なぜデパ地下には人が集まるのか

なぜデパ地下には人が集まるのか (PHP新書)

著者:川島 蓉子

なぜデパ地下には人が集まるのか (PHP新書)

最近はあまり行かないのだが、デパ地下にはよく足を運んだ時期があった。特に北海道に住んでいた時期はほぼ毎日のように足を運び、大丸の地下やエスタ大食品街と言ったところで晩御飯を買ったほどである。東京に移り始めてからはデパートとはいってもバスで行かなければならず、通勤場所もデパートという所は1件も存在しない(あってもショッピングモールのみ)。
デパ地下にはまった時期のある私にとってデパ地下の魅力が書かれている一冊に出会ったことがない。そういった意味で本書はおもしろそうである。デパ地下にはよく人が集まるだけではなく、朝や昼の情報番組には頻繁に「デパ地下特集」といったコーナーがあるほど盛況である。本書とともにその謎について迫ってみたい。

第Ⅰ部「なぜ今、デパ地下なのか」
1.「「デパ地下」は日本発」
デパートの目玉の一つである「デパ地下」であるが、現在では「地下街」ができるほどになり、「地下」が一つのテーマパーク化している。その発端となったのが「デパ地下」であるが、これが誕生したのはいつごろかと言うと1907年、日本橋三越本店で地下食堂を開設したことから始まった。一昨年デパ地下が誕生してから100周年迎えたという計算になる。
日本でデパートが誕生したのが1904年に「三越呉服店」、現在の三越が誕生してからの歴史を観るとデパ地下とともに歴史を歩んだといっても過言ではない。

2.「デパ地下の「今」」
誕生したころは地下食堂として使われたデパ地下であるが、その名残というのは地下食品街という形で残っているのかもしれない。「デパ地下」と言うと食品を扱うということが多く第Ⅱ部で紹介をするのだが、「食品」と言っても多様なものが置かれている。
食品街と言っても食堂や生鮮市場だけでなく、おしゃれな雰囲気の店まで存在するためデパ地下を愉しむことができるところもまた魅力の一つと言える。

第Ⅱ部「“まち・みせ・ひと”から読み解くデパ地下」
1.「ちょっとした「手みやげ」を探す〜「個性」や「気持ち」を表現する」
まずはお土産品。千疋屋のような高級菓子から、ご当地のお菓子や名産物に至るまで様々なお土産品がある。特に会社近くにデパートがあるところはお得意先へ「手土産」という形で買うことができ、さらに帰省する時には親への贈り物としても喜ばれる。

2.「こだわりと高級感を表現するギフト〜「贈答品」から「ギフト」へ」
「お土産」と同時に「贈答品」としてギフトというのもある。ちょうどこの時期は「お中元」の季節なので冷たいお菓子や飲みものからフルーツに至るまで夏の暑さを和らげるものとして適している。
品物のみならず包装に至るまで様々な工夫を凝らしているため、もらう側としても包装の見栄えと中身と楽しむことができる。

3.「日常で贅沢気分を味わうスイーツ〜ブームはデパ地下から生まれる」
デパ地下は時代の先を行くスイーツがいつも売られている。
特に情報番組では取り上げられ、そこからブームになっていくという循環がスイーツをここまで進化させたのかもしれない。特に若い女性をターゲットにしながら最新のスイーツを世に出しているため、スイーツの試金石と言える場ともいえる。またスイーツ好きな男子から女性にモテるためにスイーツに凝るという人もいるため、現在デパ地下が盛況である核の一つと言える。

4.「国内外の有名ブランドが揃うパン〜デパートの個性が表れる」
今度はパンである。パンと言うと菓子パンから総菜パンに至るまで様々なパンがあるのだが、デパ地下のパンも侮れない。老舗ブランドから新鋭ブランド、人気ブランドに至るまで様々なパンが売られている。
デパ地下に関していろいろなところに入ったが、唯一行っていないのがこのパン屋である。その理由はパンなのになぜか高いからである。しかしその高さというのはブランドであったり、素材の良さであったりすることを考えるともし暇があったらぜひ買って食してみたい。

5.「夕御飯を見繕うお惣菜と生鮮食品〜デパ地下が支える日本の食卓」
私がよくデパ地下に行ったのは夕方〜夜にかけてである。その時は夕食の時期なだけに総菜が安売りになるのを見計らって買うというパターンがほとんどだった。
ただ安くなったとはいえさすがはデパ地下、スーパーの総菜品売り場とは比べ物にならないほどの値段と種類がある。
安さばかり目が行っていた時代であったが、それだけではなく和・洋・中の様々な総菜があるのでそれも魅力であった。
主婦や一人暮らしのサラリーマンにとってはもう一つの台所と呼ばれるにふさわしいのがこのデパ地下の総菜であろう。

6.「手軽で豊富なお弁当〜日々の食事と特別なシーンで使い分ける」
総菜に続いてはお弁当である。総菜が夕食であれば、お弁当は昼食である。正午から1時にかけては弁当を求めてサラリーマンやらOLやらがひっきりなしに列をなすというイメージが強い(その時間帯は残念ながら1度も行ったことがないのであくまでイメージ)。
弁当も中華弁当から幕の内、ステーキ弁当や海鮮弁当に至るまでこちらもバリエーションが豊富である。さらにレストランや料理店からお弁当を出すというのもあるため一層高級感が増す。
またこれはデパ地下とは関係ないのだが、時期によっては「駅弁」というのも売られる。普段駅でしか買うことのできない「駅弁」をデパートで購入し、食べることができるのでそれもまた一つの楽しみと言える。

