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シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」

1968―世界が揺れた年

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「1968」
その年は世界的にも激動の年であった。これまで当ブログでは日本、アメリカ、そしてヨーロッパ各国について取り上げたが、本書はその総集編というべきところで1968年が始まったときから「プラハの春」、メキシコオリンピックが開催された「夏」から、アメリカ大統領選挙が行われた「秋」と時間を追って取り上げている。

<前編>
第一部「われらが不満の冬」
「革命前夜」という言葉がある。ここから来るであろう「革命運動」や事件、など歴史的な「うねり」をもっている。革命運動が起こる以前、各国は以下のような状況にあった。

[アメリカ]
度重なる人種差別、とりわけ黒人への差別は右派を中心に深刻化していった。「ブラック」や「ニグロ」をいう言葉が一般にも浸透し、黒人と白人の対立が「血で血を洗う」とまではいかなくても、それに近いような対立があった。
また、ベトナム戦争も泥沼化し、アメリカによる軍事介入に対する疑問や不満も募っていった。

[チェコスロバキア]
ソ連の圧政下にあり、独裁者スターリンが亡くなっても、同様の状況が続いた。

[ソ連]
ソ連内でも集団農業が崩壊し、いくつかの民族が「民族運動」を起こしてはソ連軍による弾圧が繰り返された。

[日本]
「1968」でも取り上げたのだが、大学における急速な授業料の値上げが起こった。しかも大学生に対する需要の増加に追いつけず、満足に勉強できるような講義を受けることができなかった。
政治でも岸政権からきた「60年安保」による、アメリカ優位の不平等条約を結んでしまい、政治不信が急速に広がった。

[アフリカ]
アメリカと同じく人種差別が深刻化していった。それも「アパルトヘイト政策」が掲げられたように国家主導で行われていた。

世界中で様々な「憤懣」が募り、そしてそれが「プラハの春」となって爆発し始めた。

第二部「プラハの春」
俗に言う「プラハの春」が起こり始めたのは年が始まって間もないときであった。ノボトニーが第一書記を解任され、後任にドプチェクが選ばれたことから始まる。
ノボトニーは長らくソ連に追従する路線に走った政治家であったが、年明けから民主化を進めるといった融和路線に転向した。しかしそれも報われることなく、3月に大統領も辞任した。ちょうど春先にあったことから「プラハの春」と名付けられ、ソ連の圧政から解放され自由を得る光明が見えてきた。しかし、そこでソ連の介入(というよりも不法侵入)により、改革の針は思うように進まなくなった。
一方ではアメリカや日本の大学生がベトナム反戦や大学に対する不満に対するデモが起こっていた。日本では大学講堂を占拠する事件も起こった。またアメリカでは「公民権運動」を発端とした黒人と白人との対立が激化していった。

<後編>
第三部「オリンピックの夏」
1968年はメキシコシティーで夏季オリンピックが行われた年であるが、そこでも男子200M走の表彰式で「ブラック・パワー・サリュート」が起こった。そのオリンピック会場となったメキシコでも同様に1968年の渦に巻き込まれていた。実質的に制度的革命党(PRI)の一党独裁政権にあった中で急激な経済成長を見せた。その一方で現在の日本にある「格差社会」がここでも起こり、PRIの独裁からの脱却を求める学生団体がデモ行進などの抵抗運動を起こしていた。
「オリンピック」でいうと、もう一つある。2月に行われたフランス・グルノーブルの冬季オリンピックである。底ではチェコスロバキアのアイスホッケーチームがソ連のチームに僅差で勝ったことで、街頭へ勝利を祝いに繰り出すほどチェコスロバキア国民が熱狂したという。「プラハの春」は政治的な要因が引き金になったのだが、このオリンピックも遠因として挙げられるのかもしれない。

第四部「アメリカ、選択の秋」
1968年秋、アメリカでは大統領選挙があった。公民権運動の主導者の一人だったキング牧師が暗殺され、民主党のカリスマとして名を馳せたJFKことジョン・F・ケネディも暗殺され、ベトナム戦争が泥沼化し、政治不信も募っていった。その中で大統領選に勝利し、新たに大統領に就任したのは、ロバート・ニクソンである。しかしそのニクソンに対する不信も少なくなく、就任式にデモを呼びかける運動も所々で起こった。
1968年の終わる12月21日にはアポロ8号が打ち上げられ、人類でもっとも月上に近づいたことで話題となり、後のアポロ11号の月面着陸のきっかけにもつながることとなった。戦争をのぞいて「激動」という言葉が最もふさわしい年、「1968」はそうして終わりを告げた。

