正アクセス禁止法違反」と「ネットワーク利用犯罪」の検挙数が顕著に増えていた。しかしコンピュータでの犯罪はこれだけではあるが、ほかにもインターネット等を利用しての犯罪(覚せい剤や売春等)も増加していることにも目を向けなければならない。さらにはWinnyを利用しての情報流出も深刻な社会問題と化している。現在これの対策のための法律も整備されているが不正アクセスなどどこが発生源なのか分からないところまで及んでいるため検挙率が低いのではないのかと推測する。もしこれが事実であったとしても対策は非常に困難であり例えばネットカフェで不正アクセスの犯罪をやったとすると犯人は容易に逃げ出すことも可能である。もっと言うと不正アクセスを未然に防止をすることを行ったとしても結局その針に糸を通すような感じでまた発生するというイタチごっことなる。とはいえこれに関してネットカフェをはじめとしたインターネットが自由に使える施設向けの対策を施したほうがいいというのが無難だろう。
第3章はWebコンテンツであるが、Web2.0がすでに定着している中今度はWeb3.0が入るのではという情報も入ってきた。これについてはいくつか出ているのでそれを読んだ時に感想を言うことにするが、Webコンテンツの進化というのはドッグイヤーの如く非常に速いスピードで進化している。特に今のWebコンテンツの進化はユーザーの視点が非常に強く反映されている。そのためか著作権問題にまつわる軋轢が絶えないというのが事実である。しかしそれについて追いつけるような法律をつくったほうがいいと言っていたが、これに関する議論をしている間に新しいコンテンツが生まれている。なのでいくら法律が追いついたとしてもすぐに新しいコンテンツが生まれるため法改正の観点からしても難しいことがよくわかる。法改正自体は難しいものの法解釈による柔軟な対応がユーザー側及び権利者側双方の歩み寄りが求められるのではないだろうか。
最後の第4章はコンテンツビジネスであるが現在日本においてリードしている産業の1つとしてコンテンツビジネスがあげられる。技術的にも先進的ではあるものの著作権の関係で世界的にはプラス的に認知されているものの日本の、特に権利者側にはあまりいい印象を持っていないということも事実である。とりわけ動画共有サイトに関して言うとJASRACは著作権料支払いで妥結はしたものの、TV局側は動画削除で妥結したものの、まだその火種はくすぶったままである。既得権益の関係もあるかもしれないが互いの理解が得られない限りそういったビジネスに踏み込めないという弊害も生まれているのも事実として取り上げなければならない。また著作権など知的財産権についても本書で取り上げられているが、まだまだあいまいなところも多く、今後は有識者会議において権利者側・メーカー側・ユーザー側双方に立った法律作り、または解釈などによるガイドライン作りが求められることだろう。
Webなどの情報は絶えず進化する。しかしそれに似合ったガイドライン作りというものを急ピッチで進めなくてはいけないということも事実である。

読書進化論~人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか~

読書進化論‾人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか‾ (小学館101新書) 読書進化論‾人はウェブで変わるのか。本はウェブに負けたのか‾ (小学館101新書)
勝間 和代

小学館  2008-10-01
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本書は私などの多読家(ちなみに私は「乱読家」)のための1冊である。
読書術というよりは読書を通じて何を為すべきかというのを勝間氏自身の体験談をもとにして書かれている。
序章「成功や自由は読書で手に入れる」
「読書による人生の疑似体験」により人は経験を手にいれ、成功した人が数多くいるという。実際に著者もその一人である。私自身は他毒を行ってまだ1年2カ月しかやっていないがそれでも着実に実感しつつある。そして成功本やビジネス本が売れる理由もここにあるのではないだろうか。
著者は小学校の頃に漫画が愛読書だったそうだが、私も実はそうである(今も昔も)。
第1章「人を進化させる読書がある」
ウェブの進化により「活字離れ」や「テレビ離れ」というのが叫ばれている。しかし見ている限り私のような書評ブログが多いように思える。実際全体的にみるに活字離れというのは実は嘘ではないかと私は思う(但し「語彙離れ」は否定できない)。しかしウェブを通じて本に興味を持った人も中に入る。そう考えると副題の答えというのは前者ではなかろうか(第2・3章でも同じことが言える)。
第2章「進化している「読む」技術」
読む技術というとフォトリーディングをはじめとした速読などの読書法がある。実は私自身も即読書を読んだことがある。この本である。

本がいままでの10倍速く読める法 (知的生きかた文庫)

著者:栗田 昌裕

本がいままでの10倍速く読める法 (知的生きかた文庫)

私が最初に読んだ速読本である。確か大学1年生の時で、その時はこれからレポート課題やゼミの論文などで本を読む機会が非常に多くなるので速読本をいざ実践しようと思った。
しかしできなかった。
思ったほど読書量が伸びなかった。
そんなことで読書も滞るようになり、大学3年生の春休みの時。ちょうど就職活動中の時期である。その時は短くても30分、長いと約50分もの間電車に揺られる毎日になる。それが何日も続くとやることもなくなり、「何かやりたい」という気持ちに駆られる。その時にやろうと一念発起したのが「読書」である。まずこれを読んだ。

ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)

著者:高山 一彦

ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」 (岩波新書)

少し早めに読んだら、頭にぽんぽんと入ってくるような感じがした。ジャンヌダルクというのは名前だけしか知らなかったのでそれに関する知識というものが手に入ったようであった。そこから読書の喜びを覚え、自分なりの速読法で数多くの本を読むことができた。
第3章「「書く」人も進化する」
それから知識を得るのはいいがだんだん忘れて言っている自分に気づいた。多読はしたのだがそれを形として残さなければ意味がない。ということで以前から開いていたブログに書評を入れることにした。形式は自分自身の感想、ただそれだけである。人が読みたい文章とかそれについてはやり始めた当時も今も全く変わっていない。自分がこうだと思ったことを書いているだけである。それでもっと読めるようにと言われても、私は変える気がない。やり方は自分のやり方を通すつもりである。実際にちょっと堅苦しいように思えるかもしれないが、自分自身の言葉で書いたらたまたまこうなったのでむしろそれでいいと私は思う。しかし文章力は上がっているとは言えないものの興味を持った本、そして関連付けられる本に出会うたびにあれこれ書きたくなってしまう。読む量が増えるにつれて閣僚も増えて言ったことが実感してきた。今のブログではもうかなり長く書いているように思える。昔は原稿用紙1枚で満足だったのがうそのようであった。

第4章「「売る」仕組みを進化させる」
書評の話というよりもむしろ自分のことについての話に言ってしまったため本章で書評に戻る。売る仕組みというと私自身もリアル書店に足を運ぶが、売れそうな商品や、有名な著者の新刊というのは多くは目立つように置かれている。それこそ山積みでこれがイチオシですよと言わんばかりに。
私は売れている本(もしくは過去にかなり売れた本)はたまに読むが、大概は酷評で終わる。むしろ自分自身で、少し立ち読みをして、これは面白いと思った本を手にとって交通機関の中、もしくは休憩中に本を読んで書評をするという形をとっているため、むしろ売れているものに迎合しない。とはいえ「書評の塊」という書評がまとめてあるブログに何度か載る機会があった(管理者様にこの場を借りて御礼を申し上げます)。
話を戻す。売る仕組みというのは絶えず変化しているが、確かに書評を見てリアル書店に行ったりamazonで購入したりする人は増えている。そう考えるとまだまだ日本における活字文化というのは廃れることはない。むしろ進化していっているように思える。

終章「これから「読みたい」「書きたい」「売りたい」と思っている皆さんへ」
私自身これからも書評は続けていくつもりだが、仕事柄続けられなくなる時もあるかもしれない。とはいえ、せっかく読書を通じて多くの縁、多くの知識、多くの好奇心をつかんできたのだからこの期に及んでやめたと言えるわけがない。当然読書・書評は続けていく所存である。とはいえsmoothさん小飼さんのようにアルファブロガーになる気も毛頭ない。自分のブログを通していくだけである。これからと思っているよりもむしろ私は「これからも」である。そして本書の最後のことば(p.232より)。


「本は、あなたの人生を豊かにし、あなたを進化させていきます。」


その本の中で何を得、何を学ぶのかということはあまり考えない私だが、本の中でどんな旅をして何を得たのかという旅で在りたい。その中でこそ進化があるのだから。

失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される

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畑村 洋太郎

講談社  2006-09-29
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本書は様々な失敗を分析し、それを今後どのようにして対処するかということを説いた1冊である。ちなみに本書では失敗を分析するために「原因」「行動」「結果」の3つのまんだらを用いている。枝葉状に原因が事細かに書かれているため何が原因かという深層まで突き詰められるところがいい。
その例示をしているのが「六本木ヒルズの大型回転ドア事故」「日本航空の連続トラブル」「JR福知山線脱線事故」「みずほ銀行システム障害・東証売買システム障害」「三菱自動車リコール隠し」「大手企業の火災事故」「JCO臨界事故」「H2Aロケット6号機の打ち上げ失敗」「JR羽越線脱線事故」の事例を挙げている。
ちなみに著者はこの失敗学を30年以上行っており、6年前に「失敗学会」というものまで立ち上げたという。さらに「失敗知識データベース」というのがネット上であるというのにも驚いた。なんと1160件もの事例(9月28日現在)があるため、これは原因分析には非常に持ってこいである。成功例も勉強したほうがいいが、それ以上に失敗を学びそれをどのように成功に結び付けたほうがいいのか、そして事件が起こらないように、もし事件が起きても最小限にとどめるにはどうすればいいのかという予防策の材料にもなるので本書も良書であり、さらにこのデータベースを最大限に活用すれば本書やこのネットの価値は見いだせるだろう。

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