7.「お招きの一品とお酒〜ハレの気持ちを込めて選ぶ」
最後は酒とそれに合う肴である。デパ地下にはワインから地酒に至るまで全世界から様々な酒をそろえている。ある時はワイン、ある時は日本酒、ある時は珍しい洋酒に至るまで晩酌を2倍も3倍も愉しませてくれる。それに合う酒の肴もあり、晩酌のお供にと同時に購入する人もいることだろう。

デパ地下はまさに「食」の宝庫と言える。しかしある疑問が浮かんだ。デパ地下の誕生は地下食堂から始まっている。これも「食」である。100年にものぼる間、デパートにおける「食」の根幹とした。これはなぜなのか。それは食べ物の貯蔵と何か関係しているのかもしれない。昔は梅干しや漬物などを貯蔵するために暗くひんやりしたところとして蔵や地下という所におかれることが多かった。これに起因しているのではないかとも考えられる。デパ地下の魅力が出てきたら、今度はデパ地下の「なぜ」についてみてみたいものである。

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「幽霊屋敷」の文化史

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

著者:加藤 耕一

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

これから厳しい夏ということで、「怪異の風景学」に続いて「怪談」シリーズとなった。いっそのこと「怪談」モノのシリーズ書評をしてみようかと考えてみようかと考えてみたり。
さて本書は「幽霊屋敷」についてである。

第一章「ホーンデッド・マンション再訪」
「ホーンデッド・マンション」と言うとディズニーランドのアトラクションの一つとして知られており、ディズニー映画のタイトルとなった。私はその映画自体観たことがなく、正直言ってタイトルを見ただけでもあまりピンとこない。
著者は本書のタイトルにある「幽霊屋敷」について様々なものを得るために東京ディズニーランドに直接足と運んだという。
昨年の春までは北海道に住んでいたので行きたいという願望はあってもそう簡単に行けるところではなかった。今は川崎に住んでいるので暇があれば簡単に行けるところであるが、どうも気乗りがしない。

第二章「それはゴシック・ストーリーから始まった」
ゴシック・ストーリーという聞きなれない言葉が出てきた。これは中世のゴシック様式から出てきており、ルネッサンス期に栄えた美術形式である。古代ギリシャやローマの文化を理想とした文化であり、それに関する美術や彫刻といったものが多く世に出た時代でもある。
本章ではシェイクスピアを中心に多くの美術や文学に関する「幽霊」について、おもに廃墟や墓所という所に着目をしている。
本章では本格的に幽霊屋敷をピックアップしているが、お化けという感じよりは美術という印象が強い。

第三章「そこには不気味な館は建つ」
怖いもの好きな人はここからどうぞ、と言いたくなる。
本章はゴシック文学について紹介しているところであるが、本章ではそのほんの一部を抜粋しながら紹介しているため、文学作品の恐怖感というのをそのまま味わえる。一部だけなのでそれに興味を持ったら紹介された作品を読むと良いので一石二鳥と言うべきだろうか。
本章の最後にはラフカディオ・ハーンの晩年のエッセイ「ゴシックの恐怖」についても取り上げられている。

第四章「ファンタスマゴリーの魅惑」
「ファンタスマゴリー」というのは18世紀に発明されたフランスの幻灯機を使った幽霊ショーのことである。
英語では「ファンタスマゴリア」と呼ばれ、19世紀のヨーロッパでは隠喩的な言葉として扱われてきた。

第五章「蝋人形とペッパーズ・ゴースト」
ここまで来るとあまり幽霊のことについて知らない人でもとっつきやすくなる。
「蝋人形の館」と言うと聖飢魔Ⅱのヒットナンバーとして知られている。では実際に蝋人形の館というのはあるのかというと美術作品として1882年にマダム・ダッソーが描いた「蝋人形館」というのが存在している。他にもあるのかもしれないが本章ではこれしか紹介されていなかった。
そしてもう一つ、「ペッパー・ゴースト」は照明技術により視覚トリックを用いて幽霊を登場させるという技術である。これを考案したのも19世紀で、1862年のクリスマスの時に初めて行われたとされている。
今やゴーストハウスのアトラクションや怖い話の舞台でも用いられているためメジャーとなっているが、主に技術としての幽霊文化という所を本章では着目している。

第六章「幽霊屋敷のアメリカ化」
日本では幽霊の出るところと言うと廃屋や誰も通らないトンネルや道路、そして樹海といったものを思いつくことだろう。
しかしアメリカなど欧米諸国では「城」というイメージが強い。なぜイメージが強いのか。それはだ一章で書いたディズニーランドの「ホーンデッド・マンション」の影響が強いからであるという。

本書は「幽霊屋敷」と書かれているが、結局のところ「ホーンデッド・マンション」に対しての文化誌を考察した一冊である。ディズニーランドに行き、そこで「ホーンデッド・マンション」を体感してからでないと本書の真髄はなかなかわからないようにできている。とはいえ幽霊屋敷に関する芸術や文学といったものをについて紹介されている作品も多いので本書を読んでから体験をするというのもまた一興なのかもしれない。

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塩の文明誌―人と環境をめぐる5000年

塩の文明誌―人と環境をめぐる5000年 (NHKブックス)

著者:佐藤 洋一郎,渡邉 紹裕

塩の文明誌―人と環境をめぐる5000年 (NHKブックス)

皆さんは「塩」についてどのようなイメージを持っているのだろうか。
良いイメージだとすれば「生命の源」「海」「ミネラルの宝庫」というのがある。
反対に悪いイメージだとすれば「高血圧の元」「摂り過ぎ注意の物」というのがある。
良くも悪くも「塩」というのは何かしら印象があるというのはある。では「塩」はどのような歴史をたどってきたのか、そしてどのような価値であったのだろうか。
本書は「塩」についてありとあらゆる観点から考察を行っている。