「44年目の輪廻」

これは小熊英二著の「1968」を取り上げた時に書いた言葉である。1968年から43年後の2011年も形は違えど「激動」と呼ばれる時代だった。中東諸国を発端とした革命運動、俗に言う「アラブの春」があった。アメリカでも経済的な衰退が著しくなり、オバマ政権に対する不信も募っていった。日本では東日本大震災を発端とした原発事故により、反原発運動が急速に高まっていった。それはあたかも「激動」と呼ばれた「1968」に似ている気がしてならない。そう感じたからでこそ、この「1968」の歴史を見つめ、教訓を得るために本書、そしてその歴史を顧みる必要がある。

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第七日「リブ活動と「44年目の輪廻」」

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(6日目に戻る)

1965年から続いた一連の「1968」であるが、最終日は大学紛争や連合赤軍の諸事件の裏で起こった「リブ」と呼ばれる活動とこの「1968」の総括をつづることとする。

<リブ活動>
主に女性活動家についての活動を取り上げている。直接的な意味の「リブ」は「解放」であるが、ここで言う「リブ」は「ウーマン・リブ」とよばれる「女性解放運動」も含まれている。

ウーマン・リブとして最初に行われたのが1970年11月14日のことである。これがきっかけとなり「男女雇用機会」の是非が議論されはじめ、1985年に法律として結実となった。その中心メンバーに東大名誉教授の上野千鶴子がいた。

<「1968」総括①~小熊氏の総括>
「1968」と呼ばれた「あの時代」
大学紛争の主たる原因として挙げられるのが「学費の値上がり」と「マスプロ教育」などの教育環境の急速な変化によるものへの憤懣、そしてそれを変えて見せようとする勇気にあった。

しかし著者は「理論面の乏しさ」により、大学闘争などの活動に大きな「限界」があったという。果たして「乏しさ」が解決できればこれ以上の結果を出せたか、という疑問があるものの、理論の構築に対して改善の余地があったのは否めなかった。

もう一つは「自己表現」としての闘争である。「自己変革」をするために他人と協力、もしくは敵対しての「闘争」を起こす、政治的な意味は後付けにして、まずでてみようという考えからの「闘争」に加わったという考えである。これは2日目にセクトを転々とする人がいた事を思い出すが、ある種のファッションのように闘争に参加する人がいたのかもしれない。
しかし全員が全員ではない。
首謀者の思想に心の随から共感して参加した人もいれば、著者の通りに参加した人、あるいは友人が中心メンバーでそれに恫喝されて参加した人さえいる(あくまで推測であるが)。ともあれ数千人・数万人に膨れ上がった大学闘争が枝葉のごとく増えていった事による産物であるとするならばこの結論も含蓄がいく。

そういえば著者は1965年生まれであり、私のように「「1968」を肌で感じたことのない世代」と言える。1968年の当事者から離れた位置でそれらを分析することに価値がある、そういった世代だからでこそ見えないものもある、本書はそれを文献を中心とした研鑽によって伝えたかったのかもしれない。

<「1968」総括②~44年目の輪廻>
私がしきりに「44年目の輪廻」といったのは理由がある。今日の「反原発・脱原発」の政治運動が大規模化し、そのでもそのものが、多かれ少なかれ「大学紛争」を映しているようでいてならなかったからである。

そういったデモではないのだが、私事だが8月12日、用事で赤坂に向かっている途中で、こんな小競り合いを見た。一つはデモ車、もう一つは警官隊の衝突である。デモ車は拡声器を使いながら警官隊に向かってかどうかはわからないがあたかも「小学校の悪ガキ」と思えるような言動で罵倒する声が広がっていた。その周りにパトカーや警察官が囲み罵倒するボルテージがだんだん高まっていった。急いでたのでここまでしか見ていなかったのだが、規模は小さけれどこういったことは日本各地で起こっているのかもしれない、という感じさえした。

44年前のような過激な闘争になることはほとんどない。私たちがおとなしくなったのもあるのだが、銃刀法など当時より武器の所持そのものが厳しくなり、それを取り寄せることさえ困難なことである。ましてやそのようなエネルギーを使っている暇があったら働きたい、という感情を持つ人も少なからずいるのだろう。

歴史はそれを知らない限り繰り返される。その輪廻はいつになるかわからないが、私たちの知らなくなったときに必ず起こる。

その輪廻から脱出する方法はたった一つ。「歴史を知る」ことに他ならない。

―――

<おわりに>

これまで「蔵前トラックⅡ」では毎日1冊取り上げることが常だった。「Ⅱ」として活動し始めたときには上・下巻分けて紹介したことはあったのだが。

この「1968」はこの時代に関する本をいくつか取り上げてきたのだが、それを紹介していったときに是非「取り上げてみたい」と思った二冊だったが、ボリュームがボリュームであるため(上下巻あわせて約2000ページある)、1日で取り上げることができない。取り上げたい思いがあってもなかなかとりあられる術がないジレンマがあった。

しかし、たまたまあるTV番組を見てこの「1968」を一週間かけて取り上げようと思った。

それは「情熱大陸」で柳家三三が「島鵆沖白浪初代・談洲楼燕枝 作)」を3日かけて「通し」で演じたことである。長編作品を「通し」で取り上げてみてはどうかと思い、この1週間取り上げ続けてきた。普段あまりTVを見ないのだが、ちょうど放送されていた日はTVを観たい気分でチャンネルを回していた放送されていた。全くの偶然であり、もしこれを観ていなければ「1968」は未来永劫取り上げなかったのかもしれない。

本のページ数が多いためどこを区切り、どれを取り上げどのような感想を書くのかは普段取り上げる書評以上に悩み、同時並行でいつものような書評を取り上げることもやっていたため、よけいに難しかった。

それでもこれを取り上げることは新たなチャレンジであることから本当におもしろくもあり、書評の難しさを痛感した。もし機会があれば、本書クラスの本をまた取り上げてみたいと思う。今度もまた同じ一週間「通し」で。

最後に拙い文章を一週間取り上げましたが、いかがでしたでしょうか。告知も全くしませんでしたが、これからシリーズで取り上げるといった新しい(?)書評をやってみる機会もあり、当ブログにて取り上げることがあると思いますが、ご興味がありましたら閲覧いただければ幸いです。そしてこの一週間1記事でも閲覧していただいたみなさま、本当にありがとうございます。

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第六日「ベ平連と日本赤軍、そして七十年安保」

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(5日目に戻る)

時は1970年になろうとしていた。
昨日は1968年から1970年になるまでのこと、とりわけ内ゲバの始まりと騒乱について論じたが、ここでは1970年になり、その「内ゲバ」が激化した1970年代、そしてその「全共闘」の一部が暴走し、日本全体で「脅威」と化した変遷について綴っている。

<七十年安保とパラダイムシフト>
1日目に「六十年安保」について述べてきたが、ここでは「七十年安保」についてを記しているが、その中で「セクト」の意識や「パラダイムシフト」が起こった。たとえば「被害者意識」から「加害者意識」へ、戦後民主主義や合理主義への批判などが挙げられる。

「七十年安保」では、日米安保条約の自動延長をめぐり、これを阻止せんと各セクトがデモ行進や街頭闘争を起こした。前に取り上げた「大学闘争」や「街頭闘争」の主張の中にも同じようなものが含まれている。しかしセクトが以前のような団結はなく頻繁に「内ゲバ」が繰り広げられ、「六十年安保」よりも早い期間で収束した。

<ベ平連>
通称「ベトナムに平和を! 市民連合」と呼ばれる団体である。結成されたのは1965年の2月に結成されたが、その時はアメリカ軍の北爆(北ベトナムを爆撃)の最中だった。

そのベ平連のメンバーには小田実鶴見俊輔、さらには元陸軍軍人でありA級戦犯として起訴されたことがある佐藤賢了もいたのだという。

政治デモなどの運動の他、「朝まで生テレビ!」の元祖にあたる徹夜のティーチ・インをTVで行うこともした。

この「べ平連」の活動はあくまで「非暴力」であり、言論で訴える組織であったが、ちょうど活動が活発になり始めた時期は「全共闘」の衝突や批判などの煽りを喰らった。しかも「ベ平連」のメンバーも急速に増え、代表世話人の小田をはじめとした結成時のメンバーはほとんど交流がなかったことに心を痛めた。

それでも一貫した活動が身を結んだかどうか不明だが、1973年1月に「ベトナム和平協定」が調印され、「ベ平連」の役目を終えた。

<連合赤軍と彼らの起こした事件>
「全共闘」の活動の一部が暴走し、日本の脅威と化したのがこの「連合赤軍」だった。この「連合赤軍」はセクトのうち「共産同赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)」「日本共産党革命左派」が合体したブント系の組織であった。

そしてその「赤軍」は極左の中でも武闘派として「あさま山荘事件」や「クアラルンプール事件」などを起こした。

結成当初は各人にデモや交渉により反省を促す、もしくは迫ることが中心であったため、その意味では「全共闘」と何ら変わりはなかったのだが、1971年の年末に連合赤軍が山岳にアジト(ベース)を構え連合赤軍の団結を計ったのだが、そのなかで「総括」と呼ばれる自己、もしくは他者批判がエスカレートし、当初29人いたメンバーのうち12人をリンチして殺した事件に発展した(「山岳ベース事件」)。