第一章「塩とは何か」
「塩」はどのようにしてつくられるのか、そしてどのような種類があるのかということについて知りたくなる。
「塩」は主に海や塩湖から採取している。世界にある6割が岩塩であり、残りは海塩や湖塩である。
今となっては「食塩」と言うように調味料として扱われることがほとんどであったのだが、昔は貨幣の一つとして扱われ、大航海時代の時でも胡椒と同じく重宝されたものであった。日本でも同様に江戸時代では財源確保のため塩の専売制度を導入した藩も存在するほどであった。
今では簡単に手に入る塩であるが、当時は手が出せずむしろ貴重品と同じような扱いであった。

第二章「塩が生かす生命」
最近ではキャラメルや飴といったお菓子にも「塩」というのが意識し始めた。「塩」と言うとしょっぱいという印象が強いが、それと甘さが相殺されることにより、大人の味が出てくるといわれる。新たな酒の肴、特にカクテルのお供として相性が良い。
日本では醤油や塩漬けというように塩と密着している一方で健康のための「減塩」というのが叫ばれている。生活習慣病の原因の一つに挙げられており、どうやら脂質や糖質と同じく「悪者」にしようとしているようにしか思えない。ただしその一方で、これから暑い夏の時期で「熱中症」というのが心配になってくる。そういうときだけは塩分も取りましょうという。
健康にいい・悪いというよりも塩についてもっと理解した方がいいのではというだが私もその通りだと思う。

第三章「塩は世界をめぐる」
塩は水と同じく生物が生きていくに当たって重要な成分の一つと言え、塩は潤いの源の一つともいえる。その一方で農作物といった植物にとっては「塩害」という厄介な側面もある。
日本ではあまり聞きなれないように思われがちだが、日本でも他人事ではない。台風による暴風や高波により、海の成分がそのまま農作物に影響を及ぼすということがある。
さらに黄砂も海を渡ってきているので塩分を運ぶという働きがある。しかしこの黄砂は塩分というよりも塩菌(好塩菌)というのが運ばれており、食糧保存の方法の発見の材料となるなど良い影響を及ぼしている。

第四章「塩と文明の興亡」
塩と文明というのは切っても切れないものである。メソポタミア文明崩壊の陰には塩があったとされているのがその証拠としてある。このメソポタミア文明は2つの川の間によって生まれた文明である。その川というのはトルコ・イラン・イラクにつながる「チグリス川」や「ユーフラテス川」である。この文明の崩壊というのは第三章でも述べた塩害の影響によるものとされているという。
生物として生きていくにあたり、塩というのはオアシスとなるのだが、その一方で塩が牙をむき文明を崩壊させてしまう、もしくは枯渇させるという側面があると考えると恐ろしいものである。

第五章「人類は塩とどうつきあうのか」
では「塩」は本当に有害なものかというのを考えていく。
塩は生物が生きていくに当たり重要な成分であるというのは言うまでもない。しかしその一方で塩害など私たちの生活の中で害を及ぼすという側面もあるというのは分かった。ではどう付き合っていけばいいのか。

これからの時代、「環境」という言葉にだんだん敏感になっていくことだろう。そのためには自然との共生、昔から自然を利用して人びとは暮らしていった。その考えを再考すべきなのではないのだろうかと言いたいところだが、環境問題だからと言って何かと二酸化炭素減少や節電やエコ製品に走るというのは筋違いとしか言いようがない。
今の文明を生かしながらこれからどのような共生を図っていけばいいのかというのをもっと考える必要があるのではないのだろうかと私は思う。

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F1 富士スピードウェイ 日本GPから撤退

「富士スピードウェイ 日本GPから撤退」

2007年から鈴鹿に代わって日本GPの開催地となった富士だが、今年からは鈴鹿と富士との交互開催となり、次に富士で日本GPが行われるのは2010年の予定だった。しかし、富士スピードウェイ株式会社は火曜日に発表したプレスリリースの中で「昨年10月以降の世界的な経済不況に伴う著しい経営環境の悪化と急速な経済回復の目途が立ちにくい事情などから、お客様にご満足いただけるF1日本グランプリの開催継続は、企業存続の観点からも極めて困難との結論に至りました」と語り、日本GPの開催中止を発表した(GPUpdate.netより抜粋)。

昨年の経済不況もあるのですが、元々観客からもドライバーからも不満があったことが理由に挙げられています。コースレイアウトは悪くはないのですが、鈴鹿と比べたら見劣りがしたというのは否めません。

さらに一昨年、30年ぶりに開催された富士ですが、一部を除いて雨だったのと交通の便の悪さ、一部観客席の視界の悪さと言うので不満が募り、あわや訴訟問題にまで発展しそうにまでなりました。

残念な思いもありますが、こういった不満を考えると撤退はやむを得ないでしょう。

76年もまた2年で開催中止となったことを考えると、富士は3年連続でF1をやったことがないという不名誉な烙印を押されたのかもしれません。

来年以降は鈴鹿…と思ったのですが、鈴鹿も鈴鹿で来年は開催するのか分からない状態です。

来年以降も日本GPが続いてほしいのですが…続くかどうかは鈴鹿次第ということになりそうです。

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ベーシック・インカム入門

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

著者:山森亮

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカムというのは直訳すると「基本所得」であり、労働状況や今の職業の有無に考慮せず、無条件で一定の額を給付できるというシステムである。今まさに定額給付金のことを言っているのではという声もあるが、これにも若干似ているが、この定額給付金システムを毎年のように所得として支払うというシステムをいう。世界的には約200年もの歴史を持つといわれているが、あるいはどの国が行っているのか、行っている国ではどのような効果をもたらしているのか、ベーシック・インカムのリスクは一体何なのかということについて見てみたい。
本書の内容に入る前に誤解をしないように言っておくが、決して「バラマキ」ではなく最低限の保障という観点から「基本所得」という給付を行うシステムのことを「ベーシック・インカム」という。