その2ヶ月後には山岳ベースから下山したメンバーがあさま山荘に立てこもり、その山荘の管理人の妻を人質に約9日間にわたり立てこもったという事件である。これに関しては「山岳ベース事件」より有名になり、文献のみならず映画(「突入せよ! あさま山荘事件」など)にもなっているためここでは割愛する。

他にも1975年のクアラルンプール事件では日本政府が「超法規的措置」により犯人グループを釈放させたことは世界的にも非難を浴びた。

連合赤軍は「ブント」からでてきた「テロ組織」の様相を見せているが、連合赤軍だけではなく、結成前の「労共党革命左派」が「ダイナマイト闘争」をするなど過激な闘争を行っていた。

これらの事件でお茶の間を騒がせた連合赤軍メンバーはほとんどのメンバーが逮捕・死去し、残った1人だけは現在国際手配のなかで未だに逃亡中である。

そして長きにわたった『1968』が終わりを告げた。

(7日目に続く)

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第五日「高校闘争と新宿事件」

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(4日目に戻る)

「学生闘争」は「大学」ばかりにスポットを当てているが、大学へ進む前段階に当たる「高校」でも同様の「闘争」が行われていた。しかしニュースではあまり報じられておらず、本書と出会うまでは私でさえも知らなかった。
この5日目では「高校闘争」と「新宿事件」についてを述べる。

<高校闘争>
大学が授業料値上げや待遇改善が大きな理由に挙げられ、それが各「セクト」に分かれ、そして「全共闘」として合体し、大規模なものと化した。とりわけ昨日取り上げた「東大安田講堂事件」では今日の「大学紛争」の代表格としてTVで取り上げられることが多い。

ではこの「大学闘争」の陰で繰り広げられていた高校闘争とはいったいどのような闘争なのか。そしてそれを起こしたてる「きっかけ」とはいったいどこにあるのだろうか。

まずはそのきっかけについて記載する必要がある。
発生した時期は1969年秋、このときには大学紛争が全国に波及していた時期であり、東大・日大の紛争が鎮静化していった時のことである。

高校生はその顛末についてTVを通じてみることとなり、それに感化したもの、受験戦争の苛烈さに不満を示すもの、あるいは「非行」や校則に不満を覚えるもの、と人それぞれであるが、複数の要因が重なり「闘争」へと発展した。

もっともこの1969年では「東大安田講堂事件」により大学入試が中止された。当時高校2年生の人びとは受験生であることの空虚さを覚え、闘争にかき立てたことも要因として挙げられる。

この「高校闘争」もセクトの的に止まり、高校生をセクトに取り入れ、規模は大学ほどではないが、全国的に広がっていった。各マルや民青などの組織では「高校班」と呼ばれる下位組織もつくられた。

しかし「高校闘争」と「大学闘争」の決定的な違いは、一つに大学は政治主張も含まれた中で闘争が行われたが、高校では学校に対する不満ばかりで政治主張は見られなかった。

<新宿事件>
第一次羽田事件の後、そう大学闘争が行われていた裏で「セクト」の内ゲバが行われた。そもそも2日目に紹介した、「中核派」「革マル派」などのセクトの源流は「全学連」であり、その全学連が街頭で内ゲバを起こした。

この羽田事件の後に日大・東大闘争があり、いったんその内ゲバは中断され合体し、大学側との闘争に明け暮れた。

しかし1968年10月の「国際反戦デー」でそれが再燃した。それぞれのセクトが防衛庁(現:防衛省)や国会、新宿などで集会を行った。その中で新宿は「中核派」「ML派(共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派)」とが同じ場所で集会を行う羽目になった。

このデモや集会が内ゲバに発展し「新宿(騒乱)事件」にまでなった。政治的主張として「ベトナム戦争の加害責任」や「米軍タンク車の日本輸送阻止」といったものだった。しかしそのデモや集会がやがて新宿駅を包囲し、線路まで占拠、それにより機動隊が駆けつけ騒然となった。しかも学生だけではなく、無職の一般人やサラリーマンにまでこの騒乱は膨れ上がり、約10万人にも及んだという(翌年も同じ新宿で闘争が起こった)。

ただでさえ大学紛争により「全共闘」の支持が失われたのだが、これにより、さらに信頼を失う、その失うことも知らずさらなる暴走をはかる人びともいた。

そしてそれが、七十年代に日本を揺るがす大事件になろうとは、当時はまだ誰も思わなかった。

(6日目に続く)

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第四日「大学闘争② 日大・東大、そして本書に載っていなかった大学闘争」

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(3日目に戻る)

昨日に引き続いて「学生闘争」について詳しく述べるが、その「学生闘争」の中でも最も有名な「日大闘争」と「東大闘争」を中心に綴っていく。
その後には本書では記載されていない大学紛争をいくつか取り上げることとする。

日大闘争
今でこそ日本最大のマンモス大学として知られており、学生全体で2012年現在68,675人(学部のみ5月1日現在)もいたのだが、1955年は約3万人だった。ところが大学紛争が起こる1968年にはその3倍にあたる8万5千人まで急増させた。名実共にマンモス大学に発展させたが、設備・学習環境・福利厚生などが追いついておらず、授業も「マスプロ方式」と呼ばれる大規模講義が乱発し、それらに不満を持つ学生が出てきた。しかもこの大学生の人数倍増は当時の会頭が単独で決めたものであり、かつそれによる授業料値上げも単独で決めていた。「独裁者」「日大の帝王」と呼ばれるほどのワンマン経営だったが、学生闘争を力ずくで抑制したことにより、東大に次いで大規模な学生闘争に発展させてしまった。抑制した背景には一昨日に取り上げた「六十年安保」に日大生が活動していたことから、一切の政治運動を禁止させた。この政治運動の対象は学生のみならず教職員にも該当しており、全学連はおろか教職員組合を作ったり、加入すること自体も禁止され、その情報が会頭の耳に入った時点で即退学・即解雇をするほどだった。

その憤懣は募りに募り、1968年4月、大学会頭に向けての質問状を提出、さらに5月使途不明金に関する集会やデモにまで発展した。当時の日大は集会を行うような施設はごく僅かしかなく、あったとしても数百人入るのがやっとだった。その集会も規模が大きくなるにつれ、日本大学の周辺にまで規模を広げていった。

そんな中大学の理事会と学生側の話し合いの場が持たれようとしていた。6月に行われる予定だったが、理事会側の一方的な中止により学生側の怒りは爆発。「学生闘争史上最強」とも言われるバリケードを敷、学生闘争側は文理校舎を籠城した。その情報があってかどうかは不明だが、抗議でもは学生のみならず、教職員や父母会にまで広がりを見せた。さらにその使途不明金が国税庁の調査にて明るみとなったが、会頭は認めるどころか正当化するような発言を繰り返した。

その発言が引き金となったか、大学会頭もふくめた「理事者総退陣」の声がいっそう増した。ついに理事会側は屈し9月に交渉の場が持たれることとなり、理事会の総退陣などを約束させた。しかしそれも反故され、さらに激化。大学周辺の施設・住民にまで被害が及んだため周囲の指示が急速に低下。1970年頃に自然消滅するまでに至った。

余談であるが、テレビプロデューサー・演出家にしてコメンテーターとして活躍しているテリー伊藤氏が斜視になった原因となったという。

東大闘争
学生闘争がニュースで取り上げる際に最も引き合いに出されたのが「東大闘争」である。その要因は後で書くのだが、「東大安田講堂事件」が連日のようにテレビで取り上げたことによる。

東大闘争は他の学生闘争と異なる。一つの特長として他の学生闘争は法学部や経済学部の「文系」の学生が中心だったのに対し、東大は「医学部」が中心だった。紛争の背景がその要因としてあげられており、医学部卒業後の身分保障への不満がこの引き金となった。

身分保障についてはあまり取り上げられなかったため、ここで詳しく述べていくこととする。元々東大など医学部のある大学では「インターン制度」として医術を行う研修が存在した。しかしその研修制度は卒業後医師として役立てられるものとはかけ離れたものであり、教授も学生も不満を持っていた。それを廃止する代わりに「登録医」制度が取り入れられたが、期間や謝礼金と言ったものが変わっただけで、具体的な内容はほとんど変わっていなかった。闘争はその改善内容に対する不満にあった。

その不満により1968年1月に無期限のストライキに突入。6月には東大安講堂を占拠しバリケードが張られた。大学総長の指示により、機動隊がバリケードを撤去し、占拠状態は解かれた。

この東大闘争が一躍有名になったのはその後、多くの「セクト」がこの機動隊導入に反発し、紛争に参加することとなった。紛争が激化する中、学生側が「七項目の要求(不当処分撤回や捜査協力禁止など、民青は独自に四項目の要求を公表)」を公表し、大学側に申し入れたが、一項目を除いて受け入れることを表明したが、全部受け入れることを絶対条件としていた大学側が反発。紛争は長期化する要因となった。
やがて秋に入ると「東大解体」を旗本に、ストや紛争が泥沼化、当時文学部部長だった林健太郎が学生側に8日間も監禁され、強制的に団交を行う羽目になった。しかしその監禁の身でありながらも団交には決して学生側の意見に屈すことは無かった。