第1章「働かざる者、食うべからず――福祉国家の理念と現実」
「働かざる者、食うべからず」というのは、どこの国にでもある理であり、労働のなかで仕事や賃金と言った対価をもらうことができる。
しかし、働かないものもいれば「働けない」と言う人もいる。とりわけこういった時代は「派遣切り」や「リストラ」によって職を失い、明日の食事もままならないという人もいる。ましてや昨今の状況では「再チャレンジ」というのが不可能な状態にまで陥ってしまうことにもなりかねない。
ではその再チャレンジをするための「生活保護」というのが機能しているのかというとあまり機能していないというのが現実である。受給世帯が過去最高を更新しており、かつ生活保護に関する予算も削減の対象になっている。
憲法第25条に定められている「生存権」というのは本当に保証されているのかと疑われる。

第2章「家事労働に賃金を!――女たちのベーシック・インカム」
「家事労働に賃金を!」というのは1970年前後にイタリアにおいて唱えられた言葉であり、フェミニズム行動の一環として唱えられたというのは有名な話である。
今では女性の働ける、活躍できる環境というのは構築されてきているが、諸外国に比べてもまだ足りないという論者も多い。
本章ではアメリカやイタリア、イギリスでのベーシック・インカム運動をもとにして社会的な要求の高まりを主張している。

第3章「生きていることは労働だ――現代思想のなかのベーシック・インカム」
ここでは、ダラ=コスタやアントニオ・ネグリといった現代における思想家の福祉思想、ベーシック・インカム思想についてのことを言っている。

第4章「土地や過去の遺産は誰のものか?――歴史のなかのベーシック・インカム」
ベーシック・インカムの歴史は約200年も前から議論されてきたものであるという。
ケインズペイン、スペンスと言った人たちがこの思想について主張していき、醸成されたという歴史がある。

第5章「人は働かなくなるか?――経済学のなかのベーシック・インカム」
さて思想学の歴史・思想という堅苦しいものはここまでにしておいて、今度はより生活に近い観点から議論をしている。
ベーシック・インカムをすることによって最もネックになるのが「働かなくなるのでは」というのがある。
私もそれについては同様の疑問を持っており、労働せずに賃金をもらうことにより、動物で言ったら野性味がなくなるように、労働をすることで賃金を勝ち取るという切磋琢磨、もしくはサバイバルというようなものがなくなるのではないかと危惧してならない。
また財源についても疑問を呈しているが、本章では理論的にこの議論の愚かさを指摘しているが、所詮机上の空論でしかないと反論する人も多いように思える。

第6章「<南>・<緑>・プレカリティ――ベーシック・インカム運動の現在」
ベーシック・インカムの運動は世界的規模でも行われており、とりわけヨーロッパでは盛んに行われている。しかし世の中ではあまり認知されておらず、これからどのようにして浸透していくのかというのが課題となりそうだ。

ある程度の給付というのは我々庶民にとってこれ以上ない助け舟となり、使うことにより経済的な循環することにより潤うことも夢ではない。しかしこのベーシック・インカムを日本で可能と考えると私は難しいとしか言いようがない。今となっては誰もがお金がなく貯蓄もほとんどないが、景気が上昇傾向で経済的にも潤沢であった時に私たちは裕福な生活をしたかというとまずしなかった、というよりも稼いだ金を貯蓄することばかりに目が行っていた。もしベーシック・インカムをやったとするとまず貯蓄に走ることになる。こうなってしまっては金銭的な循環が止まってしまい、かえって逆効果になるのではないかというのが私の考えにはある。
良い思想なのかもしれないが日本にそぐわない、というのが私の意見である。

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脳が良くなる耳勉強法

脳が良くなる耳勉強法

著者:上田 渉

脳が良くなる耳勉強法

著者は狙って出版をしているのではないかと邪推してしまった。というのは本書が出版された翌月にウォークマンが誕生してちょうど30年を迎えたからだ
ウォークマン誕生によって音楽やラジオを聴く環境というのが劇的に変化した。昔は家や店のなかでしか聞けなかったものがあるいているときにでも気軽に聞くことができるようになった。それだけでも大きな変化なのだが、ウォークマン自体も変化しており、カセットテープだけだったのが、CDでも聞けるようになり、MDになり、そして今ではメモリで大量に聞けるようになったほどウォークマンは進化した。
また音楽のみならず語学勉強にも重宝され、NHKの語学講座を録音しては通勤・通学途中に聞いて勉強をするという光景も見られるほどだった。すなわち「耳勉」というのができた。しかしこの耳勉はウォークマンほど進化しなかったが、オーディオブック誕生により本は読む者から「聞く」ものへと進化を遂げた。
本書の著者は日本最大のオーディオブックサイト「FeBe」の運営者である。また著者はこの耳勉でもって東大に合格した。その耳勉の知られざる凄さについて紹介している。

第1章「私たちは五感で勉強している」
勉強をするというと「視覚」と「触覚」でしかないように思えるのだが、五感をフルに生かす勉強法というのがこれからの時代は重宝される。勉強をするための構成要素を著者は大きく4つに分けている。
1.「情報源」
2.「情報の入力」
3.「情報の記憶」
4.「出力」
特に重宝されるのが4.の「出力」である。最近ではパソコンのみならず携帯電話など、アウトプットツールが増えているため容易にできる。それと同時にどのようにアウトプットするのかというのも大事になってくる。
そして最後には、
5.「不足している情報を認識し、フィードバックを行い、また1.に戻る」
このサイクルによって勉強の効率は最大限に増大する。