監禁から解放されると学生側は劣勢になりかけ「全共闘」と「民青」の対立が起こり、いわゆる「内ゲバ」状態に陥った。その対立により全学的にバリケードを張ることを断念。しかし「全共闘」側は安田講堂でバリケードを張って籠城をし続けた。これについて大学側が業を煮やし、1969年1月に大学総長が警視庁に機動隊を要請した。労働した全共闘と機動隊との衝突は後にTVで放送されるほど「大学紛争」を象徴させた「東大安田講堂事件」にまで発展した。この事件でついに安田講堂のバリケードが解体され「全共闘」は敗北した。しかしこの紛争はこれをきっかけに全国に広がっていった。

<学生闘争とは何だったのか>
大学紛争はいったい何だったのだろうかというと、一つに「教育環境の変化」が挙げられる。その中でも苛烈を極めた「受験戦争」とそこから抜け出した後の「空虚」、そして大学進学率の急速な上昇により、教育環境が悪くなり、かつ授業料値上げが起こったこと。その度合いが強くなったことにより不満が爆発し、半ば自然に増大していった。「高度経済成長」と絡んでいたのか、それとも「プラハの春」や「文化大革命」など世界的な「革命」と同じものなのだろうか、それは次の日以降に検証してみる。

(5日目に続く)

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第三日「大学闘争① 慶大・早大・横浜国大・中大」

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(2日目に戻る)

現在呼ばれている「学生闘争」は1965年1月に起こった、慶應義塾大学の闘争から始まる。
本書では紹介されていないが、同年9月の高崎経済大学で起こった闘争は後に「圧殺の森」でも取り上げられた。
その「学生闘争」の呼称であるが、闘争の中心が大学であることから「大学紛争」と表記していることが多い。しかし、この表記も大学教授や大学関係者をはじめとした学生闘争に批判的な人物がよく使われる呼称である。反対に学生闘争関係者など闘争を指示・実行する方々は「大学闘争」と表記することが多い。他にも最初に書いたような「大学紛争」や高校・予備校闘争も含めて「学園闘争(または紛争)」と扱われており、文献によっても表記はまちまちである。

3日目は「1968」の本の中核としてあげられる「学生闘争」、そのうちの「大学闘争」を2日間分けて取り上げるが、その1日目に1968年の前半までに起こった大学闘争を中心に取り上げる。

<慶大闘争>
1965年1月20日に次年度の新入生から学費を値上げすることが決まった。その値上げ額だが、初年度納入費が約3倍になるほどだったという。しかも大学側が一方的に決定したため、それに反発し学生の一部で闘争が起こった。しかし後述の早大や中大とは反対的に自治会自体が保守的であったため、過激な闘争になることはほとんど無く、徐々に規模を広げていった結果、2万人いた全学生のうちの半分ほどしかいなかった。

早大闘争
高崎経済大学の闘争から僅か3ヵ月後の12月に慶大と同じように学費の値上げにより、その反対運動が盛り上がったことにより「大学闘争」に突入した。
その大きな理由としては理系の拡充により大学の規模を広げるための値上げだったという。
しかも期間であるが慶大は1ヵ月も満たなかった一方で、早大は約150日もわたる長期的なものとなり、「大学紛争史上最大」とまで言われた。その値上げにより第一法学部を皮切りに様々な学部で授業のストライキや座り込み・殴り込みが起こった。2~3月の入学試験には機動隊が駐留するほどの騒ぎとなった。
その中でストライキや闘争の中心に経っていた共闘会議のメンバーが次々と逮捕していき、さらには「共闘会議」のメンバーが次々と逮捕され弱体化して行き、翌年の1966年の6月に「一端」収束された。
「一端」と言ったのには理由があり、その後1969年4月に大学本部と学生会館を占拠し、闘争が再燃。こちらも前述と同じくらいの期間続き、3年後にも再び闘争が再燃、今度学生運動に参加した経験はあるものの特定のセクトにも所属していなかった学生一人が「革マル派」により虐殺される事件にまで発展した(「川口大三郎事件」)。
こちらも収束されるが、1966年の闘争以後、早大は「革マル派」の巣窟になり、その状況が1994年に当時の学長が排除を表明するまで続いた。

<横浜国大闘争>
早大闘争が行われた同時期に学部名の変更が発端となり学生闘争が勃発した。しかし慶大や早大とは違い「大学自主管理」の名の下に行われていたという。いわゆる「セクト」らによる抗議や交渉はなく、むしろ学生と大学側の交渉や抗議といったものが中心であったため、その名が通った。

<中大闘争>
中央大学では1967年11月に起こった。この理由も慶大・早大と同じように授業料の値上げだった。
しかしこの「値上げ」を決めたのは「大学側」ではなく、「大学総長」自身の独断で決められていたため、学生側の不満だけではなく、元々ワンマン体制だった「大学側」にも不満があった(「大学側」も当然値上げは知らされておらず、表明して初めて知った)。
この学生闘争の結果、総長はこの値上げを白紙撤回した。事実上の学生闘争勝利という結果となった。

以上4大学の闘争について取り上げたが、その背景には大学側の授業料値上げがある。「高度経済成長」に伴い経済的にも裕福になり始めた理由もあれば、大学側の経営が困窮を極めたということも考えられる(あくまで推測であるが)。また大学への進学率も戦後急速に伸ばし、苛烈な受験戦争を乗り越えた空虚感、そして高校まで感じていたものとかけ離れたもう一つの「現実」、そして大学側の学生受け入れを広げる、もしくは設備充実を図るための「犠牲のより所」それを現在・未来の学生に与えるしか無かったという風潮が、学生たちにとって「たまったものではない」と言える。

そして学生闘争はさらに過激なものになっていった。

(4日目に続く)

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第二日「セクトと政局」

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若者の不満が一気に爆発した1968年
2日目は「セクトと政局」と題して、前半は学生闘争や安保闘争の中で闘争を起こした分派(セクト)を分析し、後半にはその裏で起こった政治闘争についてを紹介しながら、大学闘争までの架け橋を綴る。

<そもそも「セクト」とは?>
そもそもセクトとは何かというと、本来は「分派」や「宗派」という意味であるが、本書、及び1960年代には新左翼が数多くの分派に分かれているため、ここでは新左翼の中の分派を「セクト」として表す。
その「セクト」そのものが誕生したのは「六十年安保」が始まった1959年前後のことであり、鎮静後鳴りを潜めていたが、1968年には一気に様々な「セクト」が誕生した。

<それぞれの「セクト」>
それぞれのセクトには異なる「考え方」や訴え方が存在した。一部だが挙げてみると、

全学連(全日本学生自治会総連合)
 1948年に結成された日本の学生自治会の連合組織。下記にあるブントや革マル派などの母体。

ブント(共産主義者同盟)
 全学連を牽引していた学生らが日本共産党から離れて1958年に結成した新左翼組織。

革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)
 マルクス・レーニン・トロツキーらの革命理論を基に、帝国主義の打倒と反スターリン主義を掲げ、
 「プロレタリア世界革命」とその一環としての日本における共産主義革命を目指した組織。

中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)
 マルクス・レーニン主義を掲げる日本の新左翼政治団体。
 「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと万国の労働者団結せよ!」をメインスローガンに、日本革命・世界革命の達成と共産主義社会の実現を目指している。
 「革マル派」に似ているがトロツキーの革命理論を採用していない所が違い。

社青同解放派
 起源が日本共産党に無く、左翼共産主義ながらも「反レーニン」を掲げている。

SFL(学生解放戦線)
 六十年安保にてブントから分裂した組織。毛沢東思想を日本革命の指導理念としている。

民青(日本民主青年同盟)
 「日本民主青年同盟の目的」としている組織。日本共産党を相談相手(というよりも「協力関係」)にしており、上記の新左翼のセクトとは激しく対立した。

全共闘(全学共闘会議)
 上記のセクトが合体し、結成された総称。俗に「全共闘世代」の「全共闘」はこのことを指す。

共産党や日本社会党と言うような既存左翼ではなく「新左翼」であるが、その実はそれよりももっと左にあたる「極左」と呼ばれる組織が多いが、帰属意識はまちまちであり、一つのセクトにずっといるものもいれば、中には今日は「民青」、明日は「ブント」などセクトを転々とする人もいた。また1968年の学生運動ではそれぞれのセクトで異なるヘルメットを被り運動に参加したという。

<1と1/2体制>
1950年に、当時の「自由党」と「民主党」が合体し、現在でも残る「自由民主党(通称:自民党)」が誕生した。そのときから1993年までの38年間「55年体制」と呼ばれる時代と呼ばれた。当時自民党の議席数は3分の2に達しようとする勢いで野党第一党だった日本社会党の議席数はその半分にしか及ばなかった。そのことから「1と1/2体制」と呼ばれるアメリカの「二大政党制」とは似て非なる存在となった。

<六十年安保その後>
1日目にも書いたのだが、「六十年安保」の影響により岸内閣は総辞職となり、安保闘争は急激に鎮静化した。その後に首相となったのが池田勇人、「所得倍増計画」を打ち出し、オリンピックも相まって日本は「高度経済成長」へと突入した。後に病気により退陣をし、佐藤栄作に首相の座を禅譲した。
佐藤栄作は約7年8ヵ月もの間首相を務め、戦後最長を有した。その中で「1968」前年となる1967年12月に「非核三原則」を表明しているが、その2ヵ月前にベトナム戦争に対し、日本がアメリカ側を支援することを表明。それに反対した新左翼側が羽田空港で外国訪問阻止活動を行った。通称「羽田事件」である。それを巡って様々な場で闘争が起こっていった。