第2章「音で脳の個性を生かす」
ここから耳勉の本懐について迫っていく。
著者は苦手なことに集中できなかった過去があった。そのことから他人より学習速度が遅れ、次第に平均を大きく下回るようになってしまった。その時に出会ったのが「耳勉強法」である。さっきまで行っていた「耳勉」とはまさにこれのことを言っている。
脳の働きというのは個人差が激しく、同じ働きをしている人というのはほとんどいない。そこで脳の働きに合わせて個性を育てる勉強法には「耳勉」が生かされる。
本章では脳科学の観点からみた「耳勉」の強みというのを余すところなく紹介しており、さらに五感のなかで最も優位感覚はどこなのかという「優位感覚チェックテスト」の簡略版を掲載している。自らどの感覚がいいのかというのが一目でわかるので、非常にありがたいところである。

第3章「耳勉強法を始めよう」
本格的に耳勉のやり方、そして耳勉の種類という所について紹介している。
本書の著者が運営をしている「FeBe」というサイトはオーディオブック中心であり、とりわけビジネス本のオーディオブックに特化をしている。それだけではなく読みづらい文芸作品やニュース、講演録に至るまで置いてある。
オーディオブックにも種類があれば、聞き方にも種類がある。例えば歩きながら、仕事をしながら聞くという「ながら聞き」、集中して聞くこともあれば、文章を追いながら聞くというのもある。一度聞くだけでも得るものは多いのだが、それを強固なものとしていくために何度も聞くというのもある。
「耳勉」と言うだけでもたくさんの聞き方と、ツールが揃っているため飽きることはない。

第4章「耳勉強法を実践しよう」
ここではオーディオプレイヤーの選び方から、ヘッドホン・イヤホンの選び方、さらにはオーディオブックサイトから、倍速ツールに至るまで耳勉のより多く、深く、楽しく実践できるツールが目白押しである。

本書はウォークマン誕生から30年の節目として相応しい一冊と言える。これからウォークマンというのがただ単に「音楽を聴く」という所から「本を読む」もとい「本(の内容)を聴く」という形態に進化するのではというのがあるからだ。私も「FeBe」のサイトの一利用者であるがオーディオブックのみならず
「耳勉」は大きな可能性を秘めている。これからどのように浸透していくのかが楽しみである。

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飲酒と健康―いま、何を、どう伝えるか

飲酒と健康―いま、何を、どう伝えるか

著者:鈴木 健二

 

もう20歳過ぎているため飲酒は飲んでも大丈夫なのだが、法律で禁止されているとはいえ未成年でありながらも飲酒をしたという経験のある人は少なくないことだろう。特に祝い事で家族と一緒に飲んだりする人もいれば、大学のコンパで酒を飲むという人もいる。その風潮を考えるとするとこの「未成年は飲酒禁止」というのは、一体何のためにあるのだろうかといささか疑問を持ってしまう。
脳細胞の減少というのが主だった印象なのかもしれないが、本書では他にも害する側面があるという。

第一章「アルコールの基礎知識」
アルコールと言うと適度に飲めば「百薬の長」と言われ、程度が過ぎると「百害あって一利なし」と言われる。
しかし著者にいわせれば「脳を麻痺させる薬物」と言われている。アルコールを悪者にしているなという考えも起きるが、集中力を散漫させる、緊張感を緩和させることを考えればあながち間違いではない。

第二章「飲酒の急性影響」
飲酒は二通りの影響を及ぼす。その中でも本章では「急性アルコール中毒」に属する急性的な影響について書かれている。
私も大学の時に体験したことがあるのだが、酒のなかでもビールやカクテルのイッキから、日本酒や焼酎のイッキまで体験したことがある。今はさすがにやらないし、やりたくもないのだが、一気に飲むことにより、アルコールを吸収しきれずに急性アルコール中毒になり、最悪死に至るというケースもある。一気飲みは絶対禁止とまでは言わないが、相手に配慮をともなって楽しく酒を飲むということが肝要であろう。

第三章「飲酒の慢性影響」
アルコールは急に飲むだけでも危険だが、もう一つ慢性的な影響にある。次章で述べるアルコール依存症もその例の一つである。
それだけではなく脂肪肝と言った内臓に関する病気にもなるという。

第四章「アルコール依存症」
慢性影響の最たるものと言うと「アルコール依存症」である。特に「酒」をストレス解消やいやなことから逃れるためにすがる人が多い。
このアルコール依存症は厄介で、脳的にも精神的にも多大な悪影響を及ぼすだけではなく、精神的なカウンセリングも必要なことからほぼ一生付き合わなくてはいけない病気であるという。

第五章「子ども、家族を苦しめる親の飲酒」
親の飲酒が子どもに悪影響を及ぼすというのは考えにくいが、アルコール依存症によるDVというのもあり、そのことによって家族間でギスギスとした空気を作る。純粋無垢な子供はそれに強く影響を及ぼし、「アダルト・チルドレン」というのを作ってしまうという結果になる。

第六章「アルコールがもたらすその他の問題」
妊婦は酒を飲んではいけないとされている。それはなぜなのか。それは胎児にあるという。胎児性アルコール症候群(FAS)のがあり、子供の顔の輪郭づくりから、行動障害にかかることがあるという。

第七章「子どもの飲酒実態」
「お酒は20歳になってから」という張り紙やCMを誰もが1度は見たことがあるだろう。
しかし酒を飲む子どもたちの実態について調査結果について考察を行っている。ひとりで飲んだり、友達と飲むというのは少ないもののいるというのには変わりはない。それ以上に多かったのが冠婚葬祭のとき、未成年でも「無礼講」というのが働くのだろうか。

第八章「アルコール乱用の子どもたち」
未成年のアルコール乱用の現実を実例をもとに紹介をしている。特に不登校や引きこもり、薬物乱用と同じような扱いのようにしているように思える。確かに「未成年の飲酒」というのは法律で禁止されており、科学的にも個人差はあるが悪影響を及ぼすというのは実証されているが、本章を見る限りでは「飲酒=悪」という風潮を作りだしてはいないのだろうかといういささかの疑問を生じる。