そして、1968年国公立を問わずして様々な大学にて「闘争」が起こる。

(3日目に続く)

シリーズ「1968年を知らない人の『1968』」~第一日「『1968』前夜」

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―あれから44年
私は当然生まれていなかった。
激動の時代と呼ばれる中でそれを知らない私たちはどのように映るのだろうか。1968年を見て、あることを思い出した。
「44年目の輪廻」
大規模デモ然り、政府の無策と増税然り、そしてサッカー然り、そして学府の無策しかり・・・。

4年前に還暦を迎えた世代を中心に「団塊の世代」と呼ばれるが、別名「全共闘世代」や「革命世代」など呼ばれ、そしてそれが日本経済を動かす中心的な役割を担うこととなった。

今週一週間は上にある小熊英二の「1968」の本をもとに1968年を見るとともに、44年経った「今」を見出し、そしてこれからの私たちに対する光明を見つける。

第1日目は1968年前夜として、戦後から23年間の出来事を中心に当時の大学生たちが革命に走ったきっかけ、そしてその前兆について迫ってみる。

<焼け跡から生まれた生命>
1945年8月15日正午、昭和天皇の「御聖断」により、日本は敗戦となった。その敗戦に伴いGHQの占領下に置かれ、その中で天皇を象徴とする日本国憲法がつくられ、施行された。その時代に生まれた世代は戦後の荒廃の中で育ち、そして高度経済成長に差し掛かったときに日本の状況を鑑みることができ始めた。
話は変わるが1950年代にはマガジン・サンデーといった週刊少年誌、フレンドやマーガレットの少女誌が続々と創刊、さらには月光仮面といった作品がTV放映され、それの影響もこの「1968」にあったという指摘もある。

<「もはや戦後ではない」>
この言葉は1956年の「経済白書」にて出てきた言葉である。当時は鳩山一郎が首相だった時の時代である。これから「高度経済成長」の引き金となったと言われているが、それは間違いであり、戦後復興が終わり、国際連合に加盟したことから言われた言葉である。
その後1960年、時の首相である池田勇人が「所得倍増計画」を打ち出した。そのことにより日本は「高度経済成長」が始まるわけである。戦後の貧困から脱し、経済大国への道を開いたが、その「代償」が後の1968年につながる「燻り」となった。
その「代償」は労働環境と労働組合の存在によるものである。

<アメリカへの依存と六十年安保>
その「所得倍増計画」を打ち出す前に、当時の首相だった岸伸介が「日米安全保障条約」の改定を行った。
その安保条約はアメリカ軍の駐留延長の他にも、日米共同戦線が明文化され、戦争の危険が増すことにより日本社会党などの野党の反発は激しく、国会の審議も紛糾することとなった。それだけではなく岸本人も戦前・戦中の東条内閣で重要なポストにいたことから国会どころか、国民の中でも反対運動を起こし、高まっていった。それが「ブント」や「全学連」と言った団体を中心に過激さを増していった。俗にいう「六十年安保(闘争)」の始まりだった。
国会の採決も社会党議員の座り込み排除や与党自民党内の危険を振り切った形のいわば「強行採決」と言った強引な手法で衆議院を通過させ、闘争は激化の一途をたどったが、翌年1960の6月に参議院の議決が行われることなく自然成立となった。これが引き金となり、岸内閣は退陣した。これら一連の運動も後に起こる「1968年」の引き金の一つとなった。
この「安保闘争」であるが「1968年」の後の1970年にも起こった。俗に言う「七十年安保」と言われているがこちらについては6日目に説明することとする。

<教育に対する憤懣>
「学生の学力が低下している」
昨今でも同じようなことを聞く限り、今に始まったことではない。むしろそれに導いたのは学生だけではなく、教師とその周りも同罪であった。教師側からしてみれば当時の学生に対するコミュニケーションがそれほど多くなく、むしろやらない・できないことが多かった。学生も学生で教師に対する吊し上げが起こし、教師と学生の対立が深まっていった。
それが後の「学生紛争」の大きな引き金となったのだが、教育の変化も大きな要因として挙げられる。
そしてもう一つは「受験戦争」の激しさから脱した空虚である。これについては5日目の「高校紛争」にも関連づけられる箇所が多いためそこで書くこととする。

<そして政治に対する憤懣>
そして頼りにしようとしたのが当時の日本社会党であり、日本共産党だった。しかし「既存左翼」というところだったが、あまりにも穏健すぎる、もっと言うと学生に対する声を聞いてくれないことから新しい左翼、「新左翼」へと身を投じることとなった。

そしてその衝動が1968年に爆発した。

(2日目に続く)

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