第九章「なぜ子どもの飲酒は駄目なのか」
脳や精神的な観点から悪影響を及ぼしやすいとされている未成年の飲酒。その大きな理由の一つに挙げられるのが「成長期」というものにある。脳科学的にも内臓と言った肉体的にも発達檀家にある未成年が毒性のあるアルコールを摂取するというのは肝臓は無論のこと、知能に至っても成長の妨げになるという。

第十章「子どもの飲酒をなくそう」
いきなり「酒を飲みすぎる日本人」というのが印象を受けた。しかし日本人はそんなに飲み過ぎているのだろうか。日本や焼酎などの酒の文化というのは昔からあるのに、である。日本人の飲酒量は増加しているとはいえ欧米諸国には及ばない。ましてや他国と比べるのは場違いなのではないかと考える。

本書は飲酒の危険性について警鐘を鳴らしているが、「飲酒=悪」という印象がぬぐえない一冊であった。
酒は度が過ぎると「百害あって一利なし」であるが、自分の身体に合わせて上手に付き合い、料理とともに楽しく飲むことこそ「酒」を愉しむことができる。

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「自分だまし」の心理学

「自分だまし」の心理学 (祥伝社新書121)

著者:菊池 聡

「自分だまし」の心理学 (祥伝社新書121)

「だまされる」と言うと良い印象をもたれない。というのは「詐欺」というように、だまされて相手にとって害することを行う、もしくは私利私欲によって人をだますというような印象が強いからである。
本書は「だまされない」方法を知るのではなく、なぜ「だまされる」の化というメカニズムについて紹介している。

一章「なぜ人は「だまされる」のか」
「だまされない」と思っても人は自らの記憶や無意識な力によってだまされるものである。
しかしそれを認めようとしないというのも困りものであり、「だまされる」ということへの抵抗感が時として「うつ」ということになりかねないのである。
ちなみにこの「うつ」というのは厄介なものであり、物事をすべてネガティブに考えてしまうことにある。何でも自分に原因があるとし、自らの力不足を嘆き、最悪自害に至る。今日急増している精神的な病とはいえ油断は禁物と言える。詳細については「うつ」に関する本でたっぷりと語ることにする。

二章「人は無意識のうちに、自分で自分をだましている」
第一章で「無意識な力によってだまされる」と言ったがこれはどういうことなのかということを述べている。
だまされるものとして代表格に挙げられるのが「噂」というものである。その論拠として、他人から見聞きした情報を自らの意見や観点というもので歪曲をし、相手にまた同じ「噂話」として情報を流す。そういうことからそのうわさが根も葉もないようなものになっていることも知らずにあたかも本当のことのように受け入れてしまう。
直観や思いこみという主観的なものについても「(脳や情報に)だまされる」というのがあるので、世の中そのものが「だまし合い」というのだろうか。

三章「誰もが、自分に都合のよい「思いこみ」をする」
人は誰もが思いこみという「先入観」というのがある。これにより「だまされる」という。その思い込みというのはどのようにしてできているのかというと、
・自ら得た情報
・自尊心
というのが多いように思える。自分を過大評価する、自己欺瞞をするというのがこの要素から「思いこみ」に変化させているのではと考えられる。

四章「無意識のだましと、上手に付き合う心構え」
意図的な「だまし」よりもたちの悪い無意識のだまし。それに惑わされない方法というのはまずない。それは「だまされない」ように意識しようとも、無意識のうちに「だまされている」わけである。
ではどうすべきかと言うと「うまく付き合う」しかない。
本章ではその心構えについて伝授しているところであるが、おもに「ポジティブ」と「自己啓発」というのがカギとなる。
だましと上手に付き合うためには、自分の都合がよいように「だまされる」というのが大事になるのかもしれない。

五章「「自分のだまし方」を身につければ、物事はうまくいく」
「だます=悪」
こういう図式が蔓延しているが、だまされるというのは必ずしも悪いことではないというのは著者の意見であり、私もそう思う。
本章では「あるある事件」の時に陳謝すべきでなかったと主張している。ある種の不思議さはあったのだが、本書の考えをまとめていくと確かにそうだなと考えてしまう。
嘘の情報とはいえどその情報を受け取るのは自分自身である。その情報にだまされるというのは自己責任であり、情報を流す側はただこういうものがあるということを伝えるだけで、それを正しいのか判断するのは受け取る側が決めることである。すなわち自分自身が正しい情報を判断する力があるのかどうなのかというのが本章に込められた疑問であり、嘘の情報だと言って情報を与える側に「この情報は嘘だ」と断罪するのはあたかも正しいように見えて、実は間違いなのではと考えられる。
あるある事件については確かにTV局も悪いことであるが、もっと悪いのはその情報を鵜呑みにした我々であろう。

六章「おたくこそ、だましのリテラシーの達人だ」
特に日本のサブカルチャー(一部ポップ・カルチャー)というのは「だまされる」という要素を持っているものが多い。特にSFモノや絵空事を心から楽しめる文化というのがある。それをディープに楽しんでいるおたくこそ尽くせるものへの熱き心と、周りの雑音に惑わされない冷静な考えの持ち主なのではと主張している。

「だまされる」というのが悪と考えている人がいたらぜひ本書を読んでみると良い。また自分が信じられない、自分のことが分からない、もしくはネガティブ思考になっている人も本書は自らの考えを変える糧となるだろう。「だまされる」という考えが180度変わる一冊であった。

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教養脳を磨く!

教養脳を磨く!

著者:茂木 健一郎,林 望

教養脳を磨く!

教養というのは、知識を自分の思考でもって落とし込んで、新しい考え方を身につけるというような手法である。本書はイギリスにおいて「知のカルチャーショック」というのを受けた2人が新しい「教養」について縦横無尽に対談を行っている。

序章「教養という可能無限」
脳科学者の茂木氏がイギリスで体験したこと、そして「教養」に関する可能性について書かれたところである。そして対談の相手である林氏への印象と対談での感触についても1ページ程度であるが感想を記している。

第1章「ケンブリッジ式「教養脳」の磨き方」
林氏はケンブリッジ大学に1984年〜91年までイギリスに滞在しており、その中でケンブリッジ大学にも留学をした経験がある。目的は日本文学史に関する蔵書目録を作るためであったという。
目録を作るためであれば冊数によるがそれほど時間はかからないだろうと考えてしまうのだが、その冊数が1万冊にも上るのだから驚きである。
しかし、その編纂作業のなかで書く力、教養、そして何よりもスペシャリストの強さというのを肌で感じたそうだ。
最後には古典からみたメディア論批判についても取り上げられているが、近視眼的なメディアの捉え方について批判をしている。

第2章「古典が育てる「教養脳」」
第2・3章は「古典」の読み方と「古典」の特性というものを対談している。
古典文学と言うと、古い言い回しが多いためとっつきにくく、古典にあまり触れていない人にとっては読むこと自体が苦痛でしかないものになってしまう。
しかし、古典はその時代背景から心情など、多彩な表現を用いて綴っており、日本語をみるとしても格好の材料となる。
本章ではどのような古典を紹介しているのかというと、「荻窪物語」を題材とした「古今黄金譚」というのを取り上げられている。
「お食事中の皆様、大変失礼をしました」
というような内容である。
もう一つの古典としては「音楽」である。こちらは茂木氏が音楽と脳に関していくつか著書があることが起因しているのだろうか。

第3章「「教養脳」的に古典を読んでみる」
古典の読み方というのは様々である。本章では「教養脳的に」と言っているがこれは一体どういう方法なのだろうか。国語の授業では現代語訳に翻訳をするということ、そして文章から心情を記述することばかり目に行きがちであるが、本当に古典を愉しむとするならば、古文にある文章そのものから感動を得る、論理的というよりも文章を音楽としてとらえることによって文章そのものの楽しみが得られるのではないかというのが本書の対談において紹介している。

第4章「日本の「教養脳」を磨こう」
教養脳を磨くためにどうするのか、そして教養の脳の理想形はどうなのかということについて対談している。
簡単な知恵では太刀打ちできず、知に付加価値をつけるということというのが主としている。
そして面白かったのが理想として「アカデミックな変人」と呼んでいる。変人と言うのもいろいろあるが、不謹慎なものなのか、いびつな形の物を考察できるような人材であるべきなのかというのはどちらでもないのか、片方なのか、あるいは両者なのかというのは定かではない。

教養というのは何かというよりも今日本に蔓延っている常識をイギリスから学んだ教養でもって打ち破り、新たな形の強要とは何かというのを本書で紹介している。
私も教養本についていくつか読んだことがあるが、これほどまでに縦横無尽な対談と、不謹慎なところまで言及をしている本はない。教養という言葉の新たな可能性を見出した一冊と言えよう。

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使える!ギリシャ神話

使える!ギリシャ神話  /斎藤孝/著 [本] 使える!ギリシャ神話  /斎藤孝/著 [本]
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ギリシャ神話はこれまで1冊しか取り上げておらずどのような神がいるのかというのはゼウスやヘラというようなギリシャについてあまり知らなくても名前だけであればわかるというようなところまでしか知らなかった。ギリシャ神話は宗教を超えて幾千年もの年月を経て語り継がれており、日本神話やローマ神話と双璧をなす、というよりも超えるほどの神話である。
本書のタイトルのようにこの神話がビジネスに使えるというのだから驚きかもしれないが、旧約聖書や新約聖書、はたまたは日本神話といった古典からビジネスのヒントが見つかるということを考えるとなんら不思議ではない。ではギリシャ神話がビジネスの世界においてどのようにして役に立つのかというのを見てみよう。

第1章「「願望の絞り込み」ができる人が成功する」
ギリシャ神話には人間におけるすべての「失敗」がすべて登場するという。「すべての失敗」と言ってもビジネスにおける失敗なのか、人生における失敗なのか、聖書にある人間としての「原罪」なのだろうかというのがはっきりしない。ただし、本書はビジネスにおけるギリシャ神話であるので前者と言うべきなのだろう。
願望の絞り込みの代表として「ミダス」を例に出している。
ミダスはフリギア(現在のトルコ)の王であっただけではなく、触ったものすべてが黄金になる力を持っていることとして知られている。
ミダスはその黄金にかえる力という願望を絞り込んで化なったという所から本章で紹介されている。

第2章「人生の結び目を作ると踏ん張りがきく」
次は「ゴルディウス」である。ゴルディウスはミダスと同じようにフリギア王を名乗っていた。初代がゴルディアスでそれをミダスが受け継いだとされている。
本章では非常に有名な「ゴルディアスの結び目」というのが紹介されている。

第3章「社長のスケール感覚をあなたは持っているか?」
こちらはまさに失敗学と言うべき存在である。本章では「パエトン」を例に出している。
パエトンは友人から「太陽神の子」ではないといわれ、自らを「太陽神の子」であると証明するために「太陽の戦車」を操縦した。しかしそうじゅうに失敗し、ゼウスの怒りを買い雷に打たれ悲劇のうちに亡くなった。

第4章「権力者という神々に刃向かうときの心得」
ここではアラクネについて取り上げられている。当時の権力者はというとアテナ(知恵、芸術、工芸、戦略を司る女神であり、オリュンポス十二神の一柱である)となっている。
アラクネは機織りの達人でありその実力はアテナをも凌ぐほどだと豪語するほどであった。それについてアテナは怒りを覚えるも彼女の実力を認めていた。
しかしアラクネはゼウスの不実さを織り込んだタペストリーを作ったことにより、己の愚行を覚え自害。トリカブトの汁を撒いて蜘蛛に転生した。このことが蜘蛛の誕生の源となった。
刃向かいたいことは誰しもあるが、決してアラクネのように陰湿なことはするなということだろう。

第5章「モテる力が、人間関係の開かずの扉を開ける」
ここではヘルメスのことについて書かれている。
ヘルメスと言うとゼウスの息子であり、旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神である。
ヘルメスとモテる力とどう関係があるのかというと、「アポロンの牛」や「アルゴス殺し」と言った密命における窮地からの脱出方法について紹介している。本章ではその中から「アポロンの牛」が取り上げられている。

第6章「あえて矢面に立つ経験が、自分を進化させる」
プロメテウスと取り上げている。
プロメテウスについては「ギリシア神話入門―プロメテウスとオイディプスの謎を解く」の書評で取り上げたので省略。
プロメテウスがゼウスの怒りを買うのを知ってて、人間に火を与えたという侠気について、矢面に立つ経験とすり合わせている。

第7章「悲劇を甘んじて受ける力が評価を上げる」
オイディプスのところである。オイディプスも前章で取り上げた本の書評において取り上げられているので省略。
自らの罪悪と悲劇を受け、目を潰し悲惨な人生を歩んだまま死んだとされている。

第8章「「祝祭感」のある人は、人気者になる」
「祝祭」と言うと「ディオニソス」しかないだろう。ディオニソスは豊穣とブドウ酒と酩酊の神であり、ローマ神話における「バッカス」と同一視している。
吹奏楽でもこの神を題材にした「ディオニソスの祭(F.シュミット作曲)」というのがある。

第9章「人を育てる妙薬は「期待し続ける力」にあり」
「期待し続ける力」としてピグマリオンが取り上げられている。
現実の女性に失望し、自ら理想の女性の彫刻し、それを愛し続けたキプロスの王であった。ずっと理想の女性の像が生命を吹き込んでくれればと思い続け、やがて衰弱していった。
それを見かねたアフロディーデという女神がその像に生命を吹き込んだという話を指している。

第10章「交渉を有利に進める究極の「政治力」を身につけよ」
「交渉」というのにヘラを取り上げていいのだろうかといういささかの疑いがある。ヘラはご承知の通りゼウスの正妻であり、ゼウスの浮気に対して鋭い嗅覚を誇り、その上嫉妬心も強く愛人やその子供に凄惨な復習をするという残酷な女神として知られる。「政治力」や「交渉」と言うと暴力の手を使わずに行われるものであるため、ヘラはそれとは程遠いとされているが、前述の「浮気に対する嗅覚」を「危機察知能力」と捉えるなど、政治力について置き換えているところが著者の巧みなところかもしれない。

第11章「「自画自賛力」をつければ人生が好転する」
ここではナルキッソスについて取り上げられている。
ナルキッソスはギリシャ神話の中でのとびきりの美少年と知られている。「ナルシスト」という言葉の語源になるほど自画自賛の強かった。
しかしその自画自賛は自らそうさせたのではなく、アフロディーデの贈り物を侮辱した罪により、他人を愛せなくさせ、自分しか愛することのできないようにさせた。そしてナルキッソスは水の中に映る自分しか愛せなくなり痩せ細って死んだ。
本章は「自画自賛」を肯定的に扱っているようだが、自分の罪からそうなったということだけは付け加えておかなくてはならない(無論本章でも取り上げられているが、あえてここは強調する)。

第12章「自分の「ベスト12の仕事」を書き出してみよう」
ここでは「ヘラクレス」について書かれている。
ヘラクレスは生まれる前からヘラの憎しみを買い、生まれたときから虐待と思わせるほどのことを行った。それを償おうとしエウリュステウスに仕え「12の功業」などを果たしたとされている。
あえて苦難の道に行くという意味合いの「ヘラクレスの選択」はここから来ている。

第13章「「好奇心を封印する技」が現代に生きてくる」
ここでは2人の女性が登場する。「パンドラ」と「プシュケ」である。
パンドラは「パンドラの箱」のエピソードからきているのでここでは割愛するが、「プシュケ」については少し取り上げようと思う。
プシュケはある国の王女であり、その美貌はアフロディーデをも凌ぐほどであったという。それを憎んでかアフロディーデは様々な仕打ちを行った。中でも自らの美貌を補うために冥府の女王ペルセポネに美を分けてもらうようにプシュケに命じた。その中でペルセポネから箱を受け取ったが絶対開けるなと言われた。好奇心から開けてしまったが、その中身は「美」ではなく「死」という名の冥府の眠りであった。それを見かねたエロースは眠りを箱に集めゼウスに頼み、ようやく和解したという話である。簡単にいえば「パンドラの箱」と同じく「見るな」というタブーを犯すなということを言っている。

第14章「集団を動かしたい人に、必要な力」
最後に相応しくゼウスを取り上げている。ゼウスは絶対神と知られる一方で浮気癖の激しい好色男であった(それによりヘラの怒りを買うこともたびたびあった)。
簡単に言うと絶対神としての威厳のある一方でこういった好色にふけるといった一面、もっと言うと意外な一面というのがあった方がいいというのが本章の意見であろう。

様々な神について紹介したのであるが、本書はビジネスにおける力をギリシャ神話の神々に学ぶかということが狙いとしているが、文章にしても、紹介にしても、ギリシャ神話に関する入門書という側面でも役に立つ。ビジネス書というよりもギリシャ神話に興味を持ち始めた人にはお勧めの一冊と言えよう。